イスラム教は宗教だが、イスラームは宗教ではない〜「宗教」を理解する上で最も重要なこと〜
本記事は上記のふたつの記事の続きのような形であるので、それらの内容をふまえて話を進めることにしたい。読み進める中で不可解な点があれば、先にそれらの記事をお読みいただければ幸いである。
今回は順調に(?)いわゆる「イスラム教」をとりあげることになるが、要点は、タイトル通り「イスラム教は宗教だが、イスラームは宗教ではない」ということである。この点を体感的に理解すれば、宗教という「概念」についての理解も圧倒的に深まるし、それはそのまま現代および過去の世界を理解すること、たとえば、ありきたりだが「なぜキリスト教世界とイスラム教世界はいつまでも衝突するのか」といったことを理解することにつながることになる。
相応に長文になったこともあり、後半は有料となるが、本記事をお読みいただければ、たとえば「ビジネス教養としてのイスラム教」といったような表面的な内容の本や記事を読んでもわからない、根本的かつ実用性もきわめて高い知識が得られるので、興味のある方はぜひ最後まで読んでいただきたい。あるいはそれは、一般的に相互に異質とされるものの両方を客観的にみる上での基本的な視点を得る上でも役立つだろう。すなわち最終的にはこの問題に限らない話でもある。
(なお筆者はこういった記事を書くとき、そのテーマに関する基本的な原典、この場合はクルアーン等を含む、少なくとも最低30冊くらいは様々な立場から書かれた関連書を読んでいるので、いい加減なまとめではないことは保証する)
最初に言えば、「キリスト教世界とイスラム教世界がいつまでも衝突する」のは、「宗教が違う」からではない。そのような見方をする時点で、ある意味では問題を根本的に履き違えていると言えるため、そういった見方は「益」にならないばかりか、「害」になることさえも多いと言える。むしろその集合的な結果が、いつまでも相互理解が進まないという事態なのだと考えられるのである。
このあたりから入ることにするが、このことを理解するには、前回みたように「宗教」という概念そのものがまず、最初から「西洋的」なものだということを理解する必要がある。すなわち、「キリスト教」という宗教と「イスラム教」という宗教が並列的にある、という見方は、その意味では少しも客観的なものではない。その見方がすでに西洋的だとも言えるのであって、その意味では「『イスラム教を』理解しよう」という姿勢は、言わば最初からバイアスがかかった姿勢なのである。
この認識を前提とすればすなわち、そうではない、できる限り客観的な理解としては、「イスラーム」を理解しようとすることが重要であると言える。
「イスラーム」とは、ここでは便宜的に、いわゆる「イスラム教」「イスラム世界」の側から見た自己理解を指してそのように呼ぶということにさせていただくが(詳しくは後述)、すなわちどちらかと言えば「内側」からの見方である。
もちろん、西洋的な見方を脱しても、反対側の見方に入るのでは意味がないのであり、最終的にはどちらからも離れた「ひとつ上の視点」をとることが本当の意味での客観的な理解となるだろう。ただしわれわれ日本人も含めて西洋文化の中では何かと西洋内的な視点というものがあまりにも当たり前のことになっているので、理解を深める上では、まずはどちらかと言えば反対側の視点を意識してとる必要がある、ということである。そして、両方がちゃんと見えているのであれば、ひとつ上の視点もほとんど自動的にとれるようになると言える。
ではまず、「イスラム教」ではない「イスラーム」とは何か、ということだが、これについてまず参考になるのは、社会科学者の小室直樹博士(「社会科学者」とはなんだ、「社会学者」の間違いではないのか、という方は、小室博士のプロフィールをウィキペディアでもよいので見ていただきたい)のまとめ方である。
宗教とは何かということを述べるには、本当ならイスラム教から入るのが一番理解しやすい。イスラム教は、「宗教の戒律」と「社会の規範」と「国家の法律」が全く一致する。つまり、人々の生活の規範がすべて矛盾なく連関するからで、こういう宗教は、原始宗教を別にすれば、他にはユダヤ教以外に見当たらない。
ここで重要なのは、「『宗教の戒律』と『社会の規範』と『国家の法律』が全く一致する」という部分である。
先に言えば、もちろんこれは分析のためのひとつの「モデル」であって、現実的にいつでもどこでも完全に一致するわけではない(むしろそれはそれでそんなものはどこにもないと言える)。そもそも、イスラームにしても、キリスト教にしても、あるいはユダヤ教にしても(あるいはもっと言えばもちろん仏教なども同様であるが)、実践としてはきわめて原理主義的なものからきわめて世俗的なものまで様々にあるのであり、それは地域や時代、コミュニティにもよるし、個々人によってもかなりの幅がある。
ただ、あくまでも大まかに「キリスト教世界」と比べると、要するに「イスラーム世界」には、言わば「宗教の外側」というものがない、という特徴があるということなのである(なお、引用内では「イスラム教」と呼ばれているが、これは本記事で言う「イスラーム」に相当する。また、ユダヤ教についてはいわゆる「ラビ・ユダヤ教」を指すと解釈できるが、それがイスラームと似た形式になったのは、まさに両者が似た歴史的経緯をたどっているから、すなわちキリスト教世界が基本である中でそれとの関係によって自身を形成してきたからだ、というのはよく指摘されることである)。
その前に、基礎知識としてこれら3つのいわゆる「宗教」の関係について、一般的にはよく知られているとは言い難いことをいくつか確認しておきたい。
まず、これらは「一神教」だという点がある。「そんなことは知っている」と思われるかもしれないが、ここで重要なのは、「一神教」というものが存在する文化や社会というものは、あらゆる時代や地域を見渡してみると、実のところはきわめて「珍しい」ということである。これは結構、重要なことである。
一般的には、むしろ現代の世界ではこれらの宗教の信者が統計上の人口としては多いということになっているので、一神教こそありふれているように思われるかもしれない。しかし、これらはやはり(やはり、というのは前回までにみた「宗教」や個々の宗教の概念の由来をふまえてのことである)、どちらかと言えば「特殊」なものなのである。
正確に言えば、ここで言う「一神教」とはいわゆる「拝一神教」ではなく「排他的一神教」(唯一神教)である。すなわち、たくさんの「神」がある中でどれか一神を崇めるというのではなく、「そもそも世界には一神しか存在しない」「神とは多ではありえない」という考え方である。そして、この考え方が「特殊」だと言えるのは、およそこれら3つ、あるいはそれらと起源を同じくする、すでに廃れてしまったものまで含めて関連するもの以外には、そういった考え方が存在しないからなのである。
また、そのこととも関係が深いが、注意すべきこととして、そもそもこれら3つの「宗教」は、外から見ればかなり「近い」宗教だという点もある。
たとえば聖典にしても、キリスト教の聖書にはユダヤ教における聖書がほとんどそのまま含まれているし、クルアーン(コーラン)にしても、あくまでもそれらを前提にした内容であり、その意味では一直線につながっている(だからこそ今日の感覚で言えば「最新版」にあたるようなものとしてイスラームが最高である、と述べることに説得力が生じるという側面もある)。
そして「預言者」に対する見方にしても、キリスト教もユダヤ教における預言者を預言者と認めているが、イスラームでも同様で、たとえばモーセ(ムーサー)やノア(ヌーフ)も預言者とみなされているし、イエス(イーサー)にしても、「救世主」だとは認めていないが、預言者としては認めているのである。
その上で簡単に構造を言えば、ユダヤ教において人間が神と結んだ契約が「イエス・キリスト」の存在によって「更新」されたと考えるのがキリスト教であり、対して、それらの宗教はいずれも神との関係をきちんと築けていないとして、「最後にして最高の預言者」であるムハンマドが言わば「今こそ必要な神の言葉」を伝えたと考えるのがイスラームである。
ついでに言えば、「預言者」とは神から「預」かった内容を人間に伝える人である。「人」であって、非人間的な存在ではない。いわゆる「神がかった」ようなときに、神の言葉を受け取った人である。それが神の言葉であると他の人々に信じられることで、「預言者」と見なされるようになる(「救世主」については前回を参照)。
そしてここからわかるように、最も理解しておくべきことは、これら3つが信じている「神」は、まったく同じ神だということである。それが、「アブラハムの宗教」といった名称でひとくくりにして語られることもある所以でもある(ちなみに「アッラー」はアラビア語で「神」の意味であり、固有名詞ではないので、たとえばアラブ人のキリスト教徒は神をアッラーと呼ぶ)。
さて、話を戻すが、キリスト教と異なるイスラームの特徴は、「『宗教の戒律』と『社会の規範』と『国家の法律』が全く一致する」ということであった。逆に言えば、キリスト教世界ではこれらは「一致していない」ということであるが、すなわちこれが、両方を理解する上で最も重要なところであるとも言える。
キリスト教世界においてこれらがどのように「一致していない」かと言えば、まず「宗教の戒律」とは、キリスト教の教義あるいは信仰内容にあたる。これはカトリックとプロテスタントと正教、あるいはもっと細分化したり他の視点で分けてもそれぞれ異なるが、いずれにしても「キリスト教信仰」の枠内だという点は基本的に同じである。次に「社会の規範」とは、専門的には難しい話になるが、簡単に言えば一般的な価値観や常識や行動の習慣のことである。そして最後の「国家の法律」はそのままである。
これらがイスラームにおいて「一致している」かどうかについてはあとの内容でも触れるが、最初に言えばそれは、原理的には「一致せざるをえない」とも言える点がここでは重要となる(言いかえれば、原理主義的であればあるほどそれらが「一致」している状態を維持することを目指すのであり、「一致していない」ほど世俗化しているということになる)。すなわち、言ってみれば「信仰を篤くする」ためには、これらを分離することはそもそも「できない」ということなのである。
逆に言えば、キリスト教世界において「政教分離」や、「信教の自由」といったことがそもそも「可能」であるのは、まさに「キリスト教だからこそ」とも言えるということである。すなわちイスラーム側から見れば、これらは「するかしないか」以前に、そもそも「できない」とも言えるのであって、これが、西洋的な視点における「キリスト教」の部分を単純に「イスラム教」に置き換えることができない理由の、ひとつの言い方である。
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