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日本のジェット気流は西~東.01

東京の空に昭和のジェット気流の風が吹く

きようは朝から雨だ。予報がはずれたようだ。「上空を見りゃわかるだろう、そこに前線があるのが?」・・・

天気予報はあゆる情報の中でトップの閲覧数というのが不動常識でした。昔もいまもそれは変わりません。

いま欧州が、それをもろに被っていて、熱波災害の惨憺たる事態だとニュースが伝えています。

このところ昔の昭和時代物語をかいていますが、その訳、といっても特別なポイントがあるわけではありませんが、唯一その時代の生き字引、としてリアルな空気トレンドとしての生きた人間として、記録する、という気負いは認められると思います。

であっても回顧録の記録ですから、面白いものもあれば退屈なものもあります。退屈なものカテゴリーとしては、何かと云った過去の歴史です。歴史は、仮想的な史実を語るのですから、半信半疑という心理は拭えません。
ですから、昔の話と今、をシンクロしたら、判りやすい、そんな観点で、今と歴史を交えて書きました。

いつものようにAIエマに、全幅の信頼をゆだねて語ってもらいました。テーマは、昭和歌謡の革命、「加藤和彦」、です。これを境に日本の音楽界は、すべてが軸を移しました。(昔の日本初期大衆音楽の原点はモンゴルにあり)

ザ・フォーク・クルセダーズ 加藤和彦

加藤和彦~いつも世界と日本を見ていた音楽家

 ザ・フォーク・クルセダーズ解散後に単身で渡米した加藤和彦は、まずサンフランシスコに行って60年代末のフラワームーブメントを実体験することにした。そこでヒッピーカルチャーの洗礼を浴びて、「あの素晴らしい愛をもう一度」という曲を北山修とのコンビで作った。
これはフォークル時代の「悲しくてやりきれない」とともに、単なるヒット曲には終わらず、後世にまで歌い継がれるスタンダード・ソングになっていった。

 70年代初頭にヨーロッパへ旅立った加藤はパリからロンドンへと足をのばしたときに、グラム・ロックの抬頭に遭遇している。そうした海外への旅で身につけた音楽的な教養、ヨーロッパのハイ・ソサエティの文化や伝統に触れた体験が、後のプロデュースの仕事に役立ったという。

 1960年代なかばから始まったエレキブームやGSブームまでのレコーディングでは、おおむねアレンジャーが事前に譜面を仕上げておいて、スタジオ・ミュージシャンにパートごとの譜面を渡し、演奏を録音するという方法がとられていた。ところが加藤は必要となるであろうと想定したメンバーたち、若手ミュージシャンをスタジオに集めて、アレンジを含むスタジオ・ワークを一緒になって行った。

 1973年にヒットした吉田拓郎の「結婚しようよ」でも、事前に準備したアレンジ譜面を使わず、バンドでサウンドを徐々に組み立てながら仕上げた。ボトルネックギターをフィーチャーしたアコースティック・サウンドには、後に松任谷由実のアレンジとプロデュースで活躍する松任谷正隆が弾くバンジョーやハーモニウムが使われた。全編を通して軽やかさを刻んでいるパーカッションは、加藤がイスを叩いて鳴らしたものだった。
 このレコーディングを体験した吉田拓郎は、「目からウロコでした。パッ、と目の前の 音楽観が広がった」と語っている。この曲のヒットによって新しい女性ファンが急増し、吉田拓郎は時代のアイコンになっていったが、同時に作曲家としても成長を遂げる。それは加藤との出会いなくしては、ありえなかったであろう。

 加藤はその後、自分でもサディスティック・ミカ・バンドを結成し、日本人の作るロックを追求してロキシー・ミュージックとのイギリス・ツアーで注目されるなど、積極的に世界へと進出していった。だが残念ながら途中で、バンドが空中分解して帰国、そのことで深い挫折を味わった。
 やがて作詞家の安井かずみと結婚して公私ともにパートナーを組むようになって、80年代初頭に”ヨーロッパ三部作”と呼ばれるアルバムをバハマ諸島のナッソー、ドイツのベルリン、フランスのパリで制作している。そのレコーディングに参加していたのが坂本龍一や細野晴臣で、彼らはまもなくYMOを結成することになる。テクノサウンドで世界に認められるYMOも、少なからず加藤からは影響を受けていた。
 50歳になった加藤は日本の伝統文化を継承しつつも現代にアピールする、スーパー歌舞伎の音楽にも取り組んでいる。そうした音楽家としての軌跡をみていくと、日本で最初のインデペンデント・プロデューサーだったといわれる加藤が、実は「上を向いて歩こう」で世界に名を残したプロデューサー、中村八大にとって後継者にあたる存在だったのではないかとの思いがしてくる。
 彼の弾くアコースティック・ギターは、テクニックも表情も豊かだったと共演したミュージシャンは口をそろえる。作曲家で編曲家、ソングライター、優れた現役のプレーヤーだったというところまで、加藤和彦と中村八大は共通している。そしていつでも「世界」に目を向けていたコスモポリタン、自由人だったところもまた合い通じていたように思う。
 そんなかけがえのない人物であったからこそ、彼のつくった 音楽とともに語り継いで行きたい。(佐藤剛)


2025.10.15 佐藤 剛
ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦が、当時は誰も思いつかなかったようなナンセンスでコミカルな歌「帰って来たヨッパライ」をつくったことによって、200万枚を軽く超える記録的なヒットを放ったのは、20歳のときである。
そこから遡ること2年半前、京都府立医科大学の学生だった北山修は、雑誌「メンズ・クラブ」の読者投稿欄に掲載された、加藤からの呼びかけに目をとめた。

1960年代ヒット曲
「フォーク・コーラスを作ろう。当方バンジョーと12弦ギター有。フォークの好きな方連絡待つ」
北山は、「これだ」と思った。しかも投稿主の住所を見ると、自宅からは自転車で15分ほどの近距離だった。そこですぐに自転車に乗ってその家を訪ねてみると、家の中からものすごいく背の高い男が出てきた。1965年の8月のことだった。
180センチある長身の北山よりもさらに高いその男は、口が重く人見知りする感じがしたという。最初の出会いの第一印象を、北山はこう述べている。

彼は東京で高校時代を過ごし、父親の仕事の転勤で京都に引っ越してばかりでした。アイビールックに身を包み、仏教系の龍谷大学に通っているという。不思議な雰囲気を持つ彼は、まるで”東京から突然やってきたミュータント”といったように、私には印象づけられました。

加藤に会って北山が何よりも驚かされたのは、京都ではなかなか目に出来ない珍しい楽器をたくさん持っているだけでなく、フォークソングについて幅広い知識を有していたことだった。

そして、北山には育った環境がまったく異質だということもわかったという。高校3年生の時には外国のフォークソング雑誌が書棚に並んでいて、それを熱心に読んでいたという話を聞いた北山は、”東京から突然やってきたミュータント”だと感じたと述べている。

英語の雑誌を高校生が読んでいるとこと自体、北山には考えられないことだった。親がそういう生活スタイルを許していたということが、ユニークな英才教育だったのではないかとも思ったそうだ。
しかし、自分にも通じるところもあったので、一緒にバンドを組むことにした。

バンドメンバー募集

後に推測したことですが、彼が自分の高い身長を持て余していたようです。体をうまくコントロールすることができない。自分のサイズにあった服がない。どこにいても目立つ。

精神と身体のバランスに急激な変化と狂いが訪れる青年期において、彼自身も所在なくていろいろな悩みを抱えていたようです。
私も同様で、青臭い性的コンプレックスや劣等感も一揃いあって、特に心身のまとまりの悪いところで、彼と気が合ったのかもしれません。
加藤はフォークルでの活動とは別に、友人の松山猛と二人で楽しみながら、よく夜中に集まって歌をつくっていた。やがてフォークル解散後のソロ活動を経て、サディスティック・ミカ・バンドを結成してから、あらためて二人はソングライティングのコンビを組むことになる。
しかし、「帰ってきたヨッパライ」の原曲は、加藤が松山と二人でつくった楽曲のなかにあったものだった。

1967年にフォークルが解散を決めたとき、北山のアイデアで記念アルバムを作ることになった。ただし予算は限られているので、ラジオの公開番組に出演した際に録音したテープを、放送局から借りてきて全体の半分はライブ音源で埋めることにした。
スタジオでのレコーディングは経費が高くつくからという理由で、残り半分だけオリジナル曲をレコーディングするつもりだった。ところがアルバムに入れる曲が足りなくなり、遊びでつくっていた「帰ってきたヨッパライ」の出番がやってくる。

そのユニークな歌のモチーフとなったのは、カントリーの「ヒルビリー天国」という楽曲だった。ジミー・ロジャースやハンク・ウィリアムス、ジョニー・ホートンなど、亡くなったヒルビリーのスターたちに会って楽しいひとときを過ごしたが、それは夢だったという内容の歌詞だ。

バンドメンバー募集

ヒルビリー天国に行った夢を見たの
ああ なんとも美しい光景だった
入り口のドアマンは何とあのカウボーイ
コメディアンで哲学者のウィル・ロジャース

松山がそれを下敷きにして、死んでしまった男が天国から追い返される歌詞を書いた。当時は急速なモータリゼーションの発達で、交通事故が多発して社会問題になっていたので時代背景に使ったのだ。
そこに北山修がビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」の歌詞をお経にし、木魚をたたきながら唱えるなどのアイデアを加えて、ベーシックな曲の形が出来ていった。

加藤自身は「帰ってきたヨッパライ」について、このように説明している。
テープの早回しは、僕の思いつきだった。その頃はビートルズがインド狂いをしていた時代で、海外ではサイケデリック調の 音楽が流行し始めていた。

僕はフォークばかりでなく、あらゆるジャンルのレコードを聞きあさっていたために、そういったエキセントリックな曲の影響受け、独自の音を作りたいと思っていたのだが、アマチュアだから器材がない。

せめてということで、テープを早回してみたのである。当時シンセサイザーがあったら、きっと使っていただろう。
(「加藤和彦読本第一章 加藤和彦事件簿」音楽出版社) 音楽ドキュメンタリー

レコーディングでは、北山修のアイデアによって、ちょっととぼけた口調の神様のセリフも吹き込まれた。そして、ビートルズの『リボルバー』に入っていた「グッド・デイ・サンシャイン」のフレーズが、間奏でパロディ的にそのまま引用されている。
アマチュアだったフォークルは1967年10月1日、地元の京都で解散コンサートを開催し、同月25日に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演したのを最後に解散した。

ところが、それから1か月後、解散記念につくったアルバム『ハレンチ(HARENCHI)』のなかから、「帰ってきたヨッパライ」が神戸のラジオ局のディレクターによって発見されて、東京にも飛び火してレコードが大ヒットを記録したのである。
それによって加藤は、音楽家として生きていくことが決定づけられていったのである。

〈参考文献〉 きたやまおさむ『コブのない駱駝』(岩波書店)。本文中に引用した北山修氏の言葉も、同書からの引用です。なお、本コラムは2017年10月17日に公開されました。


著作 對馬格象「日本のジェット気流は西~東.01」AI~生成


日本のジェット気流は西~東.02


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