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園芸批評宣言(を回避する)

園芸とは植物を育てることである、と、疑うことを知らぬ者たちは、まるでそれが辞書の冒頭に記されている唯一の定義であるかのように平然と言い放つのであるが、そもそも「育てる」とはいかなる行為なのかという、あまりにも初歩的でありながら、それゆえ誰一人として真面目に問おうとはしない問いを棚上げしたまま、あたかも植物の生長が人間の意志の延長線上に存在しているかのような幻想に身を委ね、その幻想を「園芸」という美しい言葉で包み込み、さらにその幻想に「癒やし」だとか「自然との共生」だとか「サステナブル」だとか、その時代ごとに都合よく流通する道徳的な語彙を次々と貼り付けてゆくのであるが、そのような語彙が豊かになればなるほど、植物そのものはますます沈黙し、人間だけが饒舌になってゆくという、ほとんど喜劇としか呼びようのない倒錯を前にしてなお、われわれは園芸を植物についての営みであると信じ続けてしまうのであり、そこには、植物を理解したいという欲望などほとんど存在せず、むしろ自分自身を理解していると思い込みたいという人間固有の自己愛だけが肥大化しているという事実を、誰も認めようとはしない。

考えてみれば、植物は、人間がそこに立ち会おうが立ち会うまいが、芽吹き、伸び、花を咲かせ、実を結び、あるいは枯れるのであり、その一連の出来事のどこにも、人間に対する配慮など一切存在しないにもかかわらず、人間だけは、水を一度与えたというだけで「育てている」と言い、花が咲けば「応えてくれた」と言い、枯れれば「失敗した」と言うのであるが、この「応える」とか「失敗」とかいう語彙は、本来、植物の側には決して存在しえない概念であって、そこにあるのは植物ではなく、人間が勝手に組み立てた倫理の体系であり、その倫理を植物へ投影することによって、あたかも生命とは相互理解によって成立するものであるかのような幻想を維持しているだけなのである。

だから私は、「植物のある暮らし」という、おそろしく巧妙であるがゆえに誰もその欺瞞に気づかない標語ほど、園芸という営みを誤解させる言葉はないと思っているのであって、植物が「ある」ことなど問題ではなく、本当にそこに存在しているのは、昨日とほとんど変化していないように見える鉢土を、それでも毎朝飽きもせず覗き込み、「今日は少し葉色が違う気がする」と、自分でも確信の持てない差異を見出そうとする人間の時間なのであり、その時間は、生産性という言葉によって一秒単位で価値を測定され、効率という尺度によって切り刻まれ、AIが数秒で文章を書き、映像を作り、翻訳し、要約し、人間から待つという能力を次々と奪ってゆく時代にあって、唯一、何かを待つことそのものが内容となっている奇妙な時間であり、その意味で園芸とは植物を育てる趣味ではなく、人間がまだ時間を消費ではなく経験として所有できていた時代の最後の亡霊なのである。

にもかかわらず、われわれは相変わらず「どんな肥料が効きますか」と尋ね、「初心者におすすめの植物は何ですか」と尋ね、「一年中楽しめる花はありますか」と尋ね続けるのであるが、その問いの形式そのものが、すでに園芸を市場へと回収し、検索可能な知識へと還元し、交換可能な情報へと変質させてしまっているのであり、園芸が本来もっていた、偶然や失敗や沈黙や退屈といった、資本主義がもっとも苦手とする時間を丸ごと抱え込むという性格を忘れた瞬間、われわれは植物を見ているのではなく、「植物について検索した結果」を眺めているだけなのだという、ほとんど残酷な事実に気づかないまま、今日もまた「育てる」という言葉を何の疑いもなく口にしてしまうのである。

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