異なる宗派(ニカーヤ)の僧であること ルアンプー・ウェーン伝記
ルアンプー・ウェーン師にとって、心地よくない問題が一つあった。それは所属する宗派が異なる僧であるということであった。当時の師はまだ**マハーニカーイ派の僧であり、タンマユット派へ改めて受戒してはいなかったのである。
布薩日になると、ルアンプー・ウェーンをはじめマハーニカーイ派の僧たは、僧伽羯磨(サンガコンマ)に加わって波羅提木叉(パーティモッカ)の誦経を聴くことができず、定められた結界の外へ出ていなければならなかった。儀式が終わってから初めて、マハーニカーイ派の弟子たちは中に入り、清浄を告げることを許されたのである。
そのあとで、アチャン・マン師が法を説き、瞑想中に行き詰まった心を解く方便を教え、新しく実践に入った者には観察の仕方や念誦の言葉を、状況に応じて示された。
当時アチャン・マンのもとで瞑想の教えを受けていたマハーニカーイ派の弟子は何人もいた。相応の期間を過ごし、右のような不都合を感じると、彼らはタンマユット派への改宗受戒を願い出た。
ある者にはアチャン・マンは許しを与え、ある者には許されなかった。
宗派を変えることを許されなかった僧に対して、師はこう理由を述べられた。
「みなが揃ってタンマユットに改めて受戒してしまったら、マハーニカーイの側では、誰が実践を導くのか、道と果は、宗派によるのではない。道と果は、仏陀が説き示された法と律に従って善く実践し、正しく実践することによる。仏陀は、捨てるべきものを捨て、育てるべきものを育てよと教えられた。これこそが、道・果・涅槃へ進む道なのだ」
アチャン・マンが改宗受戒を許さなかったマハーニカーイ派の弟子たちは、のちにそれぞれの系統で弟子を導き教え、実践の輪を大きく広げていった。その法脈は今日まで受け継がれている。
第一世代のマハーニカーイ派の弟子には、プラアーチャン・トーンラット・カンタシーロ師(ウボンラーチャターニー県ワット・パー・バーンクム寺)がいる。仏暦2499年(1956年)9月21日に遷化、世寿68歳、法臘42年。アチャン・チャー・スパットー師はこう語っている——「プラアーチャン・トーンラット師は、最期の時まで澄みきったまま生きた方であった。遷化されたとき、頭陀袋の中の財産といえば、剃刀が一挺きりだった」
ウボンラーチャターニー県のワット・ノーンパーポン寺のアチャン・チャー・スパットーも、次の世代における名高いマハーニカーイ派の弟子の一人である。

さらに後年、アチャン・マン師が北部に滞在した時期の、名高いマハーニカーイ派の弟子としては、ルアンプー・カムセーン・クナーランカロー師(チェンマイ県サンカムペーン郡ワット・ドーンムーン)、ルアンプー・カムピン・スパットー師(チェンマイ県メーリム郡ワット・サンポン)などが挙げられる。
**タンマユット派は1833年にラーマ4世(モンクット)が創設した改革派で戒律がより厳格、マハーニカーイ派は伝統的な大多数派で運用がやや柔軟。教義は同じ上座部で、違いは主に僧衣の色・着方、現金の受け取り、読経の発音、出家式などの実務にある。
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