【第4回】あの時、無表情になった母を「認知症状が進んだ」と決めつけなくてよかった
「能面」のようになった母と、消えかけた希望
在宅介護をしていると、母の笑顔を見るだけで「ああ、今日までやってきてよかった」と救われる日があります。
介護はきれいごとではありません。
先の見えない不安に沈む夜が数え切れないほどありました。
それでも、毎日の中でふっと母が笑う。
その一瞬に、こちらの心までほどけるような気持ちになるのです。
今の母は、毎朝、家族へ朝食の様子を動画で配信するのが日課です。
一番の楽しみになりました。
でも、ここに来るまでに、母がまるで「能面」のように無表情になってしまった時期がありました。
言葉も出ず、気持ちがどこか遠くへ行ってしまったような日々。
あの時の姿を思い出すだけで、今でも胸がつぶれそうになります。
「環境」が心を閉じさせたのだとしたら
コロナ禍に股関節を骨折し、手術した母。
当時は面会も叶わず、家族の顔すら見られない日々が続きました。
そばにいてあげられなかった空白の時間を考えると、今でも胸が締め付けられます。
退院の日、車椅子で出てきた母を見て、私は言葉を失いました。
目は座り、呼びかけても返事がない。
宙を見つめたまま、表情が完全に消えていました。
周囲の人たちは、こう言いました。 「入院中に認知症が進んだのですね」 「そういうケース、多いんですよ」
……けれど、私はどうしても、ただ「病気が進んだだけ」だとは思えなかったのです。
急に体が動かなくなった恐怖。
家族と会えない孤独。
病院という非日常。
それは、人の心を閉ざしてしまうには十分すぎるほど過酷な状況だったはずです。
「もし、これが病気ではなく、心が傷ついて閉じている状態なのだとしたら」 「安心できる場所があれば、母はまた戻ってきてくれるのではないか」
私は、目の前の姿だけで母の限界を決めつけたくありませんでした。
希望を捨てることだけは、したくなかったのです。
なんでもない「声かけ」を、信じて積み重ねる
希望を持つといっても、私にできたのは拍子抜けするほど小さなことばかりでした。
「おはよう」
「今日はいい天気だよ、タオルケット洗おうか」
「これ、食べてみる?」
返事がなくても、表情が動かなくても、話しかけることをやめませんでした。
会話を成立させるためではなく、「ここは安全な場所だよ」「私はここにいるよ」 というメッセージを、空気のように伝え続けたかったのです。
介護をしていると、目に見える変化ばかりを追いかけたくなります。
でも、人の心がほどけていく速度は、驚くほどゆっくりです。
人は、置かれた状況で心をすり減らすことがあります。
でも反対に、安心できる場所や関わりの中で、少しずつ心をほどいていくこともあるのです。
昨日より今日、今日より明日。
そんな分かりやすい変化はなくても、表には見えないところで、少しずつ何かが動いている。どちらにも時間が必要です。
あの時の私はただ、それを信じていたかったのだと思います。
笑顔の「再生」。あの時決めつけなくて本当によかった
暮らしの中に安心を増やしていくうちに、母の表情は、本当に少しずつやわらいでいきました。
そして今、母はすっかり「元の母」に戻りました。
現在は腎臓病末期で、一度は危篤という状態も経験し、終末在宅介護をしている状態ですが、会話もでき、私が見たかった笑顔も戻っています。
毎朝の動画配信で、家族に「おはよう」と画面越しに笑う母。
「今日もつながれる人がいる」「待っていてくれる人がいる」 その実感こそが、母の生きる力になっています。
……もちろん、物忘れは激しいし、時々おかしなことを言ったりします。
年齢相応の「痴呆」は、ばっちり健在です(笑)。
でも、あの時、目の前の姿だけを見て「もう戻らない」と決めつけて、強い薬を増やしたり、諦めたりしなくて本当によかった。
心を閉ざした奥にいる母を、信じてよかった。
今は心からそう思っています。
おわりに:楽しみは「今日」を生む力になる
人は、楽しみがあると表情が変わります。
それは旅行のような大きなことでなくていいのだと思います。
季節のおやつ、好きな音楽、そして母にとっては、毎朝の動画配信。
楽しみがあると、「今日」が生まれます。 ただ時間が過ぎていくのではなく、「今日はこれがある」と思えるだけで、日常に小さな灯がともります。
介護は、食事や排泄、通院といった現実の連続です。
でも、それだけでは心はしぼんでしまいます。
命をつなぐことと同じくらい、その人らしく過ごせる楽しみを守ること。
それが、在宅介護の本当の力なのだと、母が教えてくれました。
閉じているように見えても、その奥で懸命に踏ん張っている心がある。
だから、希望を捨てないことには、大きな意味があります。
人それぞれ考え方も受け止め方も違うと思います。
100家庭あれば100の形があるのが介護です。
これはあくまで我が家の記録です。
介護においては正解などどこにもありません。
だからこそ、自分の頭で考え、色々な感情を自分で受け止め
その時の状況で判断して行く事が私にとっては何より重要でした。
今もあの時、希望を捨てなくてよかったと思っています。
あの時の私は、母の憂いなく笑う姿を
もう一度見たかっただけかもしれないと今になって思います。
これからも、母の小さな楽しみを大切に。
一緒に笑える時間を、一日一日、静かに積み重ねていこうと思います。
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