【読後雑記】接続された脳とヘーゲル ― ③主体の限界と言語の限界

要旨:
前二稿では、スラヴォイ・ジジェク『接続された脳とヘーゲル』を手がかりとして、シンギュラリティがなぜ「到達点であると同時に停止点でもある」のかを考察し、さらに現実の人間は本当にその停止点を目指しているのかを検討した。本稿では、そこから少し離れた場所に立ち、別の哲学者との比較を通じてジジェクの問いを眺め直してみたい。その哲学者とはウィトゲンシュタインである。両者は扱う主題も時代背景も大きく異なる。しかし『接続された脳とヘーゲル』を読み終えたとき、そこに残る印象は、ジジェクが主体について行っていることは、ある意味ではウィトゲンシュタインが言語について行ったこととよく似ているのではないか、というものだった。ウィトゲンシュタインが言語の限界を見たように、ジジェクは主体の限界を見たのではないか。そしてその類似は、単なる哲学史上の偶然ではなく、両者が共有する思考の方向性を示しているように思えるのである。
1. 限界を描くという哲学
哲学という営みは、しばしば世界の真理を発見する試みとして理解される。しかし哲学史を振り返ると、むしろ重要な哲学者たちは「どこまでが可能で、どこからが不可能なのか」を描き出すことに力を注いできたようにも見える。カントが純粋理性の限界を問うたのもその一例であり、ウィトゲンシュタインが言語の限界を問うたのもその延長線上に位置づけることができる。
『論理哲学論考』においてウィトゲンシュタインが行ったことは、単なる言語分析ではなかった。彼は言語によって語ることのできる世界の全体像を描き出そうとしたのである。世界とは事実の総体であり、言語とはその事実を写し取る論理像である。もしそうであるならば、世界について語りうることと語りえないことの境界を明確にできるはずである。『論考』全体は、その境界線を描くための壮大な試みとして読むことができる。
しかし興味深いのは、その試みが成功へ近づけば近づくほど、逆説的に限界そのものが浮かび上がることであった。世界について語りうることを徹底的に整理し、論理的に記述可能な領域を明確にすればするほど、その外部に残されるものもまた鮮明になる。倫理や宗教、美や人生の意味といった問題は、論理的記述の対象としては扱えない。しかし、それは重要ではないという意味ではない。むしろウィトゲンシュタインにとっては逆であり、人間にとって最も重要なものだからこそ論理的記述の枠組みからこぼれ落ちるのである。だからこそ彼は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と結論づけた。その言葉は思考停止の宣言ではなく、思考を極限まで推し進めた結果として現れた境界標識だったと言えるだろう。
『接続された脳とヘーゲル』を読むと、この構図を何度も思い出すことになる。なぜならジジェクもまた、ある対象を極限まで押し進めることによって、その限界を描き出そうとしているように見えるからである。ただし、彼が問題にしているのは言語ではない。主体である。
2. ジジェクが見ているもの
前二稿で論じたように、ジジェクの関心はAIの性能やシンギュラリティの実現可能性そのものにはない。彼が問題にしているのは、完全な接続と完全な理解が実現したとき、人間という主体はなお主体であり続けられるのかという問いである。これは未来予測というよりも、主体の成立条件を探るための思考実験である。
もし他者の経験が完全に共有されるならばどうなるのか。もし誤解が完全に解消されるならばどうなるのか。もし自己の内部までもが完全に透明化されるならばどうなるのか。ジジェクはそうした問いを通じて、私たちが当たり前だと思っている主体というものが、実は何によって支えられているのかを明らかにしようとする。
そこで見えてくるのが、前二稿で整理した「広がり」と「深さ」である。私たちは世界との関係において常に未知のものに囲まれている。他者は完全には理解できず、世界は常に解釈の余地を残している。その不完全さがあるからこそ意味が生まれ、対話が生まれ、探究が生まれる。もし全てが既知となり、全てが共有されるならば、一見すると理想的な状態に見えるかもしれない。しかし、その世界では意味を生み出していた差異そのものが失われている可能性がある。そこでは知識が増大していても、世界の広がりは失われているのである。
同じことは自己との関係についても言える。私たちは自分自身についてさえ完全には理解していない。なぜそのように考えるのか、なぜそれを望むのか、なぜその選択をするのか。その問いに最終的な答えを持つ人はいない。しかし、まさにその分からなさこそが自己探究を可能にしている。もし自己が完全に透明化され、自らの欲望や思考や行動の全てが説明可能になるならば、そこには理解は存在するかもしれない。しかし問いは存在しない。問いが存在しないなら探究も存在しない。そこでは自己の深さが失われているのである。
このように考えると、ジジェクが描いているのは主体の完成ではない。むしろ主体の成立条件が失われる地点である。完全な理解と完全な接続は、一見すると主体を強化するように見える。しかし極限まで押し進めると、逆に主体を主体たらしめていた条件そのものを消滅させてしまう。その意味で、ジジェクが描いているのは主体の限界なのである。
3. 言語の限界と主体の限界
ここで改めてウィトゲンシュタインとの比較に戻ってみたい。両者が重ねて見えてしまうのは、結論が似ているからではない。むしろ思考の運動そのものが似ているのである。
『論理哲学論考』においてウィトゲンシュタインは、世界を論理的に整理しようとした。そして整理し切った果てに、言語によって語ることのできない領域へ到達した。そこでは世界の外部を語ろうとすること自体が無意味になる。だから彼は沈黙という結論へ至る。
これに対してジジェクは、主体を成立させている条件を整理しようとする。そして完全な理解と完全な接続という極限状態を想定した結果として、主体そのものが成立しなくなる地点へ到達する。そこでは主体を完成させようとする試みそのものが、主体の消滅を招くことになる。だから彼は立ち止まる。
もちろん両者は同じことを言っているわけではない。しかし、ある概念を最後まで押し進めることによって、その概念が成立しなくなる地点へ到達するという構図は似ているのではないだろうか。ウィトゲンシュタインが言語の限界を見たように、ジジェクは主体の限界を見たのである。
そしてここで興味深いのは、両者が共に全体性の問題に向き合っていることである。『論考』においては、語りうる世界の全体像を描こうとした結果として、語りえぬものが現れる。『接続された脳とヘーゲル』においては、主体を完全に理解しようとした結果として、主体を成立させていた差異や欠如が失われる。全体を描き切ろうとしたとき、限界が現れるのである。

4. しかしウィトゲンシュタインはそこで終わらなかった
ただし、ここから両者の違いが見えてくる。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を書いた後、その立場を大きく転換した。後期ウィトゲンシュタインが関心を寄せたのは、言語の限界そのものではなく、その限界の内部で営まれている日常的な言語活動だった。
私たちは完全な定義を持たないまま言葉を使っている。意味は固定されず、誤解は絶えず発生し、例外はいくらでも存在する。それにもかかわらず、言語は機能している。後期ウィトゲンシュタインが注目したのは、この「それにもかかわらず」であった。言語は不完全でありながら成立している。基礎づけは不可能でありながら、人々は理解し合っている。だから彼の関心は限界そのものから、限界の中で営まれる実践へと移っていったのである。
かつてウィトゲンシュタイン連載の中で、これを「論理空間からザラザラした地面への着地」と表現した。『論考』が極限状態を描く哲学だとすれば、『探究』はその極限状態から現実へ戻る哲学である。
ここで改めてジジェクを見ると、一つの問いが残る。もし彼が主体の限界を描いたのだとすれば、その後はどうなるのだろうか。停止点を見た後で、人間はどのように生きるのだろうか。主体が完全には理解できず、欠如が消えず、差異が不可避であることが分かった後で、私たちは何を考えるべきなのだろうか。

おわりに
前稿で論じたように、人間が本当に停止点を目指しているとは思わない。私たちは不老不死を求めているというより、少しでも長く生きたいだけなのかもしれない。全知を求めているというより、知り続けたいだけなのかもしれない。完全な理解を求めているというより、理解へ近づき続けたいだけなのかもしれない。
だからこそ、ジジェクが示した停止点は未来予測というよりも、人間という存在を理解するための哲学的境界標識として読むべきなのだろう。そして、その意味で彼はウィトゲンシュタインとよく似ている。ウィトゲンシュタインが言語の限界を見たように、ジジェクは主体の限界を見た。両者は異なる対象を扱いながらも、全体を描き切ろうとした果てに限界へ到達した哲学者なのである。

しかし同時に、もう一つの問いを残したい。ウィトゲンシュタインは言語の限界を見た後、その限界の内部へ戻り、『哲学探究』へと向かった。では、もしジジェクが同じように主体の限界の内部へ戻るならば、その哲学はどのような姿を取るのだろうか。
ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「語りえぬもの」を示し、その後にザラザラした地面へ降り立ったように、ジジェクは「まとまりえぬもの」を示し、その地点へ至る前に立ち止まることを促しているように見える。もし彼がその先へ進むならば、そこにはどのような哲学が待っているのだろうか。『接続された脳とヘーゲル』はハエ取り瓶のガラス壁を鮮やかに示してみせる。しかし、その瓶の外へ出る方法まで教えてくれているのだろうか。その問いは、なお開かれたまま残されているように思える。
