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Voicy#243  『転落男性論』西井開さん×信田さよ子さん対談レポート

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#243 『転落男性論』西井開さん×信田さよ子さん対談レポート

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3月に刊行された西井開さんの新刊『転落男性論――孤立、暴力、ホモソーシャル』(金剛出版)の出版記念イベント(ジュンク堂書店池袋本店)のレポートです。
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西井さんは1989年大阪府生まれ、立教大学大学院社会デザイン研究科特任准教授で、専門は臨床社会学・男性学。臨床心理士・公認心理師でもあり、2017年には男性たちの語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」を発起、一般社団法人UNLEARNでDV加害者臨床にも取り組んでいます。
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ゲストは、原宿カウンセリングセンターを立ち上げ、DVや依存症の加害・被害臨床を長年実践してきた信田さよ子さん。著書『人はなぜ自分を責めてしまうのか』は私も何度も読みました。
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■「転落」という恐怖から生まれた
まず西井さんが本のタイトルに込めた問題意識からはじまりました。
過労状態にある男性に「なぜそんなに働きすぎるのか」と尋ねたとき、これまでの男性学なら「達成」や「上昇」を求めているからだと説明できてきた。しかし多くの男性が「このまま頑張り続けないと、周りに置いていかれてしまうのではないか」と答えたと言います。一人前とされる男性像から転落することへの恐怖が、彼らを働かせ続けていたのです。
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この「転落への恐怖」という視点から、男性集団の問題やホモソーシャルな関係を見てきた西井さんが、本書で取り組んだのが「暴力」と「責任」の問題でした。西井さんはDV加害者を対象にしたカウンセリンググループワークを行っており、その現場で見えてきたことを、この対談で信田さんと深めていきました。
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■「言い訳」から見えてくるもの
DV加害者の相談に来る男性たちは、まず言い訳から話し始めます。妻が片付けをしていなかったから、子どもが言うことを聞かなかったから——暴力の正当化が、長い言い訳とセットで語られる。
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聞いているうちに見えてくるのは、加害者たちの強い不安です。多くの加害者は、自分のしたことを悪いと思っていないし、悪意があったわけでもない。むしろ良かれと思ってやっていることもある。それが突然「あなたは加害者だ」とラベリングされる。論理的で冷静で善良な男性像から転落することへの恐怖が、言い訳や正当化につながっていく。
この「転落」という概念が、暴力や責任の取らなさに接続しているのではないか、というのが西井さんの仮説でした。
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信田さんいわくDV加害者プログラムでは、最初の1〜2回はほとんどの参加者が「反省」を語る。「怒りをコントロールする方法を学びに来た」「本当に反省している」と。でも3回目あたりから、今度は自分がどれだけ被害を受けてきたかという話に転じていく。
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そしてこの「反省」には説明が伴っていないことが多い。何が起きたのか、どんなプロセスでパートナーを傷つけたのかという説明がなく、ただ「自分が悪かった」というまなざしが自分にしか向いていない。これもまた、自己完結的な言い訳の一形態だと。
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■因果関係・文脈は、加害者を正当化する道具になりうる
DVや暴力を「文脈」の中で捉えると、被害者の存在が見えなくなる、と信田さんは語ります。
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DV被害者のグループでは、被害者自身が「あの時私がああ言わなければ、夫は暴力を振るわなかった」「私の言い方が悪かった」と、自分を責める語りが出てきます。そのため暴力のその瞬間だけを考え、前後の因果関係を考えてはいけないというルールを設けています。因果関係や文脈性は、しばしば加害者を正当化する側に回収されてしまうからです。
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西井さんはこれを「入れ子関係」と表現しました。加害者は「お前が俺を怒らせたから」という形で、自分にとって都合のいい文脈を作っていく。「俺の立場にもなってみろ」という語りは、近代文学にも繰り返し現れてきたものです。
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■男の涙と「ヒムパシー」
対談では、家族への暴力が明るみとなり解任された巨人の元監督についても触れられました。"謝罪会見"で涙を流す加害者の姿について、お二人は「自己陶酔の涙」だと指摘します。男の涙は、政治的に使われる。それは免責のための道具になりうる、と。
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「ヒムパシー(himpathy)」という言葉があります。オーストラリアの哲学者ケイト・マンが作った造語で、"him"と"empathy"を組み合わせたもの。マジョリティ性の強い男性——白人、権力者、業績のある男性——が暴力を振るったとき、周囲の人々(ジェンダーを問わず)が彼を擁護し始め、それと同時に被害者の信頼性が下がっていく現象を指します。監督解任の撤回を求める13万筆の署名運動がまさにこれです。
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この解説を聞いて、私はあの記者会見への違和感がようやく理解できました。事件をめぐるメディアや SNS の動きも、しんどかった。AI の問題に論点を移したり、警察やシステムの課題にしたり、家族の倫理にすり替えたり——論点のずらし方にはグラデーションがあって、行為そのものへの判断を保留する手法が様々な形で繰り広げられていた。
家父長制が制度の中にも、人々の心の中にも、まだこんなにも深く刻まれているということを浮き彫りにしていました。
自分の信念やエゴが一般常識や知識や立場をまとって、えげつなく発信されていたことへの絶望感が、この対談を通じてようやく言語化できた気がしました。
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実はこのレポートを書こうと思ったのも、その違和感・絶望感がきっかけです。言葉にあらわしきれないまま調べていくうちに、この対談にたどり着きました。
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■「責任」は内側にあるものではなく、外から招き入れるもの
「責任」の捉え方について、オーストラリアのナラティブセラピー実践者アラン・ジェンキンスの理論が取り上げられました。責任とは、内側から湧き出るものではなく、外側からの働きかけによって「招き入れる」ものだという考え方です。
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加害者に「なぜそんなことをしたのか自分で考えなさい」と言っても、多くの場合、出てくるのは正当化か自己嫌悪だけです。責任を取るというのは、被害者に何が起きたかを理解し、その影響を引き受けるプロセスであって、「反省している自分」を内省することではない。加害者の「責任」が自分にしか向いていない限り、被害者は存在しないも同然になってしまう。
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信田さんは「説明責任」とは反省でも謝罪でもなく、説明。何があったのかを、被害を受けた相手に向けて語ることだ、と言います。
具体的には、DV加害者が起きた状況を一つひとつ文章にして説明していく。被害者が「違う、ここはこうだ」と訂正すれば、また修正した形で最初から説明し直す。そのプロセスを通じて初めて、加害者は被害者の心理状態や、自分がしてしまったことの重さを理解できるようになるのだと言います。その行為そのものが、責任を取るということの核心なのだと。
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■ホモソーシャルな空間が、加害者を守る
男性集団の中では、暴力が「あいつもやっている」「そういうものだ」という形で共有され、正当化される。これがホモソーシャルな構造の問題です。
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ホモソーシャルとは男性同士の連帯・絆を指す概念ですが、その裏側には女性の排除と、より強い男性性への同調圧力があります。DV加害者の多くは「自分は普通だ」と思っています。その「普通」の感覚を支えているのが、仲間内での共通認識です。「妻がああ言うから殴った」を笑い飛ばせる仲間がいる空間では、暴力は暴力として認識されない。
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(私の知るホモソーシャルなコミュニティの話。男性一人ひとりは知性があり人柄もいいのですが、集まるとワイワイとしたノリになって、浮気など女性へのガスライティングを笑い話として共有することがおきます。自分を下げて見せているようで、実はマッチョさをアピールしてマウントしあっている。そういう場に関わるのは「あえて居心地の悪い場所に行く」を自分の信条にしているからですが)
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西井さんは、男性集団の中でこの「普通」を問い直す場が必要だと言います。それがDV加害者プログラムの意義でもある。ただ、一人ひとりへの臨床的な働きかけだけでは追いつかない。社会の構造そのものを問い直す必要がある、と。
日本におけるDV加害者プログラムの認知度の低さへの課題感、そしてプログラムが家族を救う砦になりえる、という希望も共有されました。
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■ 「被害者になれない男性」という問題
男性は、被害者になることを許されにくい。「男なのに」「それくらいのことで」——そういう視線が、自分が受けた傷を「傷」として語ることを妨げる。その結果、傷ついた経験が外側への暴力として出力されることがある、と信田さん。
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加害者臨床をしていると、多くの加害者が同時に被害者でもあることが見えてくる。しかしそれは暴力の免罪符にはならない。被害を受けた経験があるからといって、暴力が正当化されるわけではない。被害者であることと、加害者であることは、同時に存在できる。この両方を切り離さずに見ていくことが、臨床の難しさでもあり、核心でもある、と。
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「役に立たなくてもいい場所」というコンセプトは、他者に自分の価値を決めさせないという意思表明です。
そもそも「転落への恐怖」というのは、上下があるという世界観、他者からのジャッジメントで決めさせてしまうところから生まれている。評価されることを恐れて——自分の中で作り上げた幻想を、まるで事実であるかのように信じてしまっている。
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誰もが思うとおりに「上がっていきたい」と思うものですは、うまくいかなかったとき、その原因を解明することは大切。一方で起きた体験によって自分は何を感じているのか、何が残念なのか、何を苦しさと感じているのか——をリフレクションしていくことで、自分の解像度があがり、結果他者を深く理解できるようになる。
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恐れの支配から自分を解放することを多くの人が望んでいる(私もその一人)、しかし痛みが、傷が深いからこそ様々なできごとに「反応せざるをえない」のだろうな、と感じます。
自分の中にある矛盾や言語化できない苛立ち、頼りなさに向き合っていく勇気と機会を、ラジオという形で持たせていただけることに感謝です。
聞いていただきありがとうございます。


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