わたしに流れる赤川 第一話
二十六歳の小夜子は、かつて恋心を抱いていた、いとこ琥太郎の結婚式へ出席するため、新幹線で仙台へ向かっている。
東京に恋人がいながらも、小夜子は十八歳の夏から一歩も前に進めていなかった。
彼女は車中で、不思議な老婆ナツコと出会う。ナツコは別の男の妻となりながら、東京大空襲で消えた男の面影を追い、岩手県の「松尾鉱山」へと向かった過去を持つ女性だった。
ナツコの話を通じて、琥太郎への割り切れない想いと向き合う小夜子。
岩手県八幡平に流れる「赤川」の記憶を媒介に、二人の女性の想いが静かに交錯していく。
東京の蝉が、街の喧騒をかき消そうとするかのように鳴く季節。
「まもなく二十番線に、8時2分発、はやぶさ103号、盛岡行きが十両編成でまいります。この電車は、全席指定席です。自由席はございません」
上野駅に鉄の塊が滑り込んでくる。夏だというのに地下のホームはひんやりとしており、鉄の匂いが充満していた。今朝、恋人から「まるで小夜子の結婚式みたいだね」と言われるほどに、精一杯めかしこんだ姿で車体に乗り込む。
「二十番線、ドアが閉まります。ご注意ください」
指定席に座り車窓を眺めると、都会で生活するわたしの時間と同じ速さで景色は移り変わっていく。わたしの『時間』は、この先も東京の街と共に消耗されていくのだろうと不思議な焦燥にかられた。
「今日何時に帰ってくる? 道中気をつけて」
スマートフォンを開くと、メッセージが入っていた。同棲し始めた彼は、朴訥とした風貌で、毎朝手回しミルでコーヒーを淹れてくれる。鈍行列車のような安寧と一定の速度を生活に与えてくれる人。
彼に対しては、恋愛感情よりも空気感が心地よいという理由で、気付けば一緒に居るようになっていた。
新幹線の窓に映る自分の顔は、慌ただしい平日の疲れをそのまま引きずっている。昨夜、「それ、ちょっと派手じゃない?」と彼に言われながら塗ったボルドーのネイル。琥太郎の結婚式に行くために、新調した色だった。
「お祝いなんだから、これくらいでいいの」
そう言って笑った自分の声が、この静まり返った車内ではひどく遠く感じられる。
自宅に転送で送られてきた結婚式の案内状には、琥太郎の隣に知らない女性の名前が書いてあった。一瞬、欠席にするかためらった。
しかし、無感情で「寿」の字を検索し、勢いで返信用はがきの「ご出席」の「ご」に重ねるよう寿と書いた。そのとき、右手とはがきが触れた部分がやけにザラついていた。
何度も結婚式には行かないと考えていたのに、いつのまにかはがきをポストへ投函し、切符を買って、今、新幹線に乗っていて。
何故出席と返答してしまったのだろうか、と毎秒毎秒引き返すことばかりを考える。
はがきを投函した夜。眠る恋人の隣で、琥太郎の名前の隣に並んでいた女性の名前を検索した。
Facebookにその名前は登録され、彼女自身が撮影したであろう自然の風景や街並みの写真がいくつも投稿されている。
やさしい、きれい、くもりがない。「あっ」と小さく声が漏れ、人差し指のスクロールが止まった。
淡い色調に加工された写真には、海へカメラを向ける琥太郎らしき男の後ろ姿が写っていた。
新幹線の外に、東京と埼玉を挟む荒川が悠々と流れている。 琥太郎は下流のような穏やかさと、濁流のような激しさを持ち合わせる人だったと思い出す。
母同士が姉妹関係のわたしと琥太郎は、三ヶ月違いで生まれ、兄妹のように育った。やさしい琥太郎をわたしがいつも泣かしていたが、大体二人で笑い合っていることが多かった。
「あんたたちのえくぼ、一緒ね」
母たちは嬉しそうにそう言っていた。この先も、兄と妹のように生きていくのだろうとぼんやり思っていた。
きっかけは、中学二年生のとき。いとこ同士は結婚できる、という事実を知ったこと。
「ねぇ、うちらって法律上結婚できるらしいよ」
何の気なしにそう伝えると、琥太郎は顔を赤らめ短く切った髪の毛を逆立てながら「へんなこと口にするんじゃねえよ」と怒りを露わにした。
「ごめん」
「もう二度とそんなこと言うんじゃねえぞ」
琥太郎は力任せに部屋のドアを閉め、バンッという音の残響が部屋を巡った。
微塵でもわたしと何かあることを想像したのか。瞬間、腹の底に流れる血が、ぐつぐつと沸騰するような強いものを感じた。しかし、それが怒りなのか、それとも別の感情なのか、十四歳のわたしにはわからなかった。
思春期だったわたしたちはそこから口数が減り、代わりに、虎が獲物を狩る前のような鋭い視線を琥太郎が向けるようになった。
それは、わたしを拒絶しているようでもあり、同時に、組み伏せようとしているような、逃れられない熱があった。
夜の底に触れてしまうような黒々しい目がわたしを捉え、それは恐怖と隣り合わせの甘美な気持ちを与えてくれる。 わたしたちの間には、ピンと糸が張り詰めた緊張感が漂っていた。
そんな関係が続いていたが、時が経つにつれ挨拶をするようになり、会話をするようになり、次第にわたしたちに漂う空気はやわらいでいった。
「小夜ちゃん、今度遊びに行こう」
高校へ入学して間もないある日、知らないアドレスからメールを受信した。
「誰?」
「琥太郎だよ。携帯買ったんだ。メールアドレスお母さんに教えてもらった」
「おぉ、よかったね。どこ行きたい?」
それから自転車で学校の行き帰りを共にしたり、水族館や映画館へ行ったり、夜な夜な取り止めのないことを電話で話した。
小さな映画館。 よくわからない昔の外国映画を観ていたとき、琥太郎がわたしの手をそっと握った。手の間に帯びる熱はやけに熱く、いつしかそれはじっとりとした水滴となる。
「手の中、サウナみたいだね」
琥太郎がわたしの耳元で囁いて笑う。
「ベタベタするから一回離そうよ」
「やだよ。ずっとこうしてよう」
観客はほとんどおらず、まるでわたしたちだけの空間。モノクロの映像がわたしたちの顔を静かに照らしていた。わたしの左側で笑った琥太郎は、やはり右頬にえくぼがあった。
一緒に出掛け始めたころは「本当に仲がいいわね」と母は笑っていたが、夜に長電話をしたり出かける頻度が多いことを知ると、「どんな関係?」と苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あんたたちが手を繋いでイオンを歩いてたって、堀のおばちゃんが言ってたわよ。やめてよね、いとこ同士なんだから」
「……人違いでしょ、気持ち悪い想像しないでよ」
強い怒りを覚え、母を睨みながら言葉を吐いた。ただ、母にそう言われたことで、いとこ同士の恋愛は世間的に歓迎されていないことを悟った。
「琥太郎とデートすんなってお母さんに言われてさ、睨みつけちゃったよ」
「小夜ちゃんは相変わらずこっわいなぁ。すぐ怒っちゃう。俺、また泣かされるよ」
電話の向こうから聞こえる琥太郎の笑い声は、どこか諦めを含んでいるように聞こえた。
それでも、わたしたちは一緒にいることをやめなかった。電話は家でなく近くの公園からかけ、映画館も隣町まで行き、長期休みはわざわざ遠方まで足を延ばした。
高校三年生の夏、東京進学を希望していたわたしは、来年から離れ離れになるからと泊りがけの遠出を提案した。もちろん、家族には友人と遊びに行くと偽って。
「ねぇ小夜ちゃん。松尾鉱山ってところ、廃墟のマンションがたくさんあるんだって。楽しそうじゃない?」
「廃墟? 怖そう。何しに行くの?」
「写真撮りに行きたくてさ」
岩手県八幡平の山の中腹にかつて存在した、松尾鉱山。硫黄が採掘できたその鉱山は石油の登場で1970年代に閉山に追い込まれたらしい、と琥太郎が楽しそうに教えてくれた。
新幹線でいわて沼宮内駅まで行き、バスに乗って松尾鉱山まで向かう。
そこにはゆるやかな山の斜面に沿って、空虚なマンションが何棟も屹立していた。灰色のコンクリート、窓のない無数の窓枠、それらを囲む容赦のない木々や蔓。
山林に佇む人工的な建造物たちは、かつて生きていた動物の骨のように静かに眠っているようだった。
琥太郎は買ったばかりの一眼レフで何度もそれらを撮っていた。
「もっと近くから撮りたいなぁ。ねぇ、近づこうよ」
「やだよ、ここ有名な心霊スポットらしいじゃん。幽霊出たらどうすんですか」
「平気平気! そしたらスリーショットでも撮っちゃおう」
「あはは。琥太郎呪われちゃうよ」
無邪気な琥太郎の姿に笑みがこぼれたが、咄嗟に右頬にくぼみがあるのを確認した。そのくぼみに触れながら、「こんなの、なくなればいいのに」と琥太郎に聞こえないように呟いた。
松尾鉱山には資料館があり、ある写真の前で琥太郎が立ち止まる。鉄が錆びたような赤茶色をした川が、別方向から流れてきた透明な川と合流する写真。
「小夜ちゃん、これ赤川っていうらしいよ」
「なんだか不穏な色だね」
「これね、鉱山から出た毒でこんな色になったんだって」
「あら、琥太郎よく知ってんじゃん」
「小夜ちゃんと違って、ちゃんと説明文読むタイプだからね」
ひたすら真面目な顔で答える琥太郎がおかしくて、いや、わたしたちが一緒に居れることが嬉しくって。その時間のきらめきに、わたしはピーナッツが殻の中で転がるようカラカラと笑った。
「なんか小夜ちゃんてさ、赤川みたいだよね」
「なにそれ」
「赤川って毒が流れてるし、色も毒々しくて。小夜ちゃんて、一見おとなしそうに見えて実は毒があるっていうか」
「へんなの。ぜんぜん嬉しくないです」
「そうだよね、ごめんね」
言って、少し目頭が熱くなった。わざと顔を左右に振り、彼からわたしの顔が見えないようにした。
十八歳のわたしは、きれいなもので例えられるよりも何倍も何倍も嬉しかった。だって毒なら、わたしが琥太郎の中でずっと生き続けられる気がしたから。
琥太郎、琥太郎、琥太郎。
いつも琥太郎から繋いでくれる手を、そのときはわたしから繋ぎ、他に誰もいない資料館の静けさを永遠に味わった。
◆
ふいに、鼻腔をかすめる匂い。新幹線の車内には似つかわしくない、湿った古い布のような、あるいは微かなお線香のようなものを感じた。
「あっ」
ガタンと車体が揺れ、スマートフォンを落とす。 老婆がゆっくりと拾い上げてくれ、「すいません、わざわざ」と言うと、彼女はにこりと笑った。
その笑い方はうつくしく、どこか怖いものを潜めていた。
「まもなく、大宮です。大宮の次は仙台にとまります」
響き渡る車内アナウンスに、まだ上野駅からどこの駅にも到着していなかったことに驚く。乗車したとき、隣席は空席だったはずだが、いつのまにか老婆が隣に居たことに狐につままれた気分になった。
「とんでもない。きれいなお召し物ね、これからお祝いごとかしら」
白くなった髪の毛をまとめ、淡く黄味がかった着物を着た老婆は、口元によく映える赤い紅を差していた。そこからは鉄のような匂いがするようだった。
「はい、親戚の結婚式に仙台まで」
「そうなのね。そのわりには、顔が暗いけれど」
わたしの回顧を脳を開けて覗かれていたように思い、恥ずかしさから思わず顔を伏せる。
「ねぇお嬢さん、きれいな赤色の爪しているわね」
「……ありがとうございます」
「わたしが昔住んでいたところにも、そんな色の川が流れていたわ」
「川、ですか」
いたずらな笑顔を浮かべながらそう言った老婆は、八十代にも少し若いようにも感じさせる黒々とした目をしていた。
「ねぇ、わたしは岩手に向かっているんだけど。ちょっとばかり、お話に付き合ってくださらない?」
自分が何か妙なことに巻き込まれている気分になる。偶然隣り合った人間に昔話をする老婆なんて。ふと、小さいころ母が読み聞かせしてくれた山小屋に現れる雪女の絵本を思い出した。
老婆の向こうにある車窓には、大宮駅から乗り込む大勢の人間が見えた。その列は果てなく続いているように見え、蟻の行列を彷彿とさせる。
「……話、とは」
「わたしの昔話よ」
老婆はまるで最初からわたしに話すと決めていたかのように振る舞う。カレンダーにその予定を書き込んでいたかのように。
「もう誰もこんな婆さんの話なんて聞きたがらないのよ。お隣の席になったご縁ってことで、ねぇ?」
この話をわたしは聞いてしまっていいのだろうか。この人と会ったことを誰かに伝えたら、命を落とすんじゃないだろうか。そう思うと、車内の冷房が効きすぎてるように思え、持参したカーディガンを羽織ることにした。
「あなた、太平洋戦争って知ってる?」
「はい。一応」
「あら良かった。そのころのわたしは……」
大宮駅から出発した車両は、徐々にスピードを上げていき、四次元の狭間でタイムマシンに乗っている感覚になった。
【全六話】
わたしに流れる赤川 第一話
わたしに流れる赤川 第二話
わたしに流れる赤川 第三話
わたしに流れる赤川 第四話
わたしに流れる赤川 第五話
わたしに流れる赤川 第六話
