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信仰について考えてみる─遠藤周作『沈黙』を読んで

わたしは特定の宗教を信仰していない。崇敬している対象はいるけれど、その人は教祖でもなければ神でもないし、もちろん聖人でもない。家族やわたしのお葬式をするときは仏教のどこかの宗派の人を呼ぶらしいということも知っているけれど、それが何宗なのかは正直わかっていない。

ライブの当選祈願をしに(わたしはアイドルオタクなのだ)神社に行ってお守りを買ったりもするけれど、その神社で祀られている神様の名前とかはわからないので、まあ全体的に神様ライト層だと思う。少なくとも、わたしの中では、自分自身のことをそう認識している。

とはいえ、宗教、とりわけキリスト教に対しての知識が全く無いかといえばそうではない。母校がキリスト教系なので、キリスト教や聖書について最低限の知識は学んでいる。課題の一環ではあるものの、礼拝に足を運び、牧師の話を聞いたこともある。建築物としての教会や宗教画を美しいとは思うし、なにが描かれているのかについてはなんとなくわかる。
そんな感じに積み重ねてきた学びと経験の上で、絶対的で超越的な存在として神を信仰するという行為のことを、正直に言うとわたしはあまり理解できていない。

ただの読書感想のつもりが、前置き・・・という名の自分語りが随分と長くなってしまった。が、わたしの中で宗教というものは丁重に扱うべきテーマのひとつである、という意識なので、この感想を人様に公開するのであれば自身の宗教観くらいはきちんと述べておかないといけないと思う次第だ。

という、長く綴ったまえがきの最後にはきちんと注意書きを書いておこう。

以下に記された文章は宗教および神の存在をあまり信じていない人物による、遠藤周作『沈黙』の感想と、本作を踏まえた「信仰」という行為についての考察であることをご承知おきのうえお読みください。

あとついでに、レポート以外の場所で何かを書くのは初めてだ。よって、至らない点は多くある。これについてはご容赦いただきたい。文章を書くのは苦手だ。

果たしてこの記事を誰かが読むのか?というところはさておき、はじめてのnoteにしてはデリケートな話題を扱っているわけだし、注意書きをするのとしないのでは話が変わってくるだろう。きっと。


信じる人の思考

本作の主人公ロドリゴは、キリシタン弾圧期に九州へと密航してきたポルトガル人司祭だ。司祭というだけあって、作中の登場人物の中でも強くキリストのことを信じている人だといえる。

彼は、多分だけどイエスを信じない人のことが理解できていない。イエスを信じられないなんて可哀想だ!と憐れんでいる感じさえする。彼にとってイエスを信じること、すなわち信仰は絶対的なことであり、自身の信仰が正しいことを疑っていない。キリスト教信仰の正しさを証明するためなら密航もしてしまうし、作中中盤〜後半では自身のことをキリストに重ねて見ているような気もする。実際の司祭がどうなのか、わたしにはよくわからない。出会ったことないし。まあ、少なくとも彼は望んで司祭になっていて、キリスト教を信じることが生き甲斐です!って感じの人だと思う。

個人的に、ロドリゴという人間の持つ宗教観とそれに伴う傲慢さと押しつけがましさのようなものは、熱血教師みたいでかなり鬱陶しい。じぶんのまわりに居たらあんまり関わりたくは無いタイプだ。神学校に通って司祭になるような人ってみんなこんな感じなんだろうか。もしそうだとしたら、結構嫌だな。

「転ぶ」ということ

作中でロドリゴはしばしば「転ぶ」こと、すなわち棄教について考える。作中に登場する「転んだ」人々の多くが物語のキーパーソンとなっていることから、本作においてキリスト教を棄てるということ(そして、信仰について思案すること)がひとつの大きなテーマであることが示唆されている。
ロドリゴは人々が「転ぶ」理由がわからない。先程も述べたとおり、彼にとってイエスへの信仰心は絶対不変で揺らぐことのないものだからだ。なんなら彼の唯一かもしれない。彼は、「転ぶ」くらいならば殉教すればいいと考えている。
しかし、日本で過ごす時間を経てそんなロドリゴの考え方にも変化が訪れる。暮らしを共にした人々が捕らえられた時、ロドリゴは彼らが踏み絵を踏み、「転んで」でも生き延びることを願う。

憐憫の情が胸を突きあげ、思わず私はおそらくあなたたちなら決して口にしない返事を言ってしまった。(中略)「踏んでもいい、踏んでもいい」
そう叫んだあと、私は自分が司祭として口に出してはならぬことを言ったことに気がつきました。

『沈黙』81~82p

彼らの殆どは信仰を捨てないまま、過酷な拷問を受け、殉教者としてその一生を終えることとなる。
その様子を見たロドリゴは、神はなぜこの状態を見ているはずなのに沈黙を貫くのか?(辛い拷問に耐える人々を救わず静観しているのか)と考える。人間って、追い詰められるとあんなにも信じていた神に疑問を呈することが出来るらしい。その感覚は、あんまりわたしには想像できない。

神が沈黙を貫くということは、特に神を信じていない人からしたら当たり前のようにも思えることだ。
けれど、神を信じているロドリゴは、神は危機的な状況に置かれた際に沈黙を破り救いの手を差し伸べる存在であると信じている。いつか、神がその沈黙を破ると信じている。だからこそ神に疑問を抱いてしまうし、神を信じていないと、今まで彼が信仰する中で育まれてきた信仰心は水泡に帰してしまうのかもしれない。

本作においてロドリゴの「転ぶ」ということに対する価値観は、自身の経験とともに大きく3度ほど変化している、と思う(本当はもう少し細かいけれど)。第1段階では、「転ぶ」ということは信仰が足りていない弱き者の逃げであると考え、第2段階では神が救いたりえないことに気づいてしまったから「転ぶ」のだと考えている。しかし、最終的にロドリゴはこう考える。表向きに「転ん」だとしても、その信仰心があれば神は赦しを与える、と。第3段階のことについてはもう少し詳しい感想を後ほど書こうと思うのだけれど、わたしとしては3段階に分けて語られるロドリゴの思考や描写を読んだ上で、コイツちょっと自分本意な奴すぎないか・・・?と思っている。うーん、やっぱりわたし、ロドリゴとは仲良くなれなさそう。まあ別に仲良くなりたくもないけど。

神と沈黙

タイトルにもなっている「沈黙」という言葉は、初めてロドリゴが神へ抱いた疑問であり、物語終盤のロドリゴと神の関わり方の変化に繋がるものでもある。物語終盤、ロドリゴは踏み絵の前に立たされる。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。(中略)
その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

『沈黙』268p

こうしてロドリゴは「沈黙」を破った神の声を聞き、踏み絵に足を掛け、「転んだ」のだ。なんだか、え〜!?って感じ。神に許可を得たから踏み絵を踏んで、建前上「転ぶ」ってちょっと・・・そんなの、ほかの殉教者が浮かばれない。
そして、この経験を経たロドリゴは優越感を得ているように感じる。究極の困難を経た自身のために神が沈黙を破り、自身は救済されたのだと。神の声を聞いた自分は他の者とは違うのだと。そう思っているように見えてしまう。

ロドリゴにとって神の声を聞けたことは喜ばしいことで、それに従って「転んで」いるのだから、「転んだ」ということはロドリゴ的には正しいことなんだろう。だけれどそれって、殉教した人々が神の声を聞けなかったから殉教した惨めな人ってことになっちゃわない!?と思うのだ。

信仰とはなんだろう

ここまで『沈黙』についての感想をぼんやりと書いてきた。ここで一度主題、というかこのnoteに付けたタイトルに立ち返りたい。「信仰」って、なんだろう。

まえがきにも少しだけ書いた通り、わたしにも崇敬する対象がいる。そして、その対象に向ける崇敬の感情は限りなく信仰に近しいものであると、本書を読むまでのわたしは思っていた。けれども、わたしはその人に対してロドリゴがイエスに向けるような感情を持ったことはない。
崇敬の対象は困った時に何かしらの力で解決してくれる存在であるとか、苦難の中にいる時に沈黙を貫くのはありえないとか、崇敬している対象は絶対に正しい・・・とか。思ったことがない。

この考えは、神社に行ったりするという「祈り」的な行為に対しても同じだ。たとえば、ライブのチケットを当てたくてチケットがよく当たると噂の神社に行ったとして、当たったら神社に行ったおかげだ!と思うけれど、外れても、神社に行ったのになんで当たらないの?とかは思わない。

なにが言いたいかというと、わたしは崇敬したり祈りを行うことはあるけれど、その対象に自分自身の全て(起こる出来事や、感情・・・他にもいろいろあるけど)を委ねることはない、ということだ。


だからなんだかロドリゴのことは、神を信じ神に全てを委ねすぎているがゆえに視野が狭くて、思考が停止しているように見えてしまう。なんなら、神を全能だと思いすぎているからか、神は自分の期待通りに物事を運んでくれると思っているし、神に全責任押し付けている状態になっている気もする。

ロドリゴ、神学校から聖職者になる道を歩んでいるわけだし、彼の関わってきた人はみんな彼と同じような考え方なのかもしれない。
そう考えてみると、作中におけるロドリゴの思考の働きがすこしわかる気もしてくる。もしやロドリゴ、自分と似たような人しか周りにいない場所から思考を強制的に動かさせられる日本に来たことで、自身の信仰について思考せざるを得なくてこんなにも振り回されているのかも・・・?

神に対する考え方の違いには、国籍や時代、キリスト教を信仰する人々とあんまり神を信仰していないわたしの宗教観の違いなんかもありそうだけれども、本書にひとつ興味深い点があったので引用したい。

「彼等が倍じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」
(中略)
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」

『沈黙』236p

日本人の信仰観を感じさせられる文章だ。キリスト教を信じるフェレイラが日本人の信仰観を下に見ている感じは少し気に食わないけれど、概ね間違ってはいないだろう、という感じ。日本人にとっての神様はあくまで日常の地続きであって、全知全能ではないからこそ、信仰に対する感覚がライトなのかもしれない。(これは決して悪いことではないと思う)
だからこそ、全知全能の神を信仰し、神に全てを委ねてしまうと、神様という人智を超えた存在に飲み込まれてしまうのかもしれない。


あとがき


『沈黙』を読んだきっかけは、応援しているボーイズグループの曲が『沈黙』を題材にしていたからという極めて短絡的な理由なので、まさかnoteに書き連ねるほどの感想になるとは思わなかったのだが・・・これもまた人生、面白い。

あと全然関係ないけれど、文章を書くのにカロリーを使ったのか、無性にパスタが食べたくなってきた。なんで?

そんなこんなしているうちに、どうやら気が付けば5000字も書いていたらしい。書こうと思えばまだ書けるけれど、そろそろ文章を書くのも疲れてきたし終わりにしたいので(読書をして感想を書くという行為にはあまり慣れていないのだ)、わたしが『沈黙』を読み、このnoteを書くきっかけとなった曲の中で特に共感する詞を引用して終わろうと思う。

ロドリゴの信仰とは異なる、わたし自身が崇敬対象に抱く感情(これは期待であり希望であると思う)にいちばん近しい一節だ。

救われたいわけじゃない 君の答えは与えられない それでも僕は 君の声を待っていたい

Silence / 原因は自分にある。

『沈黙』を読みながらも聞いていたのだけれど、読み終えてから聴いてみると、わたし自身の感情による共感だけではなく、作中のことも想起させられて以前とはなんだか異なる視点で歌詞が入ってきた気がした。言葉って面白いなあ。おわり。



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