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【最適化社会】なぜ人間はAIとは逆の方に惹かれるのか

 自分の使う言葉や文体がいつの間にかAIに似てきたと感じたことはないだろうか。それは語彙や表現といったミクロなレベルにとどまらず、ものの見方や考え方そのものも、いつの間にかAIを模倣したものになってきているのかもしれない。生成AIが日常に溶け込むにつれて、生成AIに頼ることが増えただけでなく、生成AIが出力した文章(そして画像や動画までも)を消費することも確実に増えている。この記事では、AI化する人間と、それでもなお人間にしか残されていない領域について、いくつかの具体例とともに考えていきたい。


1、生成AIへの最初の質問


 私は自分が生成AIにした最初の質問をよく覚えている。

シカゴにピアノの調律師は何人いるか?

 当時のAIの正確な回答はもう忘れてしまったが、「すみません、具体的な「シカゴの調律師の人数」がデータにないので分かりません」のようなものだったと思う。「ふん、その程度か」と軽く失望したのを覚えている。

 この質問は「フェルミ推定」と呼ばれる有名な思考法の例題で、模範解答は次のようになる。

仮定1:シカゴの人口は300万人とする。
仮定2:ピアノを所有するのは世帯であって、個人ではない。学校やオーケストラなどの団体に所属するピアノは無視する。
仮定3:ふつう1世帯に5人いるとすれば、シカゴには60万世帯あると推定できる。
仮定4:ピアノを所有しているのは20世帯に1世帯とする、するとシカゴには3万台のピアノがあることになる。
仮定5:ピアノは1年に1度調律する必要がある、したがってシカゴでは毎年、ピアノの調律は3万回行われることになる。
仮定6:ピアノの調律師は1日に2台の調律ができて、年に200日働くとする。したがって、一人の調律師は1年で400台調律する。
結論:以上から必要な調律数を満たすためには、30000を400で割ればよい。したがって75人となる。

スティーブン・ウェップ『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』を参考

  私の関心は、AIはこの推定の足掛かりになる仮定をはたして自分で考えて立てられるのかということだった。AIにとって「シカゴの人口」などは、データとしてネットから引けばいいのだから特に問題ないはずだ。シカゴにあるピアノの台数だってどこかの楽器関係の団体が公開しているデータベースから引くかもしれないし、調律する頻度だって、調律師をしている人のブログからデータを見つけて推論に使うかもしれない。データは検索すれば出てくるものが多い。しかし、それを必要な情報として検索し、得たものを繋ぎ合わせて回答を提示できるのか。つまり、「シカゴにいる調律師の人数を算出するために、シカゴにあるピアノの台数と一人の調律師が調律できるピアノの台数がデータとして必要」ということを認識できるかということだ。そんなことに興味があって、この質問を最初にした。最初期の生成AIではそこまでできなかったが、今ではこのくらいの推論は朝飯前になった。昨日、改めてこの質問をしたら290人だと答えてきた。例によってソースは不明だったので、本当にAIがこのように推論して答えを弾き出しているかは分からない。もしかしたら人間には考えつかないような方法で答えているのかもしれない。

 これに対して人間の場合はAIと少し異なったアプローチを取る。ここでも、この問題に必要な情報はシカゴにあるピアノの台数と調律師が調律できるピアノの台数であることは変わらず、そのことにだれもが気づくとも限らないが、ひとまずその前提は突破したことにしよう。問題は「ピアノを所有しているのは20世帯に1世帯」とか「調律師は1日に2台のピアノを直せる」のような仮定は日常の経験から立てるしかないことだ。もちろん、シカゴの人口など、常識として知っている場合もあるかもしれない。そのような知識はAIと同じ質のデータとなるが、街にあるピアノの台数や1日に調律できるピアノの台数といった、今回の問題にそのまま使えるデータは一人の人間の頭の中にはおそらくないだろう。そこで人間は自分の感覚に基づいて推論を行なう。外を歩いていて家からピアノの音色を聞く頻度はこれくらいだとか、ピアノよりもはるかに小さいギターのチューニングでもそこそこ時間かかるよな、と言った断片的な日常の経験を総動員してだいたいの目星をつける。この日常の感覚から生まれる推論は正確とは限らないがAIにはできない。

2、AIの推論モデルの例としての乾貞治

 大規模言語モデルの仕組みの一般的な説明は、AIは人間のように考えて文字を生成しているのではなく、膨大な学習データから次に来るべきもっとも確率の高いものを出力しているだけだ、というものだ。私もAIの専門家ではないので、おおよそこの比喩で生成AIというものを理解しているのだが、このたとえでいつも思い浮かべるのが、漫画『テニスの王子様』に出てくる乾貞治というキャラクターだ。


 彼のプレイスタイルは通称「データテニス」と呼ばれ、彼が取った膨大なデータを参照し、相手の打球コースを予測したり、苦手なコースに返球して相手を追い詰めるというもので、できれば相手にしたくないタイプだ。生成AIがやっているのは、これと近いところがある。今のユーザーが求めている回答として、もっとも確率が高い次の文字を膨大なデータから弾き出している。そのデータの精度が高いために、私たちは生成AIが「考えている」ように感じてしまう。

 もちろん、乾は無敵ではない。最初から対戦相手のデータがなかったり、データでは測りきれない力を持ったプレイヤーには敗北する。生成AIだって、然るべきデータがなければ、不正確なデータを引っ張って強引にこじつけた回答を出してしまう。

3、ずっと前からAIっぽかった人間

 AIが学習したデータからもっとも確率の高い言葉を出力するように、人間も自分のデータから判断して行動することは多い。データが情報としてまとめられると、それはマニュアルになる。「相手が怒っていたらとりあえず謝らなければならない」「泣いている女の子にはこう言うべき」「ドイツ人との会話で困ったらピカチュウの話をしろ」….これらが本当に有効なアドバイスなのかは分からないが、気づけば私たちの日常のかなりの部分は、データに基づいた「AのときはBする」というフローチャートで動いている。つまり、人間の思考や言葉の選択は、AIが普及するずっと前から、すでにかなりAI的で、「これまでもこうなることが多かったから、今回もこうだ」のような確率論的な推論で行動していたのではないか。そう考えると、AIが学習したデータを基にして、もっとも確率の高い言葉を出力するのと何も違わず、人間とAIで学習できる情報量が月とスッポンである以上、どうがんばっても人間はAIには勝てない。人間の思考が過去の知識や経験からの推論でしかないのならば、インターネット全体にその範囲が及ぶデータで学習したAIの方が人間よりも優れているのは当然ではないか。この点でもって人間はAIの劣化版だと主張するのは可能だ。

 確かに「相手が怒っていたら謝る」のは、波風を立てないもっとも合理的な行動かもしれない。けれども「謝りたいから謝る」のではなく、「謝るのが最適解だから謝る」という態度が日常を覆い尽くしてしまったとき、そこにどれほどの人間味が残るだろうか。自分の内側に「どうしても謝りたくない」という感情が渦巻く場面だってあるはずだ。このように感情まで押し殺して、形式だけを器用にこなす社会に、本当に私たちの居場所は残されているのだろうか。

 就職活動でも同じことが起きる。データを見れば「大企業で平均年収が高くて離職率も低い会社」に入るのが、もっとも合理的な選択に見えるだろう。けれども、自分の内側ではどうしても納得がいかない、別の分野に強く惹かれている、という気持ちを抱く人も多いはずだ。それでもなお、「ここに入っておけば間違いない」という確率論だけを信じて進路を選んだとき、そのあとに残るのは「正しい選択をしたはずなのに、どこか自分の人生を生きていないような感覚」かもしれない。

 恋愛でもデータはいくらでもある。記念日にはこう振る舞うべきだ、デートではここに連れて行けばハズれない、こういう言葉をかけると喜ばれる...そんな「成功する恋愛術」は生成AIに聞く以前に本やネットに山ほど書いてある。だが、自分の中にある不器用さや、相手のちょっと変わった趣味や癖に合わせたいという気持ちを押し殺してまで「モテる最適解」に従っているとき、それは本当に二人の物語と言えるのだろうか。

 冠婚葬祭の場でも、紋切型の言い回しがある。「このたびはご愁傷さまです」という一文は、形式としてはまったく正しい。けれども、目の前の相手との関係や、その人との思い出にほんの少し踏み込んで「本当はこんなことを伝えたい」と心のどこかで思っていながら、それを飲み込んで形式どおりの一言だけで済ませてしまった経験はないだろうか。形としては何も間違っていないのに、自分の口から出た言葉がどこか他人のもののように聞こえる。

 私が「AI化した現代人」という言葉で呼びたいのは、基本に正しく振る舞おうとするあまり、自分の内側から湧き上がる不合理な感情や、それにもとづく愚かな一歩を、自分で押し込めている人間のことである。指示書に書いてあることにしか従わず、臨機応変な対応ができない人は以前から「マニュアル人間」として揶揄されてきたが、問題解決のツールとして生成AIが普及した今、自分の内側ではなく、データに基づいてすべてを解決しようとする「最適化人間」がこれからは増えていくのかもしれない。

4、コードを破る

 人間には人間にしかないものがあるというとき、それは人間が独自の発想をするということを意味しているように思える。AIはデータがなければ何もできないが、人間はデータを超えられる、という信念だ。おもしろいのは、確率的にはこのように行動するだろうという予測を裏切ってきたときに生じるギャップにこそ、人は「熱い」と感じることだ。普段は冷静な人がムキになっているときなど、そこにはものすごい勢いでスパークする感情がある。これはAIにはない。人間が予測を裏切るとき、そこには覚悟や葛藤がある。これはAIにはない。多くの人が失敗しないための最適解を求めてAI化しているが、私たちが本当に生きていることを実感し、他者に魅力を感じるのは、その効率的なマニュアルを捨てて、予測不能な一歩を踏み出したときだけだ。先ほど挙げた『テニスの王子様』でも、普段はデータに基づいて統計的なテニスに徹する乾貞治が、データが通用しない相手に対峙したときこそ、彼のテニスはもっとも魅力的で人を感動させるものになる。

「俺はたった今からデータを捨てる!」
「そして俺は過去を凌駕する!」

『テニスの王子様』乾貞治

 このデータに対する反逆こそが、AIには決して真似できない人間の本質であり、私たちに残された人間が人間であるゆえんなのかもしれない。

5、なぜ人間はAIがやめろと言うほうに惹かれるのか?

 そうなると次なる問いは、確率的には正しい選択を人間はなぜ意図的にしないことがあるのか、そしてその選択を美しいと感じたり、感動したりするのはなぜか、のように思える。逆張りというものには一定の需要があるが、確率を裏切る振舞をするからと言って、私たちは常に不合理なことが起こるボーボボ・ワールドに住みたいわけではない。(でも、不条理の極北として知られる『ボボボーボ・ボーボボ』が人生に疲れたときに「効く」と言われるのは、あまりにも合理化してしまった社会への反動なのかもしれない)

 私たちは、自分が別にしたくないことでも、それが珍しいというだけでしたくなることがある。AIだったら確実にやめておけと言うような愚かなことをだ。乾貞治は意志によってデータを捨てたわけだが、そもそも生き物には、それ以前に備わった不可解なバグのようなものがある。夏目漱石はそれを『吾輩は猫である』のなかで書いている。語り手の「猫」が一年に一度しか食べられないらしい餅に興味を覚える場面だ。別に食べる気はないのに、その体験が希少なので猫は餅を食べようとする。

今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着している。白状するが餅というものは今まで一辺も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは気味がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を掻き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅かいで見ると釜の底の飯を御櫃へ移す時のような香においがする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。御三は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこの刹那に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。

夏目漱石『吾輩は猫である』 太字は引用者

 自分が好きなのではなく、それが得難いというだけで事に及ぶ。この得難さは最適解とは真逆の方向にある。おそらくこれが生き物の本質なのだろう。このセリフを人間ではなく、動物である猫に言わせている点が可笑しい。うちの猫も時折とんでもないものを食べようとしてよく怒られている。

6、終わりに

 「こうしておけば間違いない」という発想や「失敗したくない」というゼロリスク思考が目立つ昨今の社会は、常に最適解が求められる社会に適用した人間が到達した思考様式とも言える。何をするにしろ、二言目には生産性が叫ばれるなかで、「平均的にはもっとも正しい無難な選択」を出してくる生成AIに頼るのは自然なことだ。しかし、それと同時に私たちの内側から湧く感情はますますおざなりにされ、コスパやタイパといったパフォーマンス思考によって、あらかじめ選択肢から除外されていく。それでもなお、乾貞治がデータを捨てた瞬間にもっとも輝くように、漱石の猫が本当は餅など食べたくもないのに得難き機会に身を投じてしまうように、私たちが心を揺さぶられるのは、たいていの場合、合理的な最適解から少しはみ出したときだ。

 これからの世界で人間に残されているのは、自分だけの経験や感情にしか触れられない領域で、ときどきでいいから、あえてコードを破る選択を引き受けることだろう。効率化の波に飲み込まれ、自分自身がAIの劣化版になりそうなとき、次の処方箋を思い出してほしい。「たまにはデータを捨てて、餅を食え」。その一見して無意味で不器用な選択のなかにこそ、人間の本分が残されている。


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