第五話「開かない鍵」
七月の始まりを告げる、じっとりとした深い霧が、言埜市の山沿いに佇む古い土蔵を完全に包み隠していた。
言埜署の本郷刑事が踏み込んだその暗がりの現場には、血の匂いすらなく、ただ鼻をつくような「酷く古い鉄錆の匂い」だけが澱んでいた。
床に転がる死体は、何かを必死に隠そうとした姿勢のまま、硬直していた。その死に損ないの指先が、床の隙間に無理やりねじ込むようにして遺していたのは、一本の冷徹な小道具だった。
錆びつき、歪み、どこの扉にも合わないような、不自然に大きな一本の古い鍵。
本郷がその鍵を拾い上げた瞬間、右手の指先に染み込んだあの「落ちない黒いインク」が、まるで硫酸をかけられたかのように激しく爆ぜ、熱を帯びた。積み重なった地層がギチギチと音を立てて軋み、鍵の冷たい重量感を通して、どす黒い霧のような感情が本郷の喉元までせり上がってくる。
「………おい」
本郷の口から漏れたのは、叫びでも笑いでもない。目の前の人間を、世界を、一切信用していない男の、冷酷な尋問のトーンだった。
「こいつは………騙されていたんだ。一番信じていた奴に、ずっと、大切な真実を隠され続けていた。………開けてくれ、見せてくれって、どれだけ叫んでも、目の前の扉を、鍵を、絶対に回してくれなかったんだよ………っ!」
懐中電灯の光の下で、本郷の目は完全に死者の猜疑心と同化し、血走っていた。
「全部お前のために隠しているんだって、そんな綺麗な言葉で誤魔化されて………中身が何かも知らされねえまま、都合よく使われて、捨てられたんだ………! なあ、教えろよ。何を隠している? そこに何があるんだよ………ッ!」
本郷は激しく吠えていた。それが床に転がる死体の、あるいは百年前の鍵の主の叫びだと信じて、目の前の黒髪の女を睨みつけていた。
だが――その尋問の刃を吐き出した瞬間、本郷の脳裏に、最悪の気づきが走った。
(待て………俺は今、誰にこれを言っている?)
脳内で狂ったように咆哮する不信の矢が、死者を通り越して、目の前に立つ静華の胸元へと完全に真っ直ぐ向き直っていた。前回の事件のあと、自分の名前を呼ばれた時の、あのほんのわずかな不自然な「反応の遅れ」。彼女が俺に何も言わないまま、その胸の奥底に隠し通そうとしている、圧倒的な空白の正体。
被害者の猜疑心と、本郷自身の静華への不信が、座敷の暗闇の中で一つに溶け合った。
本郷は、自分の意志で、初めて能動的に、静華の瞳を正面から射抜いた。
「………おい、静華。お前は、俺に何を隠している」
死者の言葉ではない。本郷自身の、剥き出しの問いが、初めて静華の静寂を切り裂いた。
その瞬間、静華の白い指先が、お札を構えた位置のまま、凍りついたように止まった。彼女の冷徹な観測者の瞳が、初めて微かに揺らぎ、本郷の眼光を真っ正面から受け止めている。
だが、静華は言い訳も、肯定も、否定すらもしなかった。ただ、震えそうになる指先をねじ伏せるように、いつもの温度の低い声を引き剥がして響かせた。
「その鍵が封じた、閉ざされた怨念を――さあ、言葉にして」
一切の間を置かず、彼女の指先が虚空を滑る。本郷の剥き出しの「不信」を真っ正面から浴びながら、文字が、白いお札の上へと凄まじい速度で刻まれていく。
『閉ざされし 鍵の行方も 知らぬまま 隠す心も いつか消えゆく』
詠み上げられた三十一文字の器が、土蔵を満たしていた狂おしい猜疑心を強引に包み込んでいく。次の瞬間、本郷が握りしめていた大きな鍵は、ジチジチと耳障りな音を立てながらドロドロの黒い錆水へと融解し、古い床板の隙間へと染み込んで消え去った。土蔵を支配していた鉄錆の匂いは霧散し、あたりには、山沿いの深い霧の冷気だけが戻ってきた。
本郷は、右手の指先のインクの熱が引いていくのを感じながら、激しい呼吸のまま、その場に立ち尽くした。
本郷には、今彼女が詠んだ和歌が、ただの怪異への言葉にしか聞こえなかった。だが、その背中を見つめる本郷の胸の奥には、これまでとは明らかに違う、埋めることのできない冷たい「距離」の溝が刻まれていた。
「………静華」
本郷がもう一度、その名を呼ぶ。彼女の足が、止まる。だが、静華は今度は、最後までこちらを振り向くことはしなかった。ただ、お札を握りしめていた彼女の白い指先が、かすかに、何か大切なものを落としたかのように頼りなく震えたのを、本郷の目は暗闇の中で確かに捉えていた。
(隠す心も、いつか消えゆく――)
本郷には分からない。
静華は、何も言わないまま、深い霧の向こうへと、今度こそ完全に溶けるように消え去っていった。
静まり返った土蔵で、本郷は右手の、どうしても落ちない黒いインクの汚れをじっと見つめ続ける。
(このインクが全部染み出す頃には………俺は、あいつの何を知っているんだ)
じっとりとした霧の向こう、二人の間に生まれた絶対的な距離の静寂が、今もずっと、静かに重なり合っている。
