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官庁訪問はイカゲームだった──15年前のオワハラと内々定の現場

15年ほど前、私は中央省庁一択で就職活動をしていた。民間企業の説明会には一度も足を運ばず、スーツを着て向かう先はいつも霞が関。そのころの就職活動の山場が「官庁訪問」である。今となっては懐かしいが、当時は情報収集も公式なものを除けば2ちゃんねるくらいしかなく、消耗する体験だった。そしてその経験は、いま話題の「オワハラ」として言語化されていることに驚いた。


そもそも官庁訪問とは何か

国家公務員試験には、筆記試験と人事院面接という二段構えの選考がある。しかし実質的な採用活動は、その間に挟まった「官庁訪問」によってどこで働けるか、が決まる。

各省庁は筆記合格発表の前から説明会やセミナーを開催し、訪問解禁日以降から面接が実施される。表向きは「職場見学」や「業務説明」だが、誰もが心得ている。あれは面接です、笑。そして人事院面接はその後に別途行われる、いわば形式上のプロセスに過ぎない※。※個人的な見解です

ちなみに、1〜2年生を対象とした省内見学、インターンや少人数でのセミナーも各省庁で実施していて政策研究会的なものも省庁独自に実施していることがあるので、よくHPを見ておく必要がある。(お察しのとおりこの辺から良い学生※は目を付けられている。)※当時は東大法学部生、個人的な見解です

訪問先は中央省庁だけでなく、税関や入国管理局(現、出入国在留管理庁)といった出先機関も含まれる。自分は2年のときに航空局も説明会を受けた。省庁は前年から説明会を重ねているようで、訪問解禁日に、即面接から始まる印象だった。一方、行政機関は訪問当日にも丁寧な説明会を設けているところが多かった。


解禁日前夜の着信、3件

訪問解禁日の前夜、携帯に着信が3件入った。折り返してみると、いずれも出先機関の人事担当者からだった。「よろしければ訪問にいらっしゃいませんか」という、穏やかだが明らかに意図のある誘いである。

おそらく仕組みはこうだ。筆記試験の合格発表前に、おそらく人事院が点数順?の名簿を作成する。各省庁・機関の人事担当者らにその名簿が共有閲覧され、志望者に直接コンタクトを取ることができる──そう推測している。電話口の声には、どことなく「こちらはあなたの点数を知ってるから、わざわざ連絡していますよ」という余裕があった。


朝8時半、大部屋に100人

訪問解禁日は、志望先の省庁に向かった。集合は朝8時30分。案内されたのは大きな会議室だった。

すでに100人近い就活生が椅子に座って待っていた。部屋の片隅には内線電話、その前には担当者が座る。当日のスケジュールは一切示されない。ただひたすら待つ。

しばらくすると内線の音。番号で何人かごとに呼ばれる。連れて行かれた先には、4〜5のブースとそれぞれに面接官。席に着くと、比較的フランクな雰囲気で会話が始まる。志望動機、関心のある部局の仕事、大学での専攻、そして──「併願先の志望順位は?」という問い。「第一志望です」以外のことばは発してはならない。「何度もこちらのセミナーにお越しいただいているようですね」というコメントもあった。30分〜45分ほど話して、「部屋に戻り、連絡があるまでお待ちください」。

面接の形式はさまざまだった。個室での個別面談もあれば、集団面接、グループディスカッションもある。そんなことを3〜4回繰り返す。そしてその合間は、ひたすら大部屋で待ち続ける。

ちなみに、面接は回を追うごとに担当面接官の年次・役職がどんどんあがっていく。総合職であれば局長級や審議官級、一般職だと企画官や専門官が最終面接に登場すると言われてた。


イカゲームの始まり

何度か面接を繰り返すうちに、ある変化に気づいた。

大部屋にいる志望者の人数が、少しずつ減っている。

実は面接を終えた後、行き先は2つに分かれていた。ひとつは大部屋、「お疲れ様でした、また戻ってお待ちください」。もうひとつは、エレベーター前まで面接官に丁寧に見送られ「何かありましたらまたご連絡します」と告げられて解散。後者を当時は「エレオク(エレベーター見送り)」と呼んだ。

それに気づいた瞬間から、大部屋の空気が変わる。それまで互いに距離を置いていた就活生たちが、急に同志になる。「さっきの面接、何を聞かれた?」「次は何人呼ばれるんだろう」。情報交換が活発になり、独特の連帯感が生まれる。大学や学部・アルバイト先も含めて素性を明かしあうことで、グループディスカッションなどはやりやすい雰囲気が生まれた。見知った顔の人が戻らず、脱落したことがわかるたびに、残った者は静かにそれを悟って、結束が一層深まっていく。

今思うと、イカゲームだった。

初日の解散は夜19時ごろ。「また明日来てください」と告げられる。翌日も、その翌日も、同じことが繰り返される。


2日目の夜に見たもの

2日目の夜が、今でも一番印象に残っている。

夕方、大部屋に内線が入り、すでに同志となった何人かが名前を呼ばれた。いつものことだ、と思っていた。残された私たちは「明日もまた来てください」と解散を告げられる。

同志で会話をしながら玄関へ向かうと、守衛室の前で、先に呼ばれていった仲間たちが担当者と話し込んでいた

彼らは玄関でお見送りされていたのだ。部屋に戻ってくるのではなく。担当者に「なぜですか。どこがいけなかったのですか」と涙ながらに訴えていた。

思い返せば、その方たちには共通点があった。大部屋での待機中、周囲の就活生とあまり会話を交わさない様子だった。情報交換の輪には加わらず、静かに本を読んだり、携帯を見たりしていた。良し悪しではないと思う。あの濃密な3日間の中では、そうした細部まで記憶に残っているし、そうした異質感はどう受け止められたのだろうか。そこは体育会系な省庁だったので。


そしてオワハラへ

3日間のイカゲームを終えて。残っていたのは15人ほどだったろうか。それぞれが別の部屋に呼ばれた。

部屋に入ると、担当者が静かに口を開いた。

「内々定を出そうと思っています。ただ、併願先の選考については、この場で辞退していただけますか?」

私は即答した。「はい」と。

すると職員らが働くデスクへ通され、受話器を渡された。併願先を告げると担当者が併願先の人事担当課の電話番号を調べてくれる。私は電話をかけ、「他に決まりましたので、辞退させていただきたいのです」と伝えた。

相手方もさすがに手慣れていた。「承知しました。正式な辞退届は、後日郵送でご提出ください」。

──そう、電話一本では正式な辞退にならなかったのだ。辞退の意思は伝えた。しかし書類を送るまでは、法的にも手続き的にも、辞退は完結しない。オワハラを言いつけられた学生の上では、採用をめぐる静かな空中戦が繰り広げられていた。

2件のお断り電話を終えると、担当の面接官は満足そうにうなずいた。大部屋に戻ると、また同志が減っていた。併願先に辞退申し出をしなかった人たちだった。その後呼ばれた部屋では、国会議事堂がよく見える窓の大きな部屋で面接官と天下国家(ちょっと盛ってます)やくだけた雰囲気の会話、これからよろしくという話があった。
それから大部屋に戻ると、今までの面接担当官がほぼ全員、笑顔で部屋に入ってきて、そしてドミノピザとコーラが運ばれてきた。

ウェルカムトゥ、○○省。
あの3日間のイカゲームは、こうして終わった。


後になってわかったこと

終わってみて気づいたのは、あの3日間がただの選考ではなかったということだ。

訪問が複数日にわたって続くのは、受験生を省庁間で取り合わないための仕組みでもあった。ある省庁の訪問中は、他の省庁の面接には物理的に行けない。朝から夜まで拘束されれば、当然そうなる。
普通、本命先は初日に訪問する。そんな人は拘束しておきたい。

そしてオワハラ──内々定と引き換えに他社・他省庁の辞退を迫るやり口──は、当時は「普通のこと」として誰も疑問を持たなかったし、ハラスメントに類型されてもいなければ、言語化されてするいなかった。私自身も、即答で「はい」と言った。むしろ内々定が嬉しくて、それどころではなかった。

いまこの構造を振り返ると、就活生が圧倒的に弱い立場に置かれていたことがよくわかる。情報は非対称で、スケジュールは不透明で、断れば終わりという緊張感が漂っていた。それでも当時は「そういうものだ」と受け入れていた。

15年前の話だ。オワハラへの批判も高まっている。情報はSNSであっという間に拡散される。苛烈な働き方像が定着する省庁の人気も下がっている。ただ、無事就職できた人は声を挙げない。その必要がないから。官庁訪問は、今もあまり形を変えずに残っているのではないだろうか。

学生のとき、城山三郎の『官僚たちの夏』を読んだ。昭和初期の官僚のリクルーティングは、東大のゼミの上下関係などを通じたリファラル採用だった。そこから平成にかけて変わったのは、官庁訪問という透明感ある制度ができたこと。

あのドミノピザの味は、もう覚えていない。パノラマで見た国会議事堂と、見送られていった同志たちの後ろ姿は、なぜかいまでも目に浮かぶ。

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