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一神教は何を発明したのか

一神教は何を発明したのか、と言えば、「一つの神だけを信じることである」とは、言えるだろう。いや、言えないのかもしれないのであり、というより、そのような理解はどちらかと言えば間違っているのではないか、というのがこの記事でみてみたいことのひとつである。そしてもうひとつは、一神教の理解としては、おそらくそれでも不十分である、ということである。



一神教というものは、基本的にはユダヤ教の発明だとされている。そしてどれほど関連が深いと考えるかは別として、少なくとも明らかに関連する形で出てきたものがキリスト教であり、またイスラム教であるとされている。歴史的には、ゾロアスター教のようにそれなりに大きかった「他の一神教」もあるにはあるし(ただしゾロアスター教はいわゆる善悪二元論であって、一神であるとは言い難いともされるが)、あるいは意外(?)なところでは、たとえばヒンドゥー教にも一神教的な宗派はあるが、ただし今日的に大きなものとしてここではユダヤ教・キリスト教・イスラム教を一神教と呼ぶことにしよう。そしてそれらの特徴は、単に「一神を信じる」というだけではなく、その裏返しとして明白に「他の神を信じることを禁じている」という点である(拝一神教に対して排他的一神教と呼ばれる)。


この意味での「一神教」が登場する前は、一般的に「多神教」というものの世界だったとされている。実際に世界中のどこの神話を読んでも(ちなみに神話とは本来的には書かれ読まれるものではなく、誦まれ聞かれるものであったという点は重要だが)、「神」とされるものは登場するならば多数、登場している(「とされるもの」というのは、何を「神」の一種とするかも解釈によるからである)。言いかえれば、わざわざ「一つにする」と考えなければ、あるいは他の神を信じることを禁じなければ、それは生じなかったとも考えられるのであり、その意味では人類は放っておくと、一神教というものを発明していなかった可能性もあるとは言える。そう考えると一神教の特殊さというものには興味は尽きない。



そもそも、ユダヤ教とそうした意味でよく比較されるギリシャ神話などをみてみると、そこでの神々は一神教における神に比べて、はっきり言えば「超越性が足りない」といったところがあり、どちらかとあえて言うならば「ものすごい人間」のようなところがある。あるいはだからこそ、地球よりも進んだ文明を持つ他星人だったのではないか、と考えることなどもできるということだが(この仮説、古代宇宙飛行士説を世界に広めたのは先日亡くなった作家のエーリッヒ・フォン・デニケン氏であるが)、いずれにしてもそれらの神々の能力は、一神教におけるたとえば「全知全能」のような、ある種の「圧倒性」は欠いているとは言えるだろう。もちろん、神を「どのように描写するのか」という文化自体の違いなどもあるから簡単に比較はできないが、もっと古いメソポタミアの神話にしても、神々はむしろ感覚としては街の有力者のようなところも、場合によってはあるともみえる。


このように整理すれば、一神教の発明とは、ひとつにはこの意味での言わば「圧倒的な超越性を持つ神」を、「思い描いた」ところにあるとも言えるが、すなわち「人間の延長」的に捉えられる存在ではなく、言わば質的に「人間を超越した存在」という観念である。これは、「超えている」の先に「もっと超えている」がありうるにしても(そもそも、自分より上なのであればどれほど上なのかは基本的にわからないのだから)、それらをも絶対に超えているような、すなわち「どこからみても完全に超えている」ようなものがある、と考えるという意味では、数学における「無限」概念の発展などとも、「脳(心)の情報処理」という意味では関係が深いような気もするが、ともかく圧倒的に超越的であり、そしてそれを一言で表した結果としての「絶対的」な「神」というものが、少なくとも「あるのではないか」と考えたという点で、一神教は特殊なのだと言えるだろう。そしてそれは理論上、比較対象が存在しないのであるから、「他の神を信じてはならない」以前に「他の神はいない」のであり、だからこそ実際にユダヤ教とキリスト教とイスラム教における神は同じ神だとされるのである。


ところで発展論的には、「一神教」の前の「多神教」の前に「自然崇拝(アニミズム)」が歴史的あるいは論理的な「段階」としておかれることがあるが、これは簡単に言えば、神であるものとそうでないものを区別する、ということさえも意識して行うことなく、言わば「何でも自由に崇める」とでも言えるだろう。それは素朴に(?)自然なことであろう、というものとしてわかる話であり(ここでは「崇める」という言葉であり観念自体も異なるであろうということでもあるが)、すなわち「全てのものを崇める」というのとは区別して考える必要もある。日本も伝統的に「多神教」とされることがあるが、その意味では多神教というよりだからどちらにしてもアニミズム的なのである(それが語源を同じくする「アニメ」文化の発展とどれほど関係があるかは別として)。



さて、「段階」あるいは「類型」という意味では、もうひとつ考えねばならないのは「汎神教」あるいは「汎神論」である。これは世界の全てのものの背後に神がある、というより、全てのものは神の現れである、という考え方のことだが、ここで重要なのは、これは「段階」で言えば、「一神教」の「発展したもの」だともされているが、他方では「そもそもの一神教」だと考えることもできる、ということである。すなわち、一神教における神学が発展した結果、汎神論的「解釈」が出てきたのではなく、むしろ一神教とは論理としては汎神論が元々であって、それが言わば「ねじまがった」とでも言うか、少なくとも本来的ではなく解釈されたのがいわゆる実際の「一神教」なのではないか、とも考えられるということである。これがこの記事で言いたい最も大きなことだが、すなわち「一神教」というものに対しては、論理的には、ふたつの正反対の解釈あるいは表現ができる、ということである。


ひとつは、すでにみたようなポジティブ(肯定的、「ある」的)な言い方、つまり「一神だけを信じる」であり、こちらは、言わば「他の神を信じてはならない」が、理論上、セット「でなければならない」。なぜなら、そうでなければ簡単に(「一神」というように数えている、あるいは指示している以上は)、多神の中での「どれか一神だけを」という形へと、言わば誤解されざるをえないからであり、すなわち他の神(の存在の、少なくとも可能性)を認めることになってしまうからである。実際にこれを「一神教の誤解」と言うならば、歴史的には理論と実践、および内側と外側からの視点のいずれにおいても、誤解型の捉え方のほうがはるかに根強いとも考えられるだろう(その典型が言うまでもなく「一神教」同士での争いであると言える)。あるいはだからこそ汎神論はときどきあえて強調されてきたのだとも言える。


もうひとつは、ネガティブ(否定的、「ない」的)な言い方である。ここでヒントとなるのは、むしろ後発的に強調されている論理とでも言うか、「神しかない」「神でないものはない」である。すなわちまさに汎神論的であるが、そう考えると、一神教を一言で表すものとされる「神を信じるのではなく、神以外を信じない」なども、実は同じことを言っていると解釈できるのであるし、あるいはたとえばイスラム教の信仰告白における、「ラー・イラーハ・イッラッラー」なども示唆的だと言える。これは「神はいない、ただしアッラーを除いて」という構文になっているからである。すなわちいずれにしても「ある」というよりも「ない」が基本なのであって、これらはあるいは突き詰めれば同じことを言っているのだと捉えると、「一神教」とは、むしろどちらかと言えば——特定のものだけを信じる多神教などに対して——「何も信じないことである」と言ったほうが、何かだけをとても信じているかのような、「一神を信じる」よりも、表現としてもはるかに近いのかもしれないということである。



こうしてみればここで言う「元々の一神教」の論理は、仏教の根本的な論理であり実践規則などとも限りなく近づいてくることは、過去記事でも少し紹介してきたが、最後に言えば、その意味でここで思い出すのは論理としてはナーガールジュナ(龍樹)が『中論』で述べていると解釈できる、説一切有部への批判である。それは簡単に言えば、「である」を「であるようなものがある」という形で「がある」へと変換してしまってはならない、ということだが、いずれにしてもその意味での「一神教」というものは世界観としては、単に言わば「便宜的に神というものを設ける」という以外には、いわゆる「何も信じない」ということと、それほど違いはないのではないか、ともやはり思えるのである。




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