見出し画像

娘は、分析よりロブロックスがよかった

前回、私は「理解したかったわけじゃなかった」という記事を書いた。

私は人を理解したいのではなく、
人の中で構造が動く瞬間を見ていたのかもしれない。

そんなことを考えていた。

そのあとで、娘のことを考えた。

私は、娘を理解したい。

娘がなぜ動けないのか。
なぜ一問間違えただけで泣いてしまうのか。
なぜ学校で緊張するのか。
なぜ友だち関係に影響されるのか。
なぜそのゲームにそこまで夢中になるのか。

私は、娘の中で何が起きているのかを見たい。

困っているなら、構造を見たい。
苦しんでいるなら、原因を見たい。
動けないなら、どこで止まっているのかを見たい。

それが私にとっての「理解」だった。

でも、ある日ふと思った。

娘は、私に分析されたいのだろうか。

いや、違う。

娘はたぶん、私にロブロックスを一緒にやってほしいのだ。

ここで私は、少し止まった。

私はロブロックスをやりたくない。

正直に言うと、あまり興味がない。
マインクラフトもロブロックスも、私は少し酔う。
画面を見ているだけで、だんだん気持ち悪くなる。

だから、娘が「一緒にやろう」と言っても、
私はあまり乗れない。

でも、娘にとっては、そこが大事なのかもしれない。

私にとっての理解は、
娘の内部構造を見ることだった。

でも娘にとっての理解は、
ママが自分の世界に来てくれることだったのかもしれない。

私は娘の構造を見ていた。

娘は、私に同じ画面を見てほしかった。

ここで、また言葉がズレた。

「理解する」と「一緒にいる」は、同じではない。

私は理解しようとしていた。
でも娘は、共にいてほしかった。

分析ではなく、共在。

説明ではなく、参加。

観察ではなく、同じ場所に立つこと。

たぶん娘にとって、ロブロックスはただのゲームではない。

自分が見ている世界。
自分が動かしている場所。
自分が選び、自分が作り、自分が友だちと関わる空間。

そこにママが来てくれることは、
「私のことを分かってくれている」
に近いのかもしれない。

これは、言いなりになることとは違う。

私は、やりたくないことを無理にやらなくてもいい。
酔うものは酔う。
興味がないものは興味がない。

でも、そこで終わると、
娘から見ると、私は娘の世界の外側にいる。

私は娘を理解したいと思っているのに、
娘が「ここに来て」と言っている場所には入っていない。

このズレに気づいたとき、私は少し黙ってしまった。

子育てとしては、少し痛い。

でも、認知の話として見ると、とても大事なズレだった。

私はずっと、理解とは相手の構造を見ることだと思っていた。

でも、人によっては、
理解とは、自分の世界に来てくれることなのかもしれない。

ロブロックスをやってくれるママ。
話を聞くだけではなく、同じ画面を見てくれるママ。

それは、娘にとっての「理解してくれる人」なのかもしれない。

ここでようやく、私は少し分かった。

私は「理解したい」は分かる。

でも、
「理解してくれる人がほしい」
という感覚が、あまり分からなかった。

私にとっては、理解とは内部構造を見ることだったから。

でも娘にとっては違う。

娘は、自分の世界に誰かが来てくれることを求めている。

一緒に笑う。
一緒に失敗する。
一緒に走る。
一緒に画面の中にいる。

それが、娘にとっての「分かってくれた」なのかもしれない。

私は、娘のことを理解したかった。

でも娘は、分析よりも、
ママと一緒にロブロックスをやりたかった。

この一文で、私は少し笑ってしまった。

そして少し、反省した。

理解することと、
一緒にいることは違う。

相手の構造を見ることと、
相手の世界に入ることも違う。

私は娘を外側から観察していた。

でも娘はきっと、
ときどきでいいから、
私に内側へ入ってきてほしいのだ。

もちろん、私はロブロックスで酔う。

だから、毎回一緒に遊ぶことはできない。

でも、入る方法はひとつではない。

娘が作ったものを見る。
画面を横から見る。
どこが面白いのか聞く。
スクリーンショットを見せてもらう。
短い時間だけ参加する。
ロブロックスではなく、私も楽しめる別の遊びで一緒にいる。

相手の世界に入ることと、
自分を消して合わせることは違う。

私は、そこを間違えないようにしたい。

娘を理解するだけでは足りない。

娘がいる世界を、
少しだけ一緒に見ること。

たぶんそれも、
親子の中の動的理解なのだと思う。


あとがき

今回の話は、少し痛かったです。

私は娘をよく見ているつもりでした。

娘の特性。
処理速度。
不安。
学校での緊張。
友だち関係。
学び方。
言葉の使い方。

私は、かなり見ているつもりでした。

でも、見ていることと、
一緒にいることは違う。

理解することと、
同じ画面を見ることは違う。

そのことを、ロブロックスに教えられるとは思いませんでした。

私にとっての動的理解は、相手を外から観察することだけではなかったのだと思います。

外側から見ている私と、
内側へ誘う娘。


そのあいだの境界線が、どこで近づき、どこで離れるのか。

そこを見ることも、たぶん動的理解なのだと思います。

ロブロックスの画面の中には入れなくても、
娘が「ここに来て」と差し出している世界の入口には、少し立ってみる。

自分を消して合わせるのではなく、
自分の境界線を持ったまま、相手の世界に少し近づく。

それが、私と娘の間にある、新しい理解の形なのかもしれません。

子育ては、たまにこういう形で刺してきます。

しかも、かなり正確に。

まさか、ロブロックスの入口で、
「理解って、そっちから見るものだけじゃないよ」
と教えられるとは思いませんでした。




いいなと思ったら応援しよう!

Lumen C. よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!