⑥22歳の論文「自我の喪失」ー 今の私が読み返す時ー (『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ)
キーボードに打ち込む作業が少しずつ進んできて
ひと安心。
とはいえ、まだ半分💦
打ち込みながら、時々声に出して読み上げながら、
しばし立ち止まる、
恥ずかしさが溢れてー
こんなものを読んで、感想を言ってくれた当時の友人に
今さら心から感謝しつつ
申し訳ない気持ちになる。
前回⑤はこちら👇
なぜ、抑制するのか、それは幾度となく繰り返された試みの、挫折の結果なのだと言える。孤独を計去ろう、存在の不安から逃れようという欲望を満たそうと試みるが、それは常に失敗と挫折で終わるしかない。そして、人間は抑制することを学ぶのである。
だが、抑制を学びはするものの、孤独を消し去る、存在の不安から逃れたい欲望、すなわち交流しようとする欲望は、永遠に失くなりはしないのだ。人間は挫折するという絶望を抱え、あるいは絶望を前に控えたまま、永遠に試みるしかない。
ここで一言でまとめるならが、自我が交流を妨げているのだと言うよりも、自我が交流をしようとちう根源的な欲望を抑えているのだと言える。
故に、バタイユの言う粘り強さ、組織された存在、つまり交流を不可能にしているものが、前述したように自我を含んでいるのではないかと思われるのである。
孤独、存在の不安から逃れることは、常に挫折で終わると前に述べたが、それはここで言いたいことに反している。常に挫折で終わるということは、真実でありながら、翻されることもあると、私は言いたいのだ。
非連続の存在を維持するために必要な粘り強さ、非連続のなかで、組織された存在から人間を引き離す、最も暴力的であり、そして暴力をもってなされるもの、それは死なのだと、バタイユは続けている。そして、また、自我が消滅すること、人称を失うこと、それは死を垣間見ることであり、交流と融合の瞬間なのだ、と私は言いたいのである。「死が存在の非連続性を顕現する」 (ジョルジュ・バタイユ |澁澤龍彦 訳『エロティシズム』二見書房 P33) ということ、まさしく、それが性において起こり得るのだと。 「エロティシズムの最後の意味は融合であり、限界の撤廃である。」 (ジョルジュ・バタイユ |澁澤龍彦 訳『エロティシズム』二見書房 P188)と
ーつづくー
~今日の曲~
"Natural High" Vanessa Paradis
~最後まで読んでくださった方へ~
心よりありがとうございました😊
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