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【読後雑記】接続された脳とヘーゲル ― ②停止点を目指す?

要旨:
前稿では、スラヴォイ・ジジェク『接続された脳とヘーゲル』を手がかりとして、シンギュラリティの極限状態がなぜ「到達点であると同時に停止点でもある」のかを考察した。完全な接続と完全な理解が実現した世界では、世界との関係において意味の広がりが失われ、自己との関係において問いの深さが失われる。その結果として現れるのは、広がりと深さを喪失した主体であった。しかし、ここで注意しなければならないのは、ジジェク自身が繰り返し強調しているように、本書が論じているのは未来予測ではなく哲学的な極限状態だということである。本稿では、その極限状態を踏まえた上で、現実の人間は本当にそのような停止点を目指しているのかを考えてみたい。


1. 哲学的極限と現実の欲望

前稿で扱ったジジェクの議論は、ある意味では非常に説得的である。もし全ての情報が共有され、全ての誤解が解消され、全ての主体が相互に透明な存在になるならば、そこでは確かに意味の生成も自己探究も成立しなくなるだろう。主体とは欠如によって成立する存在であり、その欠如が完全に埋められた世界では主体そのものが変質する。少なくとも哲学的な思考実験としては、その結論に大きな違和感はない。


しかし同時に、どこか腑に落ちない感覚が残るのも事実である。

その違和感は、おそらくジジェクの議論が間違っているからではない。むしろ、ジジェクが意図的に切り離しているものがあるからだろう。それは現実の人間が抱いている欲望そのものである。

ジジェクが問題にしているのは、シンギュラリティという概念を最後まで押し進めた時に何が起きるのかという問いである。しかし私たちは本当にその終着点を目指しているのだろうか。あるいは、私たちが望んでいるのはそこへ至る運動そのものであって、完成状態そのものではないのだろうか。

この違いは些細なようでいて、本稿全体の出発点となる。


2. 死を克服したいことと、不老不死になりたいことは同じなのか

この問題を考える上で、もっとも分かりやすいのは「死」である。

人類の歴史は死との戦いの歴史でもあった。感染症を克服し、外科医療を発展させ、栄養状態を改善し、平均寿命を伸ばしてきた。現在もなお、多くの研究者が老化のメカニズムを解明しようとしている。そうした努力によって救われた命は数え切れないほど存在する。

この営みそのものを否定する人はほとんどいないだろう。
しかし、そのことと「不老不死を望むこと」は本当に同じなのだろうか。

病気で死にたくないという願いは理解できる。事故で死にたくないという願いも理解できる。家族や友人と少しでも長く生きたいと思うことも自然な感情である。しかし、その延長線上に永遠の生命があるのかと言われると、どこか奇妙な感覚が残る。

そこには量的な差ではなく、質的な飛躍が存在しているように思われる。

死を遠ざけたいという欲望は、現在抱えている制約を少しでも改善したいという欲望である。しかし不老不死とは、人間という存在そのものを書き換えることである。両者の間には連続性も存在するが、同時に断絶も存在する。

だからこそ、ジジェクの議論に対して違和感を覚えるのである。

彼が描く極限状態は確かに論理的な帰結かもしれない。しかし現実の人間は、そこまで一直線に進んでいるのだろうか。私たちは不老不死を欲望しているのではなく、ただ今より少し長く生きたいだけなのかもしれない。

もしそうであるならば、改善への欲望と完成への欲望は同じものではない。そして、この区別はシンギュラリティ論を考える上でも重要な意味を持つ。


3. 全知を望むことと、知り続けたいことは同じなのか

同じことは知識についても言える。

私たちは知りたいと思う。本を読む。学問をする。研究をする。分からないことがあれば調べる。こうした行為の背後には知識への欲望が存在している。

しかし、その欲望は本当に全知への欲望なのだろうか。

考えてみれば、私たちが読書や研究に魅力を感じるのは、まだ知らないことが存在するからである。もし最初から全てを知っているならば、本を読む意味はない。研究をする意味もない。哲学も科学も成立しない。

もちろん、誰もが知識を求めている。しかしそれは「全てを知りたい」という意味ではないように思われる。

むしろ私たちが求めているのは、「知り続けたい」という状態なのではないだろうか。

この違いは決定的である。


4. 全知とは到達点である。しかし知り続けることは運動である。

前稿で論じたように、世界の広がりとは未知の存在によって支えられていた。世界が広がりを持つのは、まだ見ぬものが存在するからである。もし未知が完全に消滅するならば、その広がりもまた失われる。

しかし現実の人間は未知を消し去りたいのではなく、未知へ向かい続けたいだけなのかもしれない。

もしそうであるならば、ジジェクが描く停止点は、人類の欲望そのものではなく、人類の欲望を極限まで抽象化した時に現れる思考上の極限として理解するべきだろう。

欠如は消えるのか、それとも更新されるのか

ここで改めて歴史を振り返ってみると、人類はこれまで欠如を消し去ってきたというよりも、欠如を更新してきたように見える。

移動が困難だった時代には、遠くへ行けないことが問題だった。しかし交通手段が発達すると、今度は移動時間の短縮が問題になった。通信が困難だった時代には、情報が届かないことが問題だった。しかしインターネットが普及すると、今度は情報過多が問題になった。ある問題が解決されるたびに、新しい問題が生まれている。

欠如は消えていない。
形を変えているのである。

この事実は、シンギュラリティ論を考える上で示唆的である。私たちは欠如なき世界へ向かっているのではなく、新しい欠如を生み出し続けているのかもしれない。

もしそうであるならば、ジジェクが描く停止点は、人類の現実的な未来というよりも、むしろ人間という存在を理解するための哲学的な鏡として読むべきだろう。彼が示しているのは未来ではなく、主体の条件なのである。


5. 人は完成を欲望しているのか

こうして見ると、前稿と本稿は対立しているわけではない。前稿では、完成された世界が主体の停止をもたらす可能性を論じた。本稿では、その完成状態を人間が本当に欲望しているのかを問うた。

おそらく重要なのは、そのどちらかを選ぶことではない。

ジジェクの問いが鋭いのは、完成という理念を最後まで押し進めた時に何が起きるのかを示しているからである。しかし同時に、現実の人間は完成そのものを求めているわけではないようにも見える。

私たちは病気をなくしたいが、不老不死を望んでいるわけではない。私たちは知識を求めるが、全知を望んでいるわけではない。私たちは他者と理解し合いたいが、完全な同一性を望んでいるわけではない。

だとすれば、人間が欲望しているのは完成ではなく運動なのかもしれない。

そしてもしそうであるならば、前稿で論じた停止点は、人類の未来予測ではなく、人間が決して到達できない地平線として理解するべきなのだろう。

ジジェクはその地平線を示した。しかし、現実の人間はそこへ向かっているのではなく、その手前で新たな広がりと深さを見出し続けているのかもしれないのである。

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