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奈良の青空と、ショーシャンクの空

FIREの前に、まずは一本のマッチを擦る。

青空が見えた。

レンガ塀に広がる空は、驚くほど青かった。

私はその日、奈良監獄ミュージアムを訪れていた。

ずっと来てみたいと思っていた場所だった。

監獄を見に来たはずなのに、
その日心に残ったのは赤レンガでも歴史でもなく、
なぜか青空だった。

奈良監獄ミュージアム


その日、私は有給を取って奈良へ向かっていた。
平日の朝だった。

電車には学生が多かった。
試験前なのか、参考書を開いている子。
昔ながらの単語帳をめくっている子

まだ眠そうな顔で座っている子。

当たり前だけれど、みんな今日を生きている。
そんな姿をぼんやり眺めていた。

「ああ、おれも頑張らな」

ふと、そんなことを思った。
五十五歳にもなって何を言っているのかと思う。

でも、今日は会社ではない。
奈良へ向かっている。
それだけのことなのに、少し遠足の日みたいな気分だった。

奈良監獄ミュージアムには少し早く着いた。

開館前だった。
門の前には何人か人が並んでいた。

私もその列の最後尾についた。
目の前には高い塀が続いている。

みんな無言だった。

スマホを見ている人もいれば、ただ立っている人もいる。

私も黙って列に並んでいた。

高い塀の前で開館を待っていると、
なんだか少し不思議な気分になった。
監獄に入るのを待っているのだ。

門をくぐると、すぐに建物があるわけではなかった。
ミュージアムまでは少し歩く。

 

五分ほどだろうか。

高い塀に沿って敷地をぐるりと回る。
私は勝手に、もっと整備された施設を想像していた。

でも、そうではなかった。

広い空き地が続いていた。
昔の囚人たちの運動場なのか、脱走防止用の敷地なのか。

雑草は伸びたまま。
地方の駅前にある、使われなくなった駐車場のような景色だった。

ただ広い空間がそこにあった。

そして、その上には空が広がっていた。

青かった。

思わず写真を撮りたくなるくらい青かった。
監獄に来ていることを、一瞬忘れるくらいに。

赤レンガの壁。
高い塀。

 

目の前には監獄がある。
それなのに、なぜか目は空ばかり追いかけていた。

後でスマホの写真を見返して気付いた。
監獄を撮ったつもりだった。
でも残っていたのは青空の写真ばかりだった。

展示の中に、窓の外を見上げる囚人の人形があった。

 

私も同じ方向を見た。
鉄格子の向こうには青空が広がっていた。

なぜだろう。

監獄を見に来たはずなのに、気になったのは空だった。

私は監獄を見学していた。
でも気になっていたのは、監獄よりも、
その向こうに広がる空だった。
見学を終えて、もう一度外へ出た。

相変わらず空は青かった。


お土産ショップで店員に声をかけた。

「すごくいいミュージアムでした」

普段ならこういうことはあまり言わない。

「ありがとうございます」

店員は少し嬉しそうに笑った。

「実は私たちも、最初にこの施設の話を聞いた時は、
どんなものになるのか想像できなかったんです」

私は、パンフレットや館内でよく使われている青色を指差した。

「この青がいいですね。今日の空ともよく合っています」

すると店員さんは言った。

「ぜひ次は夕方に来てください、
 夕焼けが本当に綺麗なんです」

「春は中庭の桜も見事ですよ」

店を出て、もう一度振り返った。

次は夕方に来てみようかなと思った。
それに、桜の季節も悪くない。


駅へ向かう途中でビールを買った。
ベンチに腰を下ろす。

缶を開ける。

空はまだ青かった。
その時、ふと思い出した言葉がある。

"In wine there is wisdom, In beer there is freedom."
ワインには知恵があり、ビールには自由がある。

そんな意味だったと思う。
なるほどな、と思った。

映画『ショーシャンクの空に』のシーンも思い出した。
主人公のアンディが、看守に貸しを作り、
その返しで、囚人たちにビールを飲ませる。
しかし、アンディ自身は飲まずに、青空を眺める。

監獄とは違う場所で、同じ青空をみながら、そんなことを考えた。

奈良でみた空は、どこかあの映画の空と重なっていた。

もちろん明日になればまた会社へ行く。
退職したわけでもない。
でも、その日は少しだけ自由だった気がする。

その青空を、残しておきたくなった。

家に帰ってから、押し入れの奥にしまい込んでいた
小さなプリンターを引っ張り出した。

その日撮った写真をシールにした。

青空。
赤レンガ。
監獄の塀。

手帳に貼る。

手帳を開けば、あの日の青空が少し戻ってくる。

FIREの答えが見つかったわけでもない。
退職後に何をするべきかが分かったわけでもない。

それでも、次の楽しみが一つ増えた。
夕焼けを見に行きたい。
桜の季節にも行ってみたい。

退職後の人生というと、
つい大きな夢や生きがいを探そうとしてしまう。

でも本当に必要なのは、
そんな大げさなものではないのかもしれない。

「また来たい場所」
「次にやってみたいこと」

そんな小さな楽しみが一つずつ増えていくこと。
退職後の人生は、そうやって作られていくのかもしれない。

自由のことも考えた。
でも、心に残ったのは次の楽しみだった。

今回もまた、一本マッチを擦った。


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