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空の時代の『中論』について 清水高志著を読み進めて⑤

P214
「空」というものが、自分が今まで展開してきた議論の核心であって、釈尊もそういうことを言いたかったのだという主張ですね。
第十三章は、大乗仏教の理論のかなめである「空」は、自分によって突然主張されたのではなくて、最初から語られていたのだという説明ですよ。例えばそういうことをどこで説いたかというと、『相応部経典』で、仏陀が空を説いているとも言えます。そこのあたりで、初期仏教と紐づいてくるんですよ。【十三ー三】です。

三、もろもろのものにあるのは、「無自性であること」である。なぜなら、それらが変化することが見られるからである。無自性なるもの〔そのもの]は存在しない。もろもろのものに空性があるのである。

そして、あらゆるところに、無自性なものが存在する。無自性をそれ自体があるとか無いと言ってしまうと意味がわからないです。「自己原因性が無い」と考えたほうがよくて、それをあらゆることについて言うと理論的にも正しいし、西洋でもライプニッツは無自性的なものとして目的因を復活させているんです。ライプニッツ以降の自然科学にも、例えば進化論も、福岡伸一さんの本などを一時期よく読んでいたのですけれど、いかにラマルク(1744-1829)説のような素朴目的論を否定するか、いかに機械論的に進化が起こったということを否定するか、いかに多様なものが成立して調和しているか、ということを考えていく営みなのです。
進化論もそうだし、分子生物学もそうだし、後代の科学は、ライプニッツの言ったような方向になります。そこにおいてもやはり、素朴目的論は恒に否定されているわけですよね。そしてそういうサイエンスとは異なる領域で、見事な直観で執拗にこれを考えていくナーガールジュナはすごいなと思うわけですよ。素朴目的論も、機械論もそれぞれ現状あるあり方から推し量って未来を想定したり、過去から決定論的に現状が決まってきたと考えるところに限界があるわけですが、ナーガールジュナも未来、現在、過去に拘束されない多様な世界を直観している。それが「無自性にして空」なる世界です。
そして、ライプニッツが直観した、多様なものの調和が、非常に複雑な偶然的な調和の中から浮かび上がってくるというおんは、個人の意思を超えた何かの力という摂理を感じることですので、やっぱり仏教もそれを考えているわけですよ。だから、そうした「ブッダの救済の意思」みたいなものも、ここで出てくるんだと思うんですよね。

P272-274
(デリダに代表される思想潮流は)「脱構築」、「ポスト構造主義」というのですが、僕は最近単に「構造主義」でよかったのではないかという論になっています。構造主義というのは、全体から部分を確定していくというギリシャの表音文字体系の頃からあった発想が20世紀にリバイバルして勃興してきた方法で、西洋の自然科学は本質的にずっとそういう発想なんですが、それが記号論、文芸批評、神話論などさまざまな分野にまで拡がって開花したものです。ポスト構造は、それを構造というと何か同じ構造のパターンに落として回収するもののように見えるから差異化しようとか、「構造の外部へ」とか、こじらせていたと思うんですよ。実際には複雑性もカオスも内部にあるものなのに、かえって差異的でカオス的な外部との二項対立になっていった。僕は20世紀のフランス現代思想とか、ああいうものはだんだん「レトロ昭和居酒屋」みたいになっていくと思うんですよ。
レトロ昭和居酒屋に入ると、日本髪でおちょこをもった女の人のポスターがあって〔編注:戦前の昭和]、隣に松田聖子ちゃんのポスターがあって、そのへんにオロナミンcのポスターがあるといった風ですが、全部時代が違うじゃないですか。そういうふうに混じっていくと思いますよ。〔編注:前回講義で展開を構造主義も三本柱くらいの幅で考えたほうがいい説明があった、昭和はこれくらい展開の幅があるし、構造主義も歴史的・思想的幅をもったものであるという考え]。ジャック・デリダは構造主義の全体の大きな流れの中からちょっとその批判性が突出していたところがあるけれど、斎木さんがいうのももっともなんですよ。ところで構造主義の時代に、アーシュラ・K・ル=グウィンという作家がいて、『ゲド戦記』という有名な物語を書いたんですね。ル=グウィンはお父さんがアメリカ人類学会の父みたいな人なんです。『ゲド戦記』は傑作で主人公はネイティブ・アメリカンみたいな雰囲気の魔法使いで人類学的な異文化を感じさせてくれる魅力的な物語だったんですね。その前期の三部作はそんな感じで、夢中になって読んだものです。それからかなり期間をおいて後半の新しい三部作というものが発表されましたが、すっかりポストモダンの時代になっていて、人種問題とか今のフェミニズムに接近した話になっていて、せっかくあれほどみずみずしく異世界を創造していたのに、西洋人の内側の葛藤の価値観に戻ってしまったなと落胆したものです〔編注:文化人類学が見出した「多自然」が、「多様性」とか「ヒューマニズム」礼賛に逆戻りしている。前回講義でも説明されたが、ポストモダンの黒と白の中間のグレーのような二項対立の解き方は、対立が永遠に引き伸ばされるだけで問題がまったく解決しない]。構造主義からポスト構造主義への変遷というのはこれが象徴している。ポスト構造主義も構造主義の亜種としては、面白いこともいっぱい言っています。構造主義を乗り越えて云々というのは、当時そういう触れ込みで出てきたが今客観的に見るとそうでもない。また一般的にポストモダンやポストコロニアル批評などは、西洋内の西洋批判に日本人が乗っかりすぎていて、面白くない感じなんです。レヴィ=ストロースを読んだりしながら、全然関係ない、東洋そのものに戻っていったりするほうが面白いし、ナーガールジュナを語りながら日本人が自前で思想を組み立てて西洋思想を乗り越えていくということに興味があります。

フーコーの統治論に関する講義の解説本、『統治の抗争史』重田園江著も同時に読み進めている。フーコーの統治論における重要な要素の一つとして、「人口」がある。P230に、ジョセフ・タウンゼント(1739-1816)が取り上げた南米ファン・フェルナンデス諸島にある島の逸話が紹介されている。
スペインの航海者がその島に羊を放牧した。羊が繁殖し、イギリスの海賊がその羊を食料としたため、スペイン人が猟犬(グレイハウンド)を島に持ち込んだ。羊は犬が追ってこれない岩場に逃げ、住みにくい場所に羊が、そして飢えた犬が島において共存することになった。この話から、タウンゼントは、「ヒトという種の数を調整するのは食物の量である」と結論づけた。
カール・ポランニーは『大転換』(1944)という著作で、これに言及し、
P232-233
「しかし、ファン・フェルナンデスの島には統治も法もなかった。それでも山羊と犬との間にバランスがあった。このバランスは、犬が島の一部である岩に逃げ込む山羊を貪り食う難しさと、山羊が犬から無事に逃げるために直面する不便によって保たれた。このバランスを保つのに統治は必要なく、代わりに一方の飢えの苦しみと他方の食糧の稀少によって成り立っていた。ホッブスは人間が獣のよう(のよう、の上に点)だから専制君主が必要だと論じたが、タウンゼントは人間は実際に(実際に、の上に点)獣だからという理由で、最小の政府しか必要ないと主張した。この新見地によると、自由な社会は二つの種族racesからなると見なされる。財産所有者と労働者である。このうち労働者の数は食物の量で制限される。財産が安全に保護される〔飢えた貧民の掠奪から守られるー引用者重田園江]なら、彼らは飢えに駆られて働く。飢えは治安判事よりもよき規律者なので、治安判事は不要である。飢えに訴えるのは「弱々しい権威よりずっと力強い訴えになる」とタウンゼントは辛辣にも指摘している」。
マルサスはコンドルセを経由してタウンゼントの人間観を学び、そのマルサスがダーウィンに多大な影響を与えた。こうして19世紀には、このある種の「自然主義」が、人間の生物学的な理解の名の下に、経済学、社会科学において幅を利かせることになる。「収穫逓減の法則は植物生理学の法則である。マルサスの人口法則は人間の多産性と土壌の生産力との関係の反映である。どちらの場合も、働いているのは動物の性本能と与えられた土俵での植物の生長といった自然の諸力である。タウンゼントの山羊と犬の例も同じである。人間にはそれ以上増殖できない自然の限界というものがあり、この限界は食糧供給によって決まる。タウンゼントと同様マルサスは、余った分は死に追いやられるだろうと結論づけた。山羊は犬に殺されるが、犬もまた食糧不足で飢餓に陥るからだ。……経済社会は本質的に自然の陰鬱なリアリティに基づいている。人がこの社会を支配する法則に従わないなら、残忍な処刑人がやってきて無思慮から生まれた子を絞首刑に処すことになる。競争社会の法則はジャングルの制裁の下に置かれたのである」。

私がこの部分を並べたのは、清水さんが『中論』を説明していくなかで、リンクを感じたからだ。引用したヨーロッパの「自然主義」こそ、スコラ哲学の考え方や、キリスト教の考え方が影響された上でなされた「素朴目的論」だったり「機械論」の結果に思えた。火が上にのぼるのは、その火の自性があって上にのぼる性質を有している、という発想。目の前にある山羊と犬の関係性によって直截的にヒトも食べ物の量が問題なんだ、という結論に飛びついてしまう発想、そういうのをナーガールジュナは否定したんじゃないかな、と。清水さんはライプニッツを引き合いにだして、それを西洋哲学の救いと思っているのかもしれない。

ユーチューブを探せばこういう動画はすぐ見つかる。「仏教はもっと昔からこんなこと気づいてたんだよ、やっとヨーロッパが追い付いてきたか」というヤツだ。清水さんの考えとは違うだろうけれど、今回清水高志さんの本を読み進めて学んだことがいくつもあるのだが、その一つは「空は空であって、無いも有るもない」ということ。私は今まで「空というのは、無いが有る」だと思っていた。仏陀に言わせるとそれは「真理を見る者ではない」らしいw ただ言い訳をするなら、空はそういものだ、と見たときに、直観でなるほど、とうなずく自分がいた。私のつたない理解では、苦しみすら本当は無いものなんだよ、と説かれているとも。質疑応答部分で、ナーガールジュナさんは『中論』で説一切有部とかを論破しようとはしていたが大衆に向けて説いたものではない、という清水氏の回答があった。私のこの一連のnoteやXのポストも同様だ。私個人の思索を披歴しているのは、みんなに自分の考えを押し付けるものではない。そこから何か別のことでもいい、考えるキッカケになってくれたら僥倖。次回は講義の第三回に入る。ゆっくり上っていく。

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