第二話「鉄の鳴き声」
ガラスとアルミフレームで構成された最先端の高級オフィスには、梅雨時のじっとりとした雨音をすべて吸い殺すような、あまりにも不自然な静寂が横たわっていた。
だが、言埜署の刑事が現場に足を踏み込んだ瞬間、その鼓膜を奇妙な「音」が打った。
チ………。
それは、電子機器の駆動音でも、空調の軋みでもない。硬い金属同士が、目に見えないほど微細に擦れ合って震えているような、酷く硬質で、そして凍りつくほど冷ややかな微振動の音だった。
刑事の脳髄が、一際大きくドクンと脈打った。頭の奥底、あの夜からべっとりと張り付いて剥がれなくなった「百年前の、見くびられた者の熱い悔し涙」の記憶が、その金属音に呼応するようにして、ジリジリと奇妙な痛みを立てて蠢き始める。
何かが、おかしい。脳裏で燃えているあの日の怒りが、この音が響く部屋に入った瞬間、まるで行く手を遮るかのように激しく抵抗し、拒絶のサインを送っているのだ。
懐中電灯の光を、ガラス製のデスクへと向ける。完璧に磨き上げられた天板の上、死体の喉元からは一滴の血も流れていなかった。だが、人形のように綺麗に使い捨てられた死体のすぐ傍らに、不釣り合いな小道具がぽつんと置かれていた。
梅雨の湿気などという生易しいものではない、古い土蔵のカビ臭い風を纏った、真っ赤に錆びついた一枚の古びた和鋏。
チ………、チチ………。誰も触れていないはずのその鉄の塊が、透明なガラスの上で、今も生き物のように微かに震え、鳴いていた。
和鋏の錆びた刃を見つめた瞬間、刑事の脳内に流れ込んできたのは、あの泥の味ではなかった。口の奥がガチガチと震えるほどの、圧倒的な「冷気」だった。内側から侵食してくるその感情の正体に、刑事のセンサーが瞬時に反応する。
(違う。これは、俺の知っているあの熱い怒りじゃない。………もっと、底冷えのするような、自分がただの『道具』として都合よく使い潰されたことへの、救いのない絶望だ)
「――見抜いたのね」
背後の夕闇から、あのさらりとした黒髪の女が、梅雨の湿った影を纏って音もなく現れた。女の冷徹な瞳が、刑事の眼光に一瞬だけ止まった。
彼女の白い指先が、再び何も書かれていない一枚のお札へと伸びる。
「その男が、そして百年前のこの鋏が浴びせられた、冷たい絶望を――さあ、言葉にして」
女の淡々とした、だが拒絶を許さない声が、静まり返ったオフィスに吸い込まれていく。
刑事は口を開いた。喉の奥の、あの夜から脳を灼き続けている百年前の「熱い涙」を火種にして、目の前の死体の無念をまた一気に叫び散らそうとした。
だが――声が出なかった。
「………あ、………っ」
喉が、凍りついたように動かない。肺から押し出される空気は、乾いたかすれた音になって唇の間から漏れ出るだけだった。
おかしい。叫べない。腹の底から湧き上がるはずの怒りのエネルギーが、このガラス天板の上を支配する「冷気」に触れた瞬間、一瞬で凍結して粉々に砕け散っていく。
脳髄が、ガチガチと物理的に震えるような錯覚に襲われる。叫ぶことすら許されない。怒ることすら贅沢だ。ここに転がっている死体、そして百年前の和鋏の底に眠る感情は、「ふざけるな」と拳を突き上げるような熱いものでは到底なかった。
(俺は………最初から、すり減ったら捨てられるだけの、ただの部品だったんだな)
そんな、完全に感情が死に絶えたあとの、白く乾いた諦念が刑事の五臓六腑を浸食していく。声にならない。言葉にならない。ただ、刑事の唇が、音もなく絶望の形に歪み、歯の根がガチガチと鳴る、圧倒的な沈黙だけが現場に満ちていった。
その、叫びよりも重たい沈黙を浴びながら、黒髪の女の冷徹な瞳が、わずかに細められた。
女は刑事の沈黙から、何かを見て取っていた。何も言えない刑事の震えそのものが、この部屋の底で百年待ち続けていた怨念の正体を、外側の観測者へと正確に伝えていたのだ。
女の指先が、今度は一切の間を置かず動いた。
「血の一滴すら流させず、ただ綺麗に使い潰され、放り出された。………その無念の器を、ここに」
女の白い指先が虚空を滑り、まだ何も書かれていない白いお札の上へ、冷徹な因果律を刻む墨文字が、凍りついた静寂を切り裂くようにして、凄まじい速度で紡がれていく。
『すり減りて 用なき鉄の 冷たさは 雨に紛れて 錆びゆくだけか』
詠み上げられた三十一文字の凍りついた器が、ガラス天板の上の狂気を強引に包み込んでいく。「………そう、錆びて消えるだけ………」誰もいないはずの高級オフィスに、百年前の、あるいは現代の被害者のものともつかぬ、乾ききった諦念の溜息が低く響いた。
次の瞬間、ガラスデスクの上で震えていた真っ赤な和鋏は、サラサラと崩れてただの冷たい砂鉄へと姿を変え、オフィスを満たしていた土蔵のカビ臭い湿った風も、跡形もなく消え去った。
刑事は、凍りついた喉を震わせながら、激しい呼吸のままデスクに手を突いた。喉の冷気は引き、声は戻った。自分の正気は、今回もかろうじて繋ぎ止められた。
だが――頭の奥が、あまりにも重い。
剥がれなくなったあの夜の「熱い怒りと涙の地層」の上に、今度は、骨まで凍るような「冷たい自嘲と諦念の地層」が、べっとりと、新しく積み重なって重石のようにのしかかっている。
熱い怒りと、冷たい絶望。全く質の違う二つの百年前の感情が、刑事の脳内で奇妙に混ざり合い、蠢いている。
「おい、待て………俺は、次はどうなる………」
刑事の掠れた問いかけに、黒髪の女はやはり答えない。ただ、役割を終えた観測者の目で刑事の瞳の奥をじっと見つめたあと、梅雨の夜闇の向こうへ、また音もなく溶けるように消え去っていった。
静まり返ったオフィスで、刑事はガラス天板に映る自分の、ひどく憔悴した顔を見つめる。事件は終わった。怪異は消えた。なのに、俺の脳髄は。
(俺の脳は………この街の死者の感情の、ゴミ捨て場になっていくのか)
脳の奥の、暗い地層の底で。熱い涙と、冷たい鉄の鳴き声が、今もずっと、静かに重なり合っている。
