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穴のあいた神社を“再顕”する

伊藤孝仁(AMP/PAM)

はじめに

2026年6月20日から21日にかけて、福岡県遠賀郡芦屋町の狩尾神社を訪れた。当初は雨予報であったが、現地に着くころには雨は上がり、晴れ間も差し込む。雨上がりの湿った石や落ち葉、黒く沈んだ土、そこに差し込む木漏れ日、足元でかすかに蠢くカニの気配。狩尾神社は、乾いた建築的対象としてではなく、天候や季節や生物の活動とともに立ち上がる場所として現れた。

今回のフィールドワークは約50年前に焼失した狩尾神社の再建に向けた調査の一環であり、発起人の狩尾神社宮司の波多野総嗣さん・禰宜の波多野晶子さん、文化人類学者の中村寛さん、プロジェクトを推進するデザイナーの坂本大祐さんを中心に、多様な参加者が集まった「コ・フィールドワーク」プログラムの第二回である。

狩尾神社再建プロジェクト webサイト

再建という言葉を聞くと、失われた本殿や拝殿をもう一度建てること、かつての姿を建築的に復元することを思い浮かべる。しかし現地に立つと、その言葉はすぐに揺らぎ始めた。石段や基壇、灯籠、階段といった硬いものは残り、木造であった柔らかいものは消えている。残された石の骨格の上に、ドクダミや樹木が重なり、カニが歩き、根が石段を少しずつ持ち上げている。

この状態を前にして、「再建」とは何を再び建てることなのかという問いが生まれる。焼失することで生まれた建物の不在という穴を、ただ塞ぐことなのか。かつての配置を、もう一度白紙の上に描き直すことなのか。それとも、失われたことによって見えてきた関係から再び新しい秩序を組み立てることなのか。フィールドワークの2日間を振り返る本テキストを通じて、この問いについて考えてみたい。

跡地性、あるいは「ないことがある」

狩尾神社の境内に入って最初に感じたのは、まるで人間がいなくなった後の世界に入り込んだような感覚であった。かつて本殿や拝殿があった場所には、木造建築の姿はない。火災によって木でできた部分は失われ、石でできた部分だけが残されている。灯籠は倒れ、石段や基壇はところどころずれながらも、空間の骨格を保っている。建築は消えたが、建築がそこにあったことを示す輪郭は残っている。

拝殿に登る石の階段が残る

単に「荒れている」と言うことはできる。しかし、その言葉だけでは、この場所の特異な強度を取り逃がしてしまう。そこには、壊れたものの残骸があるだけではなく、かつてあったものの残像がある。拝殿の跡、本殿の跡、落ち葉に覆われた参道、崩れた灯籠、砂利が敷かれていたかもしれない空白の跡。失われたことによって初めて見えるようになった風景である。

発起人の一人である坂本大祐さんが、「ないことがある」と表現していたことは、この場所の核心に近い。岡本太郎が沖縄の御嶽を前に《「何もないこと」の眩暈》を感じたように、ないという状態が、そこにある。失われた本殿や拝殿は、単なる欠損ではなく、場所に開いた穴として存在している。その穴は、何かしらの回復を求める場所の声であると同時に、そこから別の存在者や関係が立ち上がる開口でもある。

本殿の跡地

狩尾神社のある岬から海を挟んだ向かい側には、洞山と呼ばれる海に突き出た山があり、そこには大きな洞穴が開いている。砂岩質の脆さによって生まれた穴であるという。重要なのは、その洞穴を私たちは単なる欠損として見ないということだ。穴が開いたからといって、それを塞ごうとはしない。むしろ、その穴があることによって、地形の生成過程や、風の流れや、古代からの人と環境の関係が見えてくる。穴は破損であると同時に、プロセスの痕跡であり、場所の個性そのものである。

狩尾岬の向かいにある洞山

では、焼失した狩尾神社の跡地に開いた穴も、同じように捉えられないだろうか。硬い部分としての石は残り、柔らかい部分としての木は失われた。そこには、建築的な穴が開いている。その穴をただ塞ぐことが再建なのか。あるいは、その穴によって見えてきたもの、つまり植物の侵入、カニの道、風の通り、海へ抜ける動線、神楽の不在、石の持続性と木の仮設性を、次の建築の条件として受け止めることが再建の糸口になるだろう。

私が考えるPAM|Public Asset Maintenance (詳しくはこちら)の視点から言えば、穴や破れや弱さは単なる欠損ではなく、不可視化されていた存在者の声に気づくための契機である。壊れたものを元に戻すことだけが修復ではない。破れによって開かれた認識を起点に、新しい関係を構成することもまた修復である。狩尾神社の跡地性は、その意味で、再建を考えるためのもっとも重要な出発点である。

ランドスケープの再建

狩尾神社の再建を考えるとき、建築を中心に据えすぎてはいけないのではないかと感じた。もちろん本殿や拝殿について考えることは重要であり、神社の建築の堂々たる姿は地域の人々の誇りにつながる。ただ狩尾神社の本質は、建物単体ではなく、岬全体のランドスケープの中にあると感じるのである。

狩尾岬を対岸から望む。頂上付近に狩尾神社がある。

狩尾神社は、海沿いの道を進んだ先、岬の上に位置している。現状では、鳥居は濃い緑に埋もれるように立ち、サイクリングコースを通る人にとっても神社の存在は見えづらい。ここでまず必要なのは、何かを足すことではなく、枝打ちや掃除のような引き算的な介入ではないかと感じた。

最初に訪れた日峯神社の経験は示唆的であった。日峯神社は、かつて鬱蒼として人があまり訪れない場所であったという。しかし、波多野さんたちは20年ほどかけて少しずつ枝打ちや掃除を重ね、光が入るようにし、人が訪れる気持ちのよい神社へと変わっていった。ここで起きていたのは、大きな新築による変化ではなく、手入れの累積による環境の位相変化である。

日峯神社の境内。波多野さんたちは狩尾神社以外にも二十二社を管理している。

狩尾神社にも同じ可能性がある。岬の上にあるこの神社は、すでに強い生命力に満ちている。だからこそ、再建の第一歩は、建物を建てることではなく、どのように枝打ちをし、どこに光を入れ、どこに影を残すか、どこまで人が歩けるようにし、どこから先を他の存在者に委ねるかという、ランドスケープのチューニングから始まるべきではないか。

古い図に描かれた狩尾神社の姿を想像すると、岬の山頂付近が人為的に開かれ、周囲を森に囲われた領域があったように思われる。風の強い岬でありながら、周囲の木々によって守られ、上部から光が落ちてくる。地面には白い砂利が敷かれていたかもしれない。つまり、神社の形成は自然の中にただ建物を置くことではなく、木を切り、空白をつくり、風と光を調整することで、祈りのための囲われた領域をつくる行為でもあった。

狩尾神社境内之圖 (提供:狩尾神社)

しかし現在、その空白には再び自然が介入している。この拮抗状態を前にして、再建とはそれを白紙にしてかつての光景を取り戻すことなのか、と悩む。むしろ必要なのは、人間の祈りの場を回復しながらも、この50年のあいだに形成された自然の営みを完全には消し去らないことが重要だと感じる。再び人が自然の中にお邪魔する感覚である。地元のコーディネーターである八木澤さんは、磯遊びのような行為が、干潮時など限られた時間にしかできないことに触れながら、狩尾では自然の一部にお邪魔している感覚があると語っていた。干潮と満潮によって現れたり消えたりする場所、生と死の境界が揺れ動く場所。狩尾神社は、そのような変動する環境の一部として存在している。

ランドスケープについて考えることは、建築について考えないということではない。むしろ建築を、岬、森、崖、海、洞穴、風、参道、散策路、古墳跡と思われる場所、干潮時に現れる千畳敷といった一連の環境の中に置き直すことである。建築はその一部として重要な役割を担う。しかし、その役割は単独で完結するものではない。狩尾神社の再建は、建築の復元である以前に、祈りのランドスケープをどのように再編するかという問題である。

人間以後の神社/道としての神社

狩尾神社で最も印象的だったのは、境内に満ちる生命のざわめきであった。鳥居をくぐり一歩足を踏み入れると、落ち葉の下でサササッという小さな音がして、足元を見るとカニがいる。石段の隙間、根によって少し持ち上げられた段差、湿った土の上。そこにはアカテガニと思われるカニたちが潜み、歩き、境内を自分たちの場所として使っている。

かつての手水はカニにとっても有益そう

神社にカニがいるということは、単なる珍しいエピソードではない。むしろ狩尾神社の現在を考えるうえで決定的な事実である。50年前に人間の建築が失われた後、そこには植物が生え、根が石を動かし、落ち葉が積もり、カニがある期間は棲みつくようになった。

フィールドワークの参加者も、多くがこのカニの存在に注目していた。「カニがいなくなった時、狩尾神社は狩尾神社と呼べるのだろうか」という大きな問いを立てるチームもあった。つまりそれは「カニが可愛いから残って欲しい」ということではなく、カニの生息条件が、狩尾岬のあるべきランドスケープの条件と近似していることを直感しているからこその表現だったと思う。

人間の祈りや儀礼の場を成立させながら、同時に多様な存在者がその場所をどのように構成しているかを観察し、それぞれの距離を調整すること。ここで必要なのは、完全な制御ではなく、ディスポジション、すなわち適切な距離を探りあう配置の実践である。

もう一つ重要なのは、狩尾神社が通り抜けられる神社であるということだ。一般的な神社では、参拝者は鳥居から参道を進み、拝殿の前で拝み、再び来た方向へ戻っていく。しかし狩尾神社では、本殿のさらに奥へと回り込むことができる。奥には古墳跡と思われる小高い丘のような場があり、その先は散策路となって、さらに森の中へ、そして海へと抜けていく。神社は終点ではなく、岬のランドスケープの中に連続する一つの節点として現れる。

海へと抜ける森の散策路

神社がこの場所の唯一の中心であるというよりも、古墳、森、海、洞穴、千畳敷、集落、漁の場といった複数の聖性や生活の痕跡の連なりの中に、神社が位置づいているように見える。神社という形式以前から祈りの痕跡があり、その上に神社が重なり、さらに現在の散策路や生き物の道が重なっている。

参加者の一人が、狩尾神社には「生き物の道」があると言っていたことが印象に残っている。人間と他の生物が、互いに理解し合うわけではない。しかし、それぞれの通り道を少しずつ分け合い、干渉しすぎず、しかし同じ場所を使っている。再建される建築は、終点として閉じるのではなく、祈りの場でありながら、森や海へと続く道の一部でもあるような形式を探る必要があるのではないだろうか。

森を抜けると響灘が迎える。干潮時には千畳敷が現れる。

筑前御殿神楽と拝殿の公共性

狩尾神社の再建を考えるうえで、筑前御殿神楽の存在は避けて通れない。筑前御殿神楽は、北九州市や遠賀郡周辺に伝わる神楽であり、一般的な神楽が氏子等によって継承されることが多いのに対して、神職によって代々受け継がれてきた点に特徴があるとされる。狩尾神社でも神楽が行われてきたが、現在は社殿焼失により、本来の場所でそれを行うことができていない。

重要なのは、この神楽が「拝殿」で行われるということである。拝殿は、単に参拝者が拝むための場所ではない。そこは神楽を奉納する舞台であり、本殿に向かって身体を動かし、榊、弓、太刀、米、面などを用いて神話や祓いを演じる場である。つまり、拝殿の建築形式は、儀礼の身体性と深く結びついている。

筑前御殿神楽の様子(狩尾神社instagramより)

周辺の神社を見ていくと、この地域の拝殿は独特の公共性を帯びているように感じられた。特に徳満神社は印象的であった。田畑の中にあり、防風林のような高い生垣に囲われ、外からはほとんど見えない。隙間から中に入ると、そこには非常に親密なスケールの庭があり、拝殿がある。拝殿は閉じた建物ではなく、半屋外の広間のような場所で、四方の壁は大きく開かれている。

この建築には、神社建築に対して通常あまり語られない「居心地」がある。光や風が抜け、滞在したくなる空間である。そこではおこもりと呼ばれる直会のような行為が行われてきたという。つまり、拝殿は緊張感を持って神に向かう儀礼の場であると同時に、人と人が集まり、飲食し、語り、関係を結び直す場でもあった。聖なる舞台であり、集落の広間でもある。

木々で守られた徳満神社の領域
直会的な「おこもり」が行われる拝殿

この二重性は、地域における神楽のあり方とも関わっている予感がある。神楽が拝殿で行われるということは、拝殿が舞台としての寸法、畳の広さ、身体の動き、楽人や神職の配置、本殿との正対関係を必要とするということである。同時に、神楽の前後には準備、直会、集まり、掃除、道具の保管といった複数の行為が伴う。拝殿の空間性は、そうした儀礼の過程によって育てられてきた可能性がある。

狩尾神社を再建するということは、単に本殿と拝殿の形を復元することではなく、筑前御殿神楽が再びそこで行われるための場を整えることでもある。神楽を保存すべき伝統芸能として外部から眺めるのではなく、拝殿という建築形式を育ててきた儀礼的プログラムとして捉える。建築は神楽の背景ではない。神楽は建築の使い方の一つでもない。両者は相互に条件づけ合い、場を生成してきたのである。

神楽を再び狩尾神社で

では、狩尾神社で再び神楽を行うためには、何が必要なのだろうか。これは、狩尾神社の再建をどのようなプロセスとして描くかに深く関わる。完全な本殿と拝殿の復元がなければ神楽は不可能なのか。それとも、神職たちが納得できる最小限の設えがあれば、仮設的にでも神楽を戻すことができるのか。最小限とは、単にコストを下げることではない。何を欠いたら成立しないのか、仮設でよいもの、時間をかけて整えていけばよいものを、儀礼、建築、ランドスケープの関係から見極めることである。

神楽を行うには、まず本殿に相当する依代が必要になるだろう。そこに神が宿る、あるいは神に向かって奉納する対象がなければ、拝殿の舞台性は成立しない。筑前御殿神楽は「御殿」と強調されるように、拝殿の中で行うことが重要視されている。ただ、御殿とつく名称は昭和53年頃から用いられているといい、比較的新しいものである。恒久的な本殿がかならず必要なのか、仮設的な社、仮の依代、祭礼時に設える一時的な装置によって、まずは神楽を戻すことはできないだろうか。

そのプロセスを地域の人々やフィールドワーク参加者に開き、儀礼の過程を共有する複合的なコミュニティが生まれるかもしれない。人類学者のヴィクター・ターナーのいう「コムニタス」に近いこの概念を、中村寛さんはコミュニティのあり方について考えるコミュニティという意味で《メタ・コミュニティ》と呼んだ。

拝殿の舞台をどう整えるかも重要である。畳的な床の広さや高さ、屋根の有無、雨風への対応、本殿との距離、神職や観客の位置、道具の置き場。それらをすべて恒久建築として一度に整えるのではなく、神楽の実施に必要な最小限から逆算することができるかもしれない。10月の神楽の日に、現在は須賀神社で行われているものを、狩尾神社の場所へ戻す。そのための最初の一歩は、完全復元ではなく、儀礼が再び発生するための小さな足場をつくることではないか。

参道と失われた拝殿

このとき、掃除や枝打ちもまた重要な再建行為になる。鳥居を見えるようにすること、参道を歩けるようにすること、石段の危険を減らすこと、拝殿跡の植物をすべて排除するのではなく、必要な範囲を切り開くこと。これらは建築以前の準備ではなく、すでに再建の一部である。むしろ、こうした手入れの積み重ねが、神楽の場を少しずつ呼び戻していく。

場をなぞることの儀礼性

夜の饗宴を挟んで(その様子も大変楽しく、どこかで振り返りたい)2日目の朝、一人で狩尾神社へ赴き、iPhoneで境内の3Dスキャンを行った。各面を写真や動画のように収めながら、空間の表面をゆっくりなぞっていく。その行為は、なんだかお祓いに似ている。榊を持って空間の穢れを祓う行為は、空気や物の表面をなぞるような身振りを伴う。3Dスキャンもまた、石段、基壇、灯籠、地面、植物の輪郭を、身体を動かしながらなぞっていく。

海上に突き出る鳥居から本殿までのスキャンデータ
拝殿と本殿の跡地

もちろん、スキャンはデジタルな測量技術であり、神事ではない。しかし、狩尾神社のような場所でそれを行うとき、単なる記録やデータ取得以上の意味を帯び始める。失われた建築の跡をなぞること、残された石の輪郭を読み取ること、植物に覆われた境界を探ること、空間の中をゆっくり歩きながら複数の面を確認すること。それは、場所に再び注意を向け、関係を結び直すための身体的な行為でもある。

枝打ちや掃除も同じである。手入れは単なる維持管理ではない。どこに光を入れるか、どこを見えるようにするか、どこを歩けるようにするか、どこを残すかを決める行為である。そこには、場所の秩序を読み替える力がある。日峯神社が20年かけて変化してきたように、手入れは時間をかけて場を再構成する。20年は気が遠くなる、だけど今回は多くの仲間がいる。

AMP/PAMが考えるPAMの実践としてのメンテナンスは、壊れたものを元通りにすることだけではない。掃除、枝打ち、部分的な修理、仮設の設え、スキャン、記録、聞き取り、祭礼の準備。それらはすべて、狩尾神社を再び社会的資源として立ち上げるための創造的修復である。ここでは、建築設計とフィールドワークと儀礼の境界が曖昧になる。測ることは祓うこと、掃除することは設計することに、枝を払うことは窓を穿つ行為へと接近する。

狩尾神社の再建において必要なのは、図面を描くことだけではない。掃除をし、話を聞き、神楽を見る。石を測り、カニの道を観察し、洞山の風を受け、干潮の千畳敷を歩く。3Dスキャンを行い、古い写真を探し、拝殿の寸法を調べる。こうした行為の連鎖そのものが、再建の儀礼的過程ではないかと感じる。

かつての狩尾神社の姿(提供:狩尾神社)

おわりに|“再顕”をめざして

狩尾神社の再建とは、失われた建物を単に元に戻すことではない。もちろん、焼失前の本殿や拝殿の姿を調べ、可能な限り正確に理解することは重要である。神職や氏子の記憶、古写真、古い図面、周辺神社との比較、神楽の実施条件などを通じて、かつての建築を知る必要がある。しかし、それを知ることと、そのまま復元することは同じではない。

この50年のあいだに、狩尾神社には別の時間が流れていた。石は残り、木は失われ、植物が生え、カニが歩き、根が石段を動かし、洞山の穴と向かい合い、海へ抜ける道が続いている。そこには、失われたことによって見えてきた関係がある。その関係を消してしまうような再建は、たとえ建築の形を取り戻したとしても、狩尾神社の現在を取り逃がしてしまうだろう。

穴を塞ぐことではなく、穴によって開かれた認識を引き受けること。つまりそれは、建築を再び建てる再建ではなく、場の力を再び顕在化する「再顕」と呼びうるものだ。洞山の穴を塞がないように、狩尾神社の焼失によって開いた建築的な穴もまた、慎重にのぞきこむ必要がある。そこに仮設の依代を置き、最小限の舞台を整え、枝を払い光を入れる。仮設的に再建された儀礼の場となった狩尾神社に人々は再び集まり、時間と空間を共有し、言葉を交わす。それが狩尾神社再建プロセスの「はじまり」だと思う。

伊藤 孝仁
建築家|AMP/PAM(アンパン)代表

1987年東京生まれ。2012年 横浜国立大学大学院Y-GSA修了。乾久美子建築設計事務所を経て2014年から2020年までトミトアーキテクチャを共同主宰。2020年から2025年までアーバンデザインセンター大宮[UDCO] デザインコーディネーター。2020年より現職。
空き家改修による地域拠点づくり、郊外の駅前広場の設計、ランドスケープの回復など、「社会的資源の創造的修復」を多様な主体とともに考え実践する。主なプロジェクトに『氷川神社ゆうすいてらす』『農家住宅の不時着』『群馬総社駅西口駅前広場基本設計』『真鶴出版2号店』がある。

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