【読了】鳥山まこと「時の家」
鳥山まこと「時の家」読了。
20251211
ある家の歴代の住人たちの人生の断片が、青年がスケッチする中で浮かび上がってくる、という話。
長嶋有「三の隣は五号室」とか村雲菜月「もぬけの考察」とか、住居の定点観測小説というのがあります。ある家(マンションやアパートの何号室とか)に人が住んでいて、その人が去りまた別の人が越してきてまた去って、というのを空間的な場所を固定して描いているものです。「時の家」は似ているようで、似てると言うのに少しためらうのは観測っぽくないからで、家のあちこちに触れてそこからかつての住人たちの記憶が立ち上ってくるような小説のあり方をしています。
2作を引き合いに出しましたが、「もぬけの考察」の方はエンタメ的、ホラー的な小説なので、「時の家」とは作品の向きが全く異なります。そして私は「三の隣は五号室」は未読です。未読なんですがなんとなく似てそうな気がしています。「三の隣は五号室」は「問いのない答え」以降の作品であり、そのあたりから試されている長嶋有的群像劇(勝手な呼称)を空間固定小説でやったら「時の家」の書き方に近いものになるんじゃないかと予測してます。
真実を言えば、「時の家」を読み進めてその手口を心得た時に、長嶋有のアレっぽい文章(人称の軽やかなスイッチ)だなと結びつけ、そこから「そういえば長嶋有も同じアパートの部屋での定点小説書いてたな」と遡っていったのです。読もうかな、長嶋有。もったいなくて全然新刊読んでない(10年前の作品ですが、まだまだ私の中では新刊です)。長嶋有はきっと地震とかコロナとかを装置には組み込まないんだろうな。ネジみたいに使うのなら容易に想像できますが(ネジに失礼)。
この小説が家の記憶だとしましょう。家が持つ記憶は強固なもので、その記憶の中で再生される登場人物たちの身体や心の動きは精細です。10年前だろうと30年前だろうと薄れていません。しかし登場人物たちは自らの記憶というものにしっくりきていないようでした。人の死や、誰かへの愛、そこを通ったからこそ今の自分がここにいる、今の自分が間違いなく歩んだはずの道を、振り返って目を眇めても視野は霞み、本当にそんなところを通ったのだろうかと訝しむ。全部の過去を一段一段積み重ねた上に自分が立っているはずなのに、その途中の段が抜けていて、今が浮いてしまっている。
家の土台が地面であれば、今の自分の土台は過去の記憶です。この小説では大きな地震の描写が何度か出てきて、信じるともなく信じてきた土台を揺るがします。過去の記憶に対する不信感は個人の今を揺るがすのです。
ここらへんまでを、先日のトークイベントに参加するまでに書いていました。12/14、大滝瓶太と鳥山まことによるトークイベントは神戸の本屋1003(センサン)にて、聴衆20名ほどでこじんまりと開かれました。告知から開催までの間に「時の家」が芥川賞候補になりましたが、私が候補作になる前に作品を読んだことがあったのは過去に一度、本谷有希子「異類婚姻譚」だけです。と考えると縁起がいいかもしれませんね。
鳥山まことの小説の書き方、「時の家」執筆時の試み、スタンス、読書歴、など小説の向こう側にあるたくさんの話が聞けました。緑についての質問もできてよかったです。
この作品を書く最初のきっかけとして、本人で設計した家の話がありました。漆喰塗りされる壁に書かれたメモ書き、西日が差し込む骨組み、そうした完成後に失われるものを残したいという気持ちが出発点になったそうです。
そういえば「時の家」を読んだときに、(極端に言えば)青年って要るんかな?と思ったんです。青年を通して家の各部に触れていますが、無口な狂言回しという印象がありました。あるいは、時間軸における現在を示すための錨のような存在なのかな?とか考えておりました。
対談を聞いた後、鳥山まことの「消えてしまうものを残したい」という希求がこの小説に青年として投影されているのかもと新たに思い至りました。舞台は現代なので、写真や動画といった手軽なツールを使っても画としては記録できますが、スケッチという自分の目と手を通して今あるものを留めておく青年の姿が、小説という正確に記録するには適さないツールでいずれ忘れたり変容してしまったりする記憶を留めておこうとした作家に重なりました(具体的にこういう話はなかったのでこれは私なりの解釈です)。
対談の中の全く別の文脈で、鳥山まことが木目が好きだという話があり、かすかな凹凸が光の当たり方により表情を変えるところを"偏愛"しておりました。これも私の思いつきですが、木目(=年輪)も過去の時間に目盛りを刻んで記録したものだと捉えられます。一軒の家が完成するまでの膨大な量の設計図、資料、計算結果。これらは家という大樹の木目のようです。厚い樹皮に覆われて見えないけれど、その奥には幹の太さ、木が生きた時間の長さを証明するものが刻み込まれているのです。
基本的には一人で読んで一人で感想を書き連ねていますが、やはりそこに作家の考えや人となりの情報が加わると、いろいろな要素が一気に結びついていく快感がありますね。
最後に(も)適当なことをひとつ言います。
ジオラマを切り出したものが小説だとして、よくある小説はまっすぐの線で構成された直方体で切り抜いています。直方体で切り取るのは、流通的に便利だからです。その世界の神である作家は、直方体の中に物語が含まれるように、民家を少し動かしたり、道を真っ直ぐにしたり曲げたり、お店をいい塩梅に並べ直したりします。直方体の中にストーリーに必要な要素を収めているんです。そうすると、神の作為がジオラマの街を変容させてしまっているなと感じてしまうことがあります。
「時の家」は、ジオラマの世界自体に(都合のいいように)手を加えてないんだなと感じました。それだと小説としてのストーリーが生まれてこないので、切り抜き方を直方体ではなく不定形にしているんです。真っ直ぐな線ではなく、曲面を持った不定形でくり抜いている。くり抜いたものが小説になるように手作業で切り出していくには当然技量が不可欠です。しかも流通、広く人々に届けるには形的に不利にもかかわらず。そんなやり方でこの小説は書かれたんだと思っています。
作中の要素要素を取り出せばとても現実的で地に足ついていますが、小説全体として見た時に不思議な幻想感を抱くのは、きっとこんなことが理由なのかもしれません。
あとどうでもよいですが、鳥山まことは目がめちゃくちゃ大きかったのでめちゃくちゃ近視なんだと勝手に思ってます。金子眼鏡みたいな黒縁金メッキ金具のメガネが似合ってました。
