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悟りのその先への旅、鍛錬する人たち🙏道元

悟りのその先への旅、鍛錬する人たち

道元、悟りを求める僧から、ただ坐る人へ

「自己をならふといふは、自己をわするるなり」

道元の『正法眼蔵』にある、有名な言葉です

自分を学ぶとは
自分を忘れることである

ふつう私たちは、自分を知ろうとするとき、自分のことを考えます

私は何が好きなのか
私は何に向いているのか
私はどうすれば幸せになれるのか
私は何者なのか

けれど道元は、そこからさらに奥へ進みます

本当に自分を学ぶとは
自分という思い込みを、少しずつ手放していくことなのだと

自分が悟る
自分が立派になる
自分が救われる
自分が正しい道を得る

そう思っているうちは、まだ「自分」が中心にいます

道元の道は、その「自分」さえも静かに脱ぎ落としていく道でした


若き日の道元は、深い問いを抱えた人でした

幼くして両親を失い、無常を身近に感じたと伝えられています
世の中の栄華も、親しい人の命も、永遠ではない
どれほど大切なものでも、いつかは変わり、失われる

その現実は、若い道元の心に深く刻まれたのでしょう

やがて道元は仏門に入り、比叡山で学びます

しかし、学べば学ぶほど、一つの大きな疑問が生まれます

人は本来、仏性を持っているという
すべての人に仏となる可能性があるという

それなら、なぜ修行しなければならないのか

すでに仏の性を持っているなら、なぜ坐り、祈り、学び、厳しい修行を重ねる必要があるのか

この問いは、単なる理屈ではありません

修行とは何か
悟りとは何か
人は何のために生きるのか

道元の生涯を貫く根本の問いでした

ここに、道元の第一の変節があります

答えを教わる僧から
問いそのものを生きる僧へ

仏教を学ぶ人から
仏教に自分を問われる人へ

悟りを知識として求める人から
悟りの意味そのものを探す人へ

道元は、ただ教えを覚えるだけでは満足しませんでした

正しい答えを暗記するのではなく
自分の命をかけて、その問いを確かめようとしました


道元は、やがて海を渡り、中国・宋へ向かいます

それは、安全な旅ではありませんでした

海を越えることは、命がけでした
異国の言葉
異国の寺
異国の修行
そして、自分の問いに本当に答えてくれる師に出会えるかどうかもわからない

それでも道元は行きました

なぜなら、心の奥の問いが、彼をそこに留まらせなかったからです

本当の修行とは何か
本当の仏法とは何か
本当の坐禅とは何か

それを知るために、道元は自分の慣れた場所を離れます

人は、本気で何かを求めるとき、今いる場所を離れなければならないことがあります

それは地理的な旅だけではありません

自分の常識を離れる
自分の安心を離れる
自分が正しいと思っていた考えを離れる

道元にとって宋への旅は、外への旅であると同時に、自分の思い込みを離れる内なる旅でもありました


宋で道元は、天童山の如浄禅師と出会います

如浄のもとで修行する中で、道元は大きな転機を迎えたと伝えられています

「身心脱落」

身も心も脱ぎ落とす

この言葉は、道元の悟りを語るとき、欠かせない言葉です

けれど、これは自分の身体を嫌うことでも、心を無理に消すことでもありません

むしろ、自分の身体、自分の心、自分の考え、自分のこだわりにしがみつく力が、ふっとほどけるような境地です

自分が坐っている
自分が悟ろうとしている
自分が正しく修行している

その「自分」が落ちる

そこに、道元の第二の変節があります

悟りを手に入れようとする人から
悟りを得ようとする自分を手放す人へ

修行する私から
修行そのものへ

坐禅をする人から
坐禅に坐らされる人へ

これは、とても深い変化です

私たちは、何かを努力するとき、つい成果を求めます

これだけ頑張ったのだから報われたい
これだけ続けたのだから、何かを得たい
これだけ修行したのだから、悟りに近づきたい

しかし道元は、その「得たい」という心そのものを見つめました

悟りを求める心が、かえって悟りを遠ざけることがある

何かを手に入れようと握りしめた手では、本当に大切なものを受け取れない

だから、ただ坐る

目的を握りしめず
成果を急がず
立派な自分になろうとせず

ただ、坐る


道元の坐禅は、「只管打坐」と呼ばれます

ただひたすらに坐る

ここで大切なのは、「ただ」という言葉です

何かを得るために坐るのではない
悟りという賞品をもらうために坐るのではない
心をきれいに見せるために坐るのでもない

ただ坐る

けれど、この「ただ」が難しいのです

私たちは、ただ何かをすることが苦手です

食べながら考える
歩きながら悩む
人と話しながら別のことを気にする
休みながら、休んでいる自分を責める

いつも心は、今ここから離れていきます

だから、ただ坐ることは、簡単なようで、もっとも厳しい鍛錬です

坐ると、自分の心が見えてきます

落ち着きたいと思っているのに、心は落ち着かない
無になりたいと思っているのに、考えが次々に浮かぶ
悟りたいと思っているのに、眠くなる
立派になりたいと思っているのに、雑念ばかり出てくる

坐禅とは、清らかな人だけが行うものではありません

むしろ、清らかでない自分
落ち着けない自分
迷い続ける自分を、そのまま見つめる場です

ここに、道元の第三の変節があります

悟りへ向かう特別な修行から
日々の身体を整える実践へ

心を消す坐禅から
心の動きをそのまま見る坐禅へ

何かになるための坐禅から
今ここにそのまま在る坐禅へ

道元は、坐禅を特別な神秘体験だけにしませんでした

坐ること
息をすること
姿勢を整えること
今ここに身体を置くこと

その一つひとつの中に、仏道があると見たのです


道元の思想で大切なのが、「修証一等」という考え方です

修行と悟りは別のものではない
修行して、その結果としていつか悟りが得られるのではない
本当に修行しているその姿そのものが、すでに悟りの働きである

これは、私たちの普通の考え方を大きく揺さぶります

私たちは、何かをするとき、目的と手段を分けて考えます

勉強は合格のため
練習は勝利のため
仕事は収入のため
努力は成功のため

もちろん、目的は大切です

けれど、目的ばかり見ていると、今していることが空っぽになります

今はまだ途中
今はまだ未完成
今はまだ価値がない
いつか結果が出たら意味がある

そう思ってしまいます

しかし道元は言います

今、この修行が、そのまま証しなのだと

坐っている今
掃除している今
食事を作っている今
人の話を聞いている今

その行いが、雑であれば、仏道も雑になる
その行いが丁寧であれば、そこに仏道が現れる

悟りは、未来のどこかで受け取る賞状ではありません

今日の姿勢にある
今日の言葉にある
今日の箸の上げ下ろしにある
今日の掃除の手つきにある
今日、人に向けるまなざしにある

ここに、道元の第四の変節があります

悟りを未来に置く人から
悟りを今の実践に見る人へ

修行を手段と見る人から
修行そのものを仏の姿と見る人へ

いつか完成する人から
今この一歩を完全に生きる人へ

これは、悟りのその先を考えるうえで、とても大切です

悟りのその先とは、悟った自分を誇ることではありません

悟りを知ったあとも、今日の坐禅に戻ること
今日の食事に戻ること
今日の掃除に戻ること
今日の一呼吸に戻ることです


道元は、日本へ帰ったあと、ただ自分の悟りを語るだけではありませんでした

坐禅の作法を説き
弟子を育て
『正法眼蔵』を著し
日々の修行生活を整えました

やがて越前へ移り、永平寺のもととなる修行道場を築いていきます

そこでは、坐禅だけが修行ではありません

掃除も修行です
食事を作ることも修行です
眠ることも修行です
歩くことも修行です
人と接することも修行です

道元は、台所の役を担う典座についても深く説きました

食事を作ることは、単なる雑用ではありません

米を洗う
火を扱う
野菜を刻む
湯気を見る
食べる人のことを思う

そのすべてが修行です

仏道は、坐禅堂の中だけにあるのではありません

台所にもある
廊下にもある
掃除の手にもある
食事の一口にもある

ここに、道元の第五の変節があります

山奥の悟りから
暮らしの一つひとつに宿る悟りへ

特別な修行から
日常そのものの修行へ

坐禅の道から
生きる全体が坐禅になる道へ

この考え方は、現代の私たちにも深く響きます

私たちは、特別なことだけに価値があると思いがちです

大きな仕事
華やかな成果
人に認められる成功
特別な体験
特別な場所

けれど道元は、日常を軽んじません

茶碗を洗うこと
床を拭くこと
食事を整えること
きちんと坐ること
静かに歩くこと

その中に、心のあり方が現れると見ました

悟りとは、非日常の光ではなく、日常を粗末にしない姿勢なのかもしれません


道元の言葉には、厳しさがあります

それは、人を責める厳しさではありません

自分をごまかさない厳しさです

坐っているふりをして、心が逃げていないか
修行しているつもりで、名誉を求めていないか
人を導くと言いながら、自分を飾っていないか
仏道を語りながら、日常を雑にしていないか

道元は、そう問いかけます

この問いは、とても静かです
けれど、逃げ場がありません

なぜなら、仏道は遠い場所にあるのではなく、今ここにあるからです

今の姿勢
今の呼吸
今の一言
今の手の動き

そこに、もう答えが出ています

悟りを遠くに置けば、私たちは言い訳できます

まだ悟っていないから
まだ未熟だから
まだ準備ができていないから

けれど道元は、今ここを指します

今、どう坐るのか
今、どう食べるのか
今、どう人と向き合うのか

それが仏道なのだと


道元の「ただ坐る」は、何もしないことではありません

むしろ、余計なことをしないという、きわめて強い行為です

結果を急がない
評価を求めない
自分を飾らない
悟りを所有しようとしない

ただ坐る

すると、自分がいかに落ち着かない存在かがわかります

心はすぐに未来へ行く
過去へ戻る
人と比べる
自分を責める
誰かに認められたがる
意味を求める
成果を求める

そのすべてを無理に追い払うのではなく
それに気づきながら、また坐る

焦っても、坐る
眠くても、坐る
迷っても、坐る
わからなくても、坐る

この繰り返しが、鍛錬です

鍛錬とは、強くなることだけではありません

逃げずに戻ることです

一度悟ったような気になっても、また坐る
よくわからなくなっても、また坐る
何も得られない気がしても、また坐る

そこに、道元の深さがあります


道元は、悟りを否定したのではありません

しかし、悟りを特別な所有物にしませんでした

「私は悟った」
「私は到達した」
「私はもう迷わない」

そう言った瞬間、悟りは自我の飾りになる危険があります

道元が見つめたのは、悟りを誇る人ではなく、悟りの働きとして生きる人です

静かに坐る
丁寧に掃除する
一粒の米を粗末にしない
人と向き合う
今ここを離れない

そこに、悟りは現れる

だから、悟りのその先には、派手な境地はありません

そこにあるのは、今日も坐るという、ごく静かな実践です

悟りを求める僧から、ただ坐る人へ

この変化は、弱くなったのではありません
むしろ、もっと深くなったのです

求める心は、前へ前へ進みます
得ようとする心は、何かをつかもうとします

しかし、ただ坐る人は、逃げません

自分の身体
自分の呼吸
自分の迷い
自分の今

そのすべてを抱えたまま、坐ります

そこには、静かな強さがあります


宮本武蔵が、勝つ剣から己を磨く道へ進んだ人なら
世阿弥が、若き日の花から老木に残る花へ進んだ人なら
千利休が、飾る美から削ぎ落とす美へ進んだ人なら
空海が、知識から祈りと実践へ進んだ人なら
葛飾北斎が、名人からなお学ぶ老人へ進んだ人なら
松尾芭蕉が、言葉を削り旅に消えていく人なら

道元は、悟りを求める僧から、ただ坐る人へ進んだ人です

武蔵は、剣の中で自分の迷いを削りました
世阿弥は、芸の中で老いの花を見つけました
利休は、茶の中で余計な飾りを手放しました
空海は、知識を人々のための実践へ変えました
北斎は、絵を通して永遠の未完成を生きました
芭蕉は、言葉を削りながら世界の静けさへ溶けました

道元は、坐ることの中に、修行と悟りが一つである道を見ました

何かを得るために坐るのではない
何かになるために坐るのでもない
ただ坐る

そのただ坐る姿の中に、すでに仏道が現れている

これは、とても簡単なようで、とても難しい教えです


現代を生きる私たちは、いつも何かを求めています

成果
評価
安心
正解
効率
意味
成長

もちろん、それらは悪いものではありません

けれど、求め続ける心は、私たちを今ここから引き離します

まだ足りない
まだ遅い
まだ認められていない
まだ成功していない
まだ自分は完成していない

そう思うほど、今の自分を粗末にしてしまいます

道元は、そんな私たちに問いかけます

今、どう坐っていますか
今、どう息をしていますか
今、どう食べていますか
今、どう人の言葉を聞いていますか

人生は、いつか始まるのではありません

今、この一呼吸で始まっています

悟りもまた、遠い未来にだけあるのではありません

今日の姿勢
今日の一口
今日の掃除
今日の沈黙
今日のやさしい言葉

その中に、すでに現れています


道元の「ただ坐る」は、怠けることではありません

何もしないことでもありません

余計な自分を持ち込まず、今ここに全身でいることです

それは、文章を書く人にも通じます

うまく書こうとする前に、まず机に向かう
評価されようとする前に、まず一行を書く
人に見せる自分ではなく、今の言葉に坐る

料理をする人にも通じます

早く終わらせようとする前に、野菜をよく見る
誰かのために、火加減を感じる
一つの食事を粗末にしない

人を支える人にも通じます

正しい助言を急ぐ前に、まず相手の言葉を聞く
すぐに答えを出す前に、そばにいる
相手を変えようとする前に、自分の心を整える

坐禅とは、座布団の上だけにあるものではありません

今していることに、全身で戻ること
それが、道元の教えを現代に生かす道です


悟りのその先にあるのは、特別な光景ではありません

そこにあるのは、今日も坐る姿です

迷いながら坐る
眠りそうになりながら坐る
何もわからないまま坐る
それでも、また坐る

そして、坐ることを通して、自分を忘れていく

自分を忘れるとは、自分を消すことではありません

自分だけを中心に置かないことです

世界とともに呼吸すること
人とともに生きること
一つの米粒、一つの言葉、一つの出会いを粗末にしないことです

道元は、悟りを求めて旅に出ました

けれど、その旅の果てに見つけたのは、どこか遠くの特別な場所ではありませんでした

ただ坐る
ただ今ここにいる
ただ、この一呼吸を生きる

そこに、仏道がある

道元という人は、悟りを追い求めた末に、悟りを追いかける自分さえ手放し、ただ坐る人になりました

そして、その静かな坐りの中で、私たちに教えてくれます

人生は、何かを得たあとに始まるのではない
今ここに、すでに道は開かれている

ただ坐ること
ただ生きること
ただ目の前の一つを丁寧に行うこと

その単純で、果てしなく深い実践こそ、悟りのその先への旅なのです

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