【読了】大滝瓶太「理系の読み方」

大滝瓶太「理系の読み方」読了。
20251209

副題は「ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた」。

大滝瓶太を初めて読んだのは、西崎憲の電子レーベルから出た地下文芸アンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」収録の「二十一世紀の作者不明」でした。破滅派経由で電子出版に初めて触れた頃、私が読む小説の裾野が大きく広がり始めた頃のことです。それから5,6年ほど経ちました。初の単著「その謎を解いてはいけない」を積んではいたんですが読めておらず、一方的に気まずい距離感になっていたところ、11月に出た桜井晴也の「愛について僕たちが知らないすべてのこと」の解説で久しぶりにその名前を見て、さらに過日12/14にトークイベントが近場であるとの情報を得て、にわかに大滝瓶太づいて、これは行かんわけにはいかんやろ、となったのでした。やや話は逸れますが、「偶然で2回逢ったら運命」みたいなのあるじゃないですか。恋愛的な話はドラマや小説にまかせますが、広い意味では私もわりとその口で、大学生の頃にコミュニティが異なる友人2人からほぼ同時期にぷよぷよに誘われ、これは運命だと勝手に受け取って、それからぷよぷよを始めてしばらく研究室の居室でずっと連鎖を組んでいました(研究は完全に止まった)。大滝瓶太の解説とトークイベント、短期間に2回の接触は完全に別コミュニティ由来というわけではないですが運命と呼ぶのに十分な確率だと判断しました。「偶然で2回逢ったら運命」を理系的に言えば「2次の微小項を無視できない」ということです。

おわかりの通り私も理系の端くれで、大滝瓶太は満期退学ですが私は博士中退と履歴書に書かなければいけない人間です。取らなかった(取れなかった)博士号の影がずっと足元から離れないのです。
しかも、当時の研究内容もソフトマテリアル中のイオン輸送論のようなテーマを含んでいたので、この本の理系読者としてはかなりドンピシャな人間なのだと思います。本書でも触れられていますが、理系というひとくくりは、本が好き、くらいの共通点しかなく、自己啓発ばっかり読む人と谷崎の全集読んでる人が何話すんだということになります。理系の中でも物理化学的な分野の知識がある人には特に刺さる、というか「俺には刺さってるぞ!」と謎の優越感が湧いてくるような、しっかり理系な要素を多分に含んでいます。

「理系の読み方」という言葉から来るイメージはいろいろあるかと思いますが、例えば、「この作品は一文の長さの平均が30文字で、それが一番の山場のシーンでは平均15文字になって〜」とか「使用される接続詞の分布がこうで〜」とか、そういうミクロな分析ではありません。定量ではなく定性で、ざっくり言えば、小説という得体のしれないものを知るために、理系分野で用いられる考え方を小説に適用してみよう、という試みがなされています。もっと簡単に言ってしまえば「小説を理系的に例える」ということです。
「理系とか言ってんのに例えるだけかよ」とか舐めた口を聞いてはいけません。例えるというのは、理解の範疇外にあるものをわかる範囲に引きつける(本書でよく使われる動詞)ために共通点を見出す行為で、リヒテンベルクも「全く関係ないもの同士に共通点を見つけるのは高度なことで、それは普遍的な事象の抽出である」みたいなことを言ってた気がします。

小説を小説たらしめるものは何かという問いが本書に出てきます。そこで示された例に、文字化けだけの文章と、文字化けの中に意味のある言葉がひとこと紛れている文章があり、前者は小説とは呼べないが、後者には想像しうる広がりを有している、みたいな話がありました。ここを読んで、ありし日に研究していたガラス材料の透明性について思い出したんです。
ガラスが透明なのってミクロに見たときの原子の並び方によるもので、原子の並び方って言うと、キレイに並んでる(=結晶性が高い)方が光を透過しやすいのかなと思われるかもしれませんが、実は逆で、キレイに並んでいる方が特定の光を反射させやすく、結果的に不透明なものになりがちなのです。対してガラスは非晶質という無秩序な並び方をしていて、それがゆえ特定の光が反射されることなく、全体として見たときに透明になります。むしろ規則のないガラス構造の中にキレイに並んだ部分があると透明度が落ちる。意図的に微小な結晶構造をガラス中に析出させた結晶化ガラス(という矛盾を含んだ言葉)なんていうのもあって、これは不透明な材料になります。無秩序なものは、文字化けだけの文章に似ているなと思いました。透明というのは、入射光がそのまま素通りしてしまうことで、文章が脳内で意味をなさない感じです。秩序がないものでは光や読みを通したときに反射(返ってくるもの)がない、それがガラスであり文字化け文章なのです。意味のある文字列は結晶構造(=秩序ある並び)なので、そこで光や読みが反射されて、観測者/読み手に返ってくる。我々は読みの反射光を小説として捉えているのかもしれません。
はい、今回はここまでにしましょう。次回は小説における単結晶と多結晶の違いについて論じていきます(次回?)。


件のトークイベントは、「時の家」で野間文芸新人賞を射止めた鳥山まことの受賞を祝した対談で、お二人ともが兵庫県出身ということもあり、神戸の独立系書店の要1003(センサン)で開催されました。鳥山まことも理系(現役建築士)なので、まさに本書のように小説を理屈っぽく捉えた話をしていて、時間足りんやろこれ、と思うほど楽しみました。

私がその名前に出会った頃の大滝瓶太は書評家のイメージがあって、どこで読んだのか定かではありませんが「私は、子供が語り手の作品は2割くらい割引いて読むようにしている」的なことを書いていて、えらく感銘を受けた記憶があります。
今回のトークイベントで聞いた、前回(2025年上半期)の芥川賞の予想イベントで「受賞作無し」と予想して当てた(当ててしまった)というエピソードも、本当にこの人は自分の中に信じるものがあるんだなと嬉しくなってしまいました。「受賞作無し」を的中させたことというより、小説家/書評家の立場で「受賞作無し」と予想して公表したこと自体が凄いと思っていて、予想したことは態度として、的中させたことは能力として、やはり信頼できる書き手であり読み手なのです。
本書を読んでから、改めて「二十一世紀の作者不明」を再読してみましたが、そこでも大滝瓶太という人の一貫性を感じました。

ここまで書いた内容的に、大滝瓶太を理系的な冷静無情の人と感じてしまったかもしれませんが、ご本人は全然そんなことはなく、文学の素養と知識を関西人のサービス精神で提供してくれる気の良い文学面白お兄さんという感じでした。トークイベント中ずっと前髪をいじり続けていたのも一貫性があって良かったです。

そしてなにより、滝口悠生がとても読みたくなりました。

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