見出し画像

信仰の重さと、憧れの軽さと。

「特に深く信仰している宗教はない」と普段は思っている。
だが、家が代々浄土真宗なので、自分でそうなろうと思った覚えはなくても、私は一応“浄土真宗の門徒”ということになるのだろう。

もちろん、浄土真宗について深く知っているわけではない。
法事のときに住職から聞く法話や、寺から時々配られる冊子を読んで、
「なるほど、いいことが書いてあるな」と思う程度の知識しかない。

一方で、私は中学・高校をカトリック系の学校で、大学をプロテスタント系の学校で過ごした。中学から大学まで宗教の授業があり、聖書を学ぶ機会も多かった。学校で配られた聖書が、気づけば十冊ほど家にある(なぜか捨てられない)。分厚い聖書を通読したわけではないのだが、「ヨハネの黙示録」など、ぱらぱらとめくるだけでも、普通に読み物として面白い部分がある。

中高時代は定期的に校内ミサに参加し、教師や同級生にもカトリック信者がいる環境で過ごした。また、学校で配布されるロザリオやメダイなど、美しい宗教的アイテムに触れるうち、仏教にはそこまで強い関心を抱いたことがないのに、次第にキリスト教そのものに強く惹かれていった。仏教では、数珠やおりんといった地味なアイテムを思い浮かべるが、キリスト教のアイテムはどこか神秘的で美しいものが多い。もちろん、当時は多感な年齢だったことも大きいと思う。今思えば、完全に厨二病だったのだろう。

地図帳に載っていた「世界の宗教人口分布図」を見て、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教などを合わせると、「世界にはこれほど多くのキリスト教徒がいるのか」と驚いた記憶がある。そこから、自分なりにキリスト教について調べるようになり、のめり込んでいった。

同じような感覚を持っていた同級生のTと、「いっそカトリックの洗礼を受けてみようか」という話になった。中学3年の春のことだ。
しかし、どうすればいいのかわからない。親に相談すれば反対されるに決まっている。そこで、学校の道徳担当だったK先生(敬虔なカトリック信者)に相談することにした。

K先生は、放課後にわざわざ時間を取ってくれた。
そして、カトリックの洗礼とはどういう意味を持つのか、洗礼を受けるにはどうするのか、毎週ミサに通うとはどういうことなのかを、とても丁寧に説明してくれた。

こちらも、毎週日曜日に教会へ通う覚悟を決めかけていた。
すると最後に、K先生はこう言った。

「信仰は、アクセサリーではありません」

その言葉が、なぜか今でも心に残っている。当時の私は、言葉の真意をきちんと理解していなかったと思う。

昔の私は、キリスト教アイテムの見た目の美しさのみに惹かれていた。
今思えば、かなり雰囲気に酔っていたのだろう。
だから今、十字架のネックレスを単なるファッションとして身につけている人を見ると、少し複雑な気持ちになる。

もちろん、きっかけは憧れや美しさでいいのだと思う。私自身そうだった。
だが、本来それは、命を懸けて守ろうとした人々がいた“信仰の象徴”でもある。当時の私は、そんなことをまったく理解していなかった。

後年、小説『沈黙』を読んだあとでは、十字架をただのアクセサリーとして見ることが難しくなってしまった。
『沈黙』は、江戸時代のキリシタン弾圧を描いた物語である。歴史の授業で踏み絵を習ったとき、私はずっとこう思っていた。
「たとえキリスト教を信仰していたとしても、絵くらい踏めばいいじゃないか。殺されるくらいなら、迷わず踏む」

しかし、『沈黙』を読んでその考えは覆された。
ここで内容の詳細には触れないが、あの小説は、「信仰とは何か」という問いを真正面から突きつけてくる。
“踏める”と思っている程度の気持ちのままで、軽々しくキリスト教徒になってはいけないのだ。そんなことを強く感じた。

そしてそのとき、中学生の頃にK先生から言われた、「信仰はアクセサリーではありません」という言葉を、私は再び思い出したのである。

たぶん私は、今でも“信仰”というものをよく分かっていない。
だが少なくとも、「かっこいいから」という理由だけで近づいてよいものではないのだ、ということだけは、あの頃より少し分かるようになった気がしている。

#キリスト教 #カトリック #ロザリオ #遠藤周作 #沈黙  


いいなと思ったら応援しよう!