笑い声は、まだ続いている(16)プロローグだけ|父の文章に触れる、凛の夜
長編小説『写真の中の笑い声』から続く、三部作・第三部の次世代編です。
第16話は、伊藤凛が父の書いた物語のプロローグを、ひとりで読みはじめる夜を描きます。
「白石ほのか」「観覧車」「写ルンです」「お腹を抱えるような大きな笑い声」。
父の文章の中に残された言葉を読むうちに、凛は父の知らない過去と、白石悠につながる名前の重さを感じはじめます
▶ 前回はこちら
『笑い声は、まだ続いている(15)検索履歴』

その夜、凛は、結局、何も、できなかった。
スマホを、伏せて、布団に、入って。
目を、つぶっても、画面の中の、文字が、まだ、ちらついていた。
白石、ほのか。
神戸。
白石、悠。
考えているうちに、いつのまにか、眠ってしまっていた。
次の日。
授業のあいだも、凛は、どこか、ぼんやりしていた。
ノートを、取りながら、何度も、スマホのことを、考えていた。
あの、リンク。
タップすれば、開く。
昨日は、できなかった。
下宿に、帰って、凛は、自分に、ひとつだけ、決めた。
プロローグだけ。
ぜんぶは、読まない。プロローグだけ、読んで、それで、やめる。
それなら、できる気が、した。
ベッドに、座って、スマホを、開く。
昨日の、ページが、まだ、残っていた。
あらすじの、下。「プロローグ 写真の中の、笑い声」。
凛は、息を、ひとつ、吸って、それを、タップした。
〈冬になると、僕は、もうない遊園地のことを考える〉
文章が、始まった。
〈五十年、生きてきた〉
お父さんと、同じ歳。
〈それでも、ふと振り返ると、いちばん先に、手ざわりを持って戻ってくるのは、そのうちの、十年にも満たない時間だ〉
凛は、画面を、見たまま、動けなくなった。
これは、お父さんの、声、じゃない。
いつもの、無口な、お父さん。新聞を読んで、「おう」とだけ、言う、お父さん。
その人の、声では、なかった。
なのに――。
これは、お父さんの、声だ。
なぜか、そう、分かった。
〈呉の海ぞいに、かつて遊園地があった〉
〈観覧車があって、コースターがあって〉
〈手の中に、一枚の写真がある〉
〈写ルンですで撮った、少し色の褪せた写真。肩を組んで、二人とも、顔がくしゃくしゃになるほど笑っている〉
観覧車。
写ルンです。
くしゃくしゃに、笑う、二人。
昨日、あらすじで、見た、言葉が、今度は、ちゃんとした、文章の中で、出てくる。
〈写真は、止まっている。彼女は、もう、年を取らない。笑ったまま、ここにいる〉
〈なのに、不思議なことに、この一枚から、声が聞こえる気がするのだ。あの、お腹を抱えるような、大きな笑い声が〉
お腹を、抱えるような、大きな、笑い声。
凛の、知らない、お父さん。
無口で、まじめで、いつも、少し、遠くを、見ている、お父さん。
その人が、こんな、文章を、書いている。
誰かの、笑い声を、思い出して。
誰かが、たしかに、生きていたことを、書き残そうとして。
〈だから、書こうと思う〉
〈彼女が、たしかに、生きていたことを〉
プロローグは、そこで、終わっていた。
画面の、下に、「第1章 心臓が止まった」への、リンクが、見えた。
タップすれば、続きが、読める。
でも、凛の、指は、動かなかった。
動けなかった。
プロローグだけで、もう、いっぱいだった。
これ以上、進んだら。
お父さんの、もっと、奥のほうまで、入っていく気がした。
それは――。
まだ、こわかった。
凛は、スマホを、両手で、持って、しばらく、画面を、見ていた。
文字は、もう、読んでいなかった。
ただ、その、灯りを、見ていた。
不意に、画面が、震えた。
通知だった。
〈来週、設計の、講評会、あるんですけど〉
〈先輩、見にきます?〉
悠だった。
いつもの、なんでもない、メッセージ。
いつもなら、すぐに、返す。「行く行く!」とか、「いつ?」とか。
でも、凛の、指は、また、止まった。
悠。
白石、悠。
画面の、少し上には、まだ、「白石ほのか」の、文字が、残っている。
いまの、自分で。
いつもの、調子で、悠に、返事を、することが。
できる気が、しなかった。
何かが、顔に、出てしまいそうな、気が、した。
凛は、通知を、見たまま。
既読を、つけなかった。
スマホを、伏せて、置く。
画面が、暗くなって、部屋が、また、静かに、なった。
窓の外は、もう、暗かった。
神戸の、坂の、灯りが、ぽつぽつと、ともっている。
その、灯りの、ひとつひとつの、向こうに。
知らない、誰かの、笑い声が、あるのかもしれない。
凛は、ベッドに、横に、なった。
スマホは、まだ、伏せたままだった。
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読んでくださってありがとうございます。
あなたには、
身近な人の「知らなかった顔」に触れて、少し戸惑った経験
がありますか。
父や母、祖父母、昔から知っている誰か。
いつもの姿しか知らなかった人にも、若い頃があり、誰かを想い、何かを書き残した時間があったのかもしれない。
凛のように、知りたいのに少し怖いと思った記憶があれば、コメントでそっと聞かせてもらえると嬉しいです。
♪ 今回のBGM:Worlds end(Mr.Children)
▶ 前回
『笑い声は、まだ続いている(15)検索履歴』
▶ 第一部・本編『写真の中の笑い声』
広島で出会い、再会し、失った初恋の物語。
▶ 第二部・外伝『写真の外の笑い声』
本編の出来事を、彼女――白石ほのかの側から描いた外伝。
▶ 第三部・次世代編『笑い声は、まだ続いている』
神戸で出会った白石悠と伊藤凛が、親世代の記憶と自分たちの未来へ近づいていく物語。
▶ 第一部・本編『写真の中の笑い声』
広島で出会い、再会し、失った初恋の物語。
▶ 第二部・外伝『写真の外の笑い声』
本編の出来事を、彼女――白石ほのかの側から描いた外伝。
▶ 第三部・次世代編『笑い声は、まだ続いている』
神戸で出会った白石悠と伊藤凛が、親世代の記憶と自分たちの未来へ近づいていく物語。
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