「今」は言葉にすぎないのではないか
上記記事で、主に「過去」や「未来」というものが、「現在」に比較すれば「あまりにも多様である」ということについて触れたが、今回は、「現在」も実は「あまりにも多様である」という点についてみてみたい。なお「現在」については下記記事でも少し触れたが、同記事と同じく「現在」は「今」と呼ぶことにしたい。
「今」というのはしばしば、「一瞬である」とされる。「一瞬」というのは文字通りには、「一回、まばたきをするだけの間」ということだが(にもかかわらず、「ちょっと待って」といったような、時には「分」単位に及ぶ時間までもが「一瞬」と口語では呼ばれていたりするのは、それはそれで興味深い現象だが)、ともかく「即座に過ぎ去る」ようなものであり、だからこそ「『今』と言ったときにはもう今ではない」という言明は、広く信じられているのだと言える。
もっとも、他方では久しぶりに会った知人に「今何してるの?」と言う際の「今」は、明らかに上の意味での「一瞬」ではないのであり、あるいはこのような際にしばしば言われる「今お前と会っている」というジョークでさえ、もはや「そもそも一瞬ではないではないか」という点を省みてはいない。言いかえれば、「今」はむしろ「一瞬などではない」場合のほうがむしろ多いかもしれないのであり、場合によっては、平気で数ヶ月や数年に及ぶこともあるということである。
もちろん、この場合はその人と「話す」こと自体が久しぶりである、ということが、「今」という言葉の用法をすなわち変化させているとも、考えられないことはない。毎日会っている人に、「今何してるの?」と言われたら、ここ数ヶ月や数年のことを話すことはまずないだろうからである。しかしその場合でも、やはり「一瞬」のことを話しているのではないのであり、すなわちこの場合も「今何してるの?」に対しては、少なくとも数分や数時間のことについて話すことにはなるのだから、やはりここで言う「今」にはもともと相応の「幅」があるということである。
ここからわかるのは、実は「今」を「一瞬」と定義するのも、ある特定の場合における「定義」の「ひとつ」にすぎないのだということだが、あるいはこれまでの記事でもみてきたように、他方では「物理学的に」「客観的な」「今」などというものについても、もはや確固たるものではないのであるから、すなわち「今」や「現在」というものも、結局は「単にひとつの言葉にすぎない」とも言えるということである。
あるいは「今」は「言葉」であるだけではなく、そのものを「これです」と指し示すことができないように、ある種の「抽象的な」言葉でもある。だからこそ、諸言語間でも時にはかなりの相違があるのであり、そもそもある言語における「今」に相当する言葉と、他の言語でそれに相当する言葉がどの程度「似ている」「同じ」「異なる」か、などをいかに判定するのかも、決して定かではない。もちろんこれはどの「言葉」をとってみても一般的に言えることだが(哲学史的にはクワインの「ガヴァガイ」が有名だが)、いずれにしても、「今」というすなわち「言葉」が、ある種「特別なものである」という認識は、どこまでも幻想だとさえ言えるかもしれないのである。
実際に、ピダハン族のように、「過去」や「未来」の概念を持たず、「『今』しかない」という認識をしているのではないか、とされる認識文化の存在さえ、指摘されることもある(ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン』)。ここでは、ストレートにとればすなわち「全てが今」ということにもなりえるわけだが(ただし「今以外」がないならすなわち「今」もないのだが)、実際にピダハン族の認識文化がどうかは別として、そのような認識世界を想像するのは、そんなに難しいことではないだろう。
たとえば「りんご」にしても、詳しい人ならば「これはふじだ」「シナノゴールドだ」などと認識するかもしれないが、そうした知識であり言葉を持っていない人にとっては、それはただの「りんご」である(あるいは「りんご」さえ知らない場合もありうる)。これと同じく、「過去」「今」「未来」等についても、その概念を持っていなければ単に「認識できない」のであり、またそういった観念を抱かなければ(何かを区別して認識するという文化を形成しなければ)それに名前がつけられることもない、ということである。
ちなみにピダハン族は住んでいる環境が「熱帯雨林」であってすなわちある意味で「変化が少ないから」、時間にあまり気を配らないのではないか、とされることもあるが(実際にその意味では日本では四季の変化が激しいからこそあらゆる節目に名前がついているのだ、とも確かに考えられるし、もっと言えばそれがある種「繰り返す」からこそ直線的ではない円環的な時間感覚が育ちやすいのかもしれないが)、その意味である種「時制がない」と言われる言語(インドネシア語、タイ語、ベトナム語など)がいずれも赤道に近い、すなわちある意味で「変化が少ない」地域であるというのも、それはそれで興味深いことなのかもしれない。
いずれにしても、「今」を「単に言葉にすぎない」と捉えるならば、結局は「時間の不思議」はすなわち、「言葉の不思議」「言語の不思議」へと単に還元されてしまうところもあるということであり、それなら「時間」だけを特に取り上げてびっくりする必要性というものは、実はそれほどないのかもしれないのである。
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