第一話「炭の残り香」
コンクリートの壁に囲まれたワンルームマンションの一室には、五月の生温かい夜気とは明らかに異質な、どろりと重たい「何かが焦げた泥のような空気」が満ち満ちていた。
言埜署の刑事の鼻腔を真っ先に刺したのは、現代の都市生活ではおよそ説明のつかない、鼻の奥がじりじりと灼けるような焦げた土の匂い、そして,吐き気を催すほど濃厚な鉄の錆びた匂いだった。
まだ遺体そのものには触れていないし、目を向けてもいない。だが、刑事としての、いや、ひとりの人間としての生存本能が、この密室の空気に触れた瞬間に警報を鳴らし、「ここは俺たちの知っている現代の戦場じゃない」と、冷や汗混じりに告げていた。
この異様な部屋へ、率先して踏み込んだのは他でもない自分だった。
懐中電灯の細い光の束を、異様な悪臭の源へとゆっくりと這わせていく。ワンルームの奥、不自然にへたり込んだ遺体の口元が光に照らされた瞬間、刑事の心臓が爆発しそうなほど激しく跳ねた。
「………なんだ、これは………」
被害者の割れた唇の間から、現代のロジックをあざ笑うかのように、真っ黒に炭化しているにもかかわらず、なぜか底なしの沼から引き抜かれたばかりのようにジトッと湿り気を帯びた、一本の奇妙なススキの茎が、喉の奥深くへと無理やり詰め込まれていたのだ。
ススキの黒い陰影を見た瞬間、刑事の口の中に、じっとりとした泥の味が広がった。頭痛に似た強烈な眩暈が走り、自分の手が、ライトを握る刑事の手が、微かに震え始めている。
「――その男が最期に浴びせられた屈辱を、言葉にして」
不意に、背後の夕闇と路地裏の境界から、さらりとした黒髪の女が音もなく現場に佇んでいた。
その冷徹で圧倒的に温度の低い瞳は、恐怖に歪む死体の顔を外側から冷ややかに見つめながら、その白い指先には、まだ何も書かれていない一枚の白いお札が、静かに、だが鋭く握り締められていた。
「言葉に、して」女が重ねて、酷く淡々とした声で命じてくる。刑事の脳裏に、強烈な頭痛とともに「泥の記憶」が逆流してきた。
死んだ男の顔。それは、必死に積み上げてきた数字を、現場も見ない上層部に「お前の代わりなどいくらでもいる」と一蹴され、泥水をすすらされた自分自身の、昨日の顔そのものだった。胃が、焼けるように熱い。
――待て。俺は、この男の生前を、何ひとつ聞かされていない。
なのになぜ、会ったこともないこの死体の絶望が、まるで自分自身の記憶のように鮮明に流れ込んでくる。刑事はその違和感ごと抉り開くように、侵食されかけた脳の奥から血の混じった言葉を絞り出した。
「こいつは………!」
「こいつは、見くびられたんだ! 必死に根を張って、積み上げてきたものを、何も見ていない奴らに上から踏みにじられて………! 泥を食わされて、なかったことにされたんだよ………ッ!」
その瞬間、現場の空気がパチリと爆ぜた。刑事の叫びが、この部屋の底で百年待ち続けていた何かに、届いた。
「――通ったわ」
黒髪の女の冷徹な瞳に、一瞬だけ、因果律を見届けた観測者の光が宿る。彼女の白い指先が、虚空に滑るように動き、何もなかった白いお札の上に、墨色の文字が凄まじい速度で紡がれていく。
『踏みしだく 土の底なる 黒鉄の 根に咲く花を 誰か見よとて』
詠み上げられた三十一文字の器が、密室の狂気を強引に包み込んでいく。「あぁ………」という、男のとも、女のともつかぬ百年前の無念の溜息が部屋に響き、次の瞬間、死体の口から突き出ていたススキが、サラサラと崩れてただの乾いた灰へと姿を変えた。
泥の味も、鉄の錆びた匂いも、跡形もなく霧散していく。怪異は、その場所から完全に消えた。
刑事は、激しい呼吸のままへたり込んだ。自分の正気は、かろうじて繋ぎ止められた。
だが、おかしい。部屋の匂いは消え、日常の静寂が戻ったはずなのに。刑事の脳裏には、和歌が響いた瞬間に流れ込んできた「百年前の、誰とも知れぬ人間の凄まじい怒りと、見捨てられた涙の記憶」が、べっとりと張り付いて、どうしても剥がれなくなっていた。
「………おい、待て………お前は一体………」
刑事の問いかけに、黒髪の女は答えない。ただ、役割を終えた観測者の目で刑事を見下ろしたあと、五月の生温かい闇の向こうへ、また音もなく溶けるように消え去っていった。
静まり返った密室で、刑事は自分の震える手を見つめる。事件は終わったはずなのに、俺の現実はもう、二度と元には戻らない。脳の奥で、百年前の誰かの悔し涙が、今もずっと、静かに燃え続けている。
