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第六話「割れた手鏡」

 七月の半ば、言埜市の寂れた廃寺の奥にある離れ座敷には、風一つ吹かない、息が詰まるような「無臭の静寂」が横たわっていた。

 言埜署の本郷刑事の右手の指先は、あのどうしても落ちない黒いインクの染みが、今はまるで皮膚そのものと一体化して黒い痣のようになっている。現場の中央、自分の胸をきつく抱きしめるようにして、ただ寂しさに震えて事切れた老女の死体の横。本郷が拾い上げたのは、蜘蛛の巣のようにバキバキにひび割れた、真鍮の古い手鏡だった。

 手鏡を覗き込んだ瞬間、本郷の指先の黒い痣が、じりじりと凍りつくような冷たさを帯びた。積み重なった地層の底から、これまでのような世界への怒りや怨嗟ではない、ただひたすらに自分の内側をズタズタに切り裂くような、狂おしい痛みが本郷の喉を突き破る。

「………誰も、いない………っ」

 本郷の口から漏れたのは、ひどく掠れた、胸の奥底を丸ごと吐き出すような慟哭だった。

「誰かに触れたいのに、自分の声を聞いてほしいのに、誰の手も届かない………っ! 暗闇の底で、自分の輪郭がどんどん消えていって、世界に一人きりで置き去りにされるのが………こんなにも、痛くて、寂しいんだよ………ッ!」

 懐中電灯の光の下で、本郷は手鏡の破片に映る、バラバラにひび割れた自分の顔を見つめながら、涙を流して叫んでいた。誰の手も届かない、声も届かない、圧倒的な『孤絶』の痛み。それが死んだ老女の、あるいは百年前の鏡の主の無念だと信じて、本郷は必死にその感情を言語化していた。

 だが――本郷は気づかない。その凄絶な慟哭の言葉が座敷に響く中、すぐ後ろに立つ静華が、どんな瞳でその背中を見つめているかを。

 静華は、何も言わなかった。ただ、バキバキに割れた手鏡の破片のほんの一片に、自分の、半分だけ白く霞んで消えかけている顔の輪郭が映っているのを、彼女の冷徹な瞳だけが静かに観測していた。

 彼女の白い指先が、お札を構えた位置で、今度は震えることもなく、ただ静かに虚空を滑る。自分の消えゆく存在の、その最果ての孤絶をなぞるように、文字が、お札の上へと紡がれていく。

「――お前が閉じ込めた、一人きりの終わりを、ここに」

 彼女の声は、かつてないほどに静かだった。本郷の叫ぶ痛みをその胸に生々しく突き刺されながら、静華は第六の和歌を、その凍りついた声で静かに響かせた。

『ひび割れし 鏡の底に 残されし 我が影さえも 誰か知るべき』

 詠み上げられた三十一文字の器が、座敷を満たしていた圧倒的な孤絶を強引に包み込んでいく。次の瞬間、本郷が覗き込んでいた真鍮の手鏡は、キィンと悲鳴のような音を立てて粉々の透明な砂へと融解し、古い畳へと吸い込まれるように消え去った。座敷を支配していた息の詰まるような静寂は霧散し、離れ座敷の周囲には、廃寺の深い夜闇だけが戻ってきた。

 本郷は、右手の指先の痣の冷気が引いていくのを感じながら、力なくその場に立ち尽くした。脳髄の慟哭は引き、かろうじて自分の正気の輪郭を繋ぎ止める。

(我が影さえも、誰か知るべき――)

 静華が残した和歌の結びが、本郷の脳裏に冷たくリフレインしていた。いつものように、黒髪の女は役割を終えた冷徹な観測者の佇まいで、闇の向こうへ歩き出そうと背を向けた。

 本郷はその細い背中に向けて、震える声を絞り出した。

「おい………」

 呼び止める名前すら、今の本郷にはもう、喉に閖(つか)えて出てこなかった。

 静華の足が、止まる。だが、彼女は最後までこちらを振り向くことはしなかった。ただ、彼女が闇に溶けるその最後の瞬間、本郷の手にする懐中電灯の細い光が、彼女の黒髪の隙間から覗く右の耳元をかすめた。その耳の輪郭は、背後の暗闇がほんのりと白く透けて見えるほどに、ひどく薄く、淡く、現実に欠落しかけていた。

 本郷は気づかない。

 静華は、何も言わないまま、深い闇の向こうへと、今度こそ完全に溶けるように消え去っていった。

 静まり返った座敷で、本郷は右手の、どうしても落ちない黒い痣をじっと見つめ続ける。

(この街の呪いは………俺たちの何を削り落としていくんだ)

 格子戸の向こう、廃寺を包む冷たい夜闇の静寂が、今もずっと、静かに二人の間に重なり合っている。


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