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『借りたものは返す』

朝から雨だった。

とはいえ、梅雨の終わりみたいな弱い雨で、駅前のアスファルトは鈍く光っている。
ユースケはコンビニのコーヒーを片手に、会社のエレベーターへ乗り込んだ。
 

始業十分後。

「えー、諸君」

部長のミヤビが、社員の前で腕を組んでいた。

「社会人として大事なことを言います」
ろくでもない話だ。

「借りたものは返す」
社員たちが静かに瞬きする。

「これは人間関係の基本です」
ミヤビ部長の目が、

ゆっくりこちらへ来た。

絶対見た。

「特に」

嫌な間。

「ハンカチなどは」

吹き出したのは同僚の香島だった。

くくっ、と耐えきれない声が広がる。

ユースケは机へ突っ伏したくなった。

「人としての信用に関わります」

ミヤビ部長は満足げに頷く。

絶対知ってる。
 
 


昼休み。

逃げるように会社を出たユースケは、行きつけのカフェ・花園へ入った。

古い木のドアが、からん、と鳴る。

「いらっしゃい」

カウンターの奥で、マスターが顔を上げた。

細身で、黒シャツばかり着ている男だ。
近所では“ムラサキ”とか呼ばれている。
本人の希望らしい。

「顔死んでるね」

「放っといてください」

「雨の日の彼女?」
ユースケはむせた。

「なんで知ってるんですか……」
マスターは笑いながらカップを磨く。

カウンターへ座ると、湯気の向こうでマスターがふっと笑った。
「で、返した?」

「……まだです」

「ふうん」
コーヒーが置かれる。

深煎りの匂いがした。

「待ってるかもよ」

白いハンカチを思い出した。

角に、小さな青い刺繍。
Satsuki。
名前より先に、あの白さを思い出す。
 
 


夕方。

最寄り駅を出ると、雨はもう止んでいた。

「あ」
声をかけてきたのは、隣の家のツユちゃんだった。
制服姿で、片耳だけイヤホンを外している。

「こんばんは、ユースケさん」

「……こんばんは」
ツユちゃんはじっとこちらを見たあと、ふっと笑った。

「返せるといいですね」

「だから何を」
ツユちゃんは笑う。
そのまま改札の人波へ消えていった。

なんなんだ。

疲れだけが増していく。



住宅街へ入る。

すると、美容室《YOU》の前で、ほうきを動かしていたユウさんが顔を上げた。

「ユースケくん」

「……はい」

「返さなきゃ駄目よ?」

何を、とは聞かなかった。
聞いたら負けな気がした。
 

どこかから、焼きそばソースの匂いが漂ってくる。
 
たぶん、

夏祭りの屋台だ。
 


次の瞬間。

「ユースケにーちゃん!」

ランドセルが背中へ突っ込んできた。
「ぐえっ」
「ませませー!」
双子だった。

兄のリクと、妹のマコ。

「この前のおねーちゃん!」

「やめろお前ら!」

「ほんとに光ってたよね」

「見るなって!」

ユウさんが、ほうきを持ったまま肩を震わせていた。

「若いっていいわねえ」

「違いますって……」
 
 


逃げるように家へ入る。

「ただいま……」

「おかえり」

妹のゆうちゃんが、居間でアイロン台を出していた。
しゅう、と白い湯気が立つ。

「……なにしてんの」

「見ればわかるでしょ」

アイロンの下にあるのは、白いハンカチだった。
角に、小さな青い刺繍。

「なんで勝手に……」

「しわ、残ってたし」

ゆうちゃんは霧吹きをして、丁寧に布を伸ばす。

「女の子のなんでしょ」

「違う」

「ふーん」
信じてない顔だった。

アイロンが静かに滑る。
「焦がしたら困るし」


夕飯の匂いが流れてくる。


ユースケはネクタイを緩めながら、ソファへ沈み込んだ。

白いハンカチが、妙にまぶしかった。
 


翌朝。

ユースケは、食卓の端に置かれた白いハンカチを見つめていた。

きっちり畳まれている。
角の青い刺繍まで、妙に整って見えた。
「……別に」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。

ゆうちゃんがトーストをかじりながら言う。
「今日返してくれば?」

「だから、そういうんじゃ」

「はいはい」
まったく信じていない返事だった。

ユースケは観念したようにハンカチを手に取る。
スーツの胸ポケットへ入れかけて、やめた。
なんとなく気恥ずかしくて、結局、鞄の内ポケットへ押し込む。
 
会社帰り、駅前を少し遠回りした。

雨の日の、あの商店街を歩いてみたが会えない。

雨も降らない。

晴れた空が、少しだけ憎らしかった。

カフェ・花園の前を通ると、マスターが窓越しにこちらを見た。

にやり、と笑う。
ユースケは見なかったことにした。


 
その三日後だった。
夕立が来た。
仕事帰り、駅前に大粒の雨が落ちてくる。
「うわっ……」
周囲の人々が軒下へ走る。
ユースケも慌てて鞄を庇った。

その時。

「あ……」
聞き覚えのある声だった。
振り向く。

サツキがいた。

あの日と同じように、少し困った顔で髪を押さえている。
でも今日は、ちゃんと傘を持っていた。

「あ……どうも」

「どうも……」

二人とも、変な挨拶になった。
 
雨音だけが近い。
 
ユースケは急いで鞄を開けた。
「あの、これ」
白いハンカチ。

サツキが、少し目を丸くする。
「わ、ちゃんと……」

「洗いました」

「アイロンまで……」

ユースケは一瞬止まった。

「……妹が」

サツキが吹き出す。
「あははっ」
その笑い方を見た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

「よかった……」

サツキはハンカチを受け取る。

「実は、これお気に入りだったんです」

 

コンビニの軒先で、
       雨水が細く跳ねていた。

その時、
「ませませー!!」
道路の向こうから声が飛ぶ。
見ると、リクとマコが、コンビニの軒下から全力で手を振っていた。

「うわっ」
「なんでいるんだお前ら!」

サツキが耐えきれず笑い出す。

ユースケもつられて笑った。

その瞬間。
「あ、見えた」
マコが言った。
「銀歯」
「見るな!」

雨音の向こうで、笑い声が重なる。

夕立は、しばらく止みそうになかった。


おしまい


あとがき

「ハンカチ、返してもらってくださいね」

そんなコメントから、このお話は始まりました。

気づけば、雨の日の出来事を、近所の人たちが勝手に育てはじめていました。

美容室《YOU》のユウさん

会社部長のミヤビさん

カフェ・花園のムラサキさん

ユースケの妹のゆうさん

会社同僚の香島さん

隣の高校生のツヤちゃん

少しだけおせっかいで、でも、とっても優しい人たちです。

たぶんユースケは、まだ迷惑そうな顔をしています。

でも、そういう町も悪くないなと書きながら思いました。

なお本作は、コメント欄から生まれた、半・読者参加型掌編です。

今後、商店街へのご参加をご希望の方は、お気軽にコメント欄まで(半笑)

ただし、
ユースケはたぶん嫌がります。
 


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