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ずっと寂しくない豚


怠惰を求めて勤勉に行き着く。
人類がもつ技術発展への動機は、楽をすることだと思う。

車、スマートフォン、AI

人間は楽に移動するべく、
楽に誰かと繋がるべく、
楽に仕事をこなすべく、
日々、可能性を広げている。

昨日の技術が今日には古くなる程、加速度的に進歩する技術のおかげで、私たちの生活は豊かになっていっている(はず)だが、

それに比例して私たち人間は進歩しているのだろうか。

知性、感性、人間性

過去の人間よりも、優れているのだろうか。



技術発展の副産物のひとつに、ネットアンチという問題がある。

あらゆるソーシャルメディアで、日々圧倒的乱雑に放たれるアンチコメントは、僕たちラグビー選手にとっても隣人同様の距離感だ。

自分の知っている選手が、顔の見えない(実在するかも定かでない)誰かに批判されているのも、ほんの日常の光景に過ぎなくなっている。
自分だって例外ではない。

僕の生まれて初めてのアンチコメントは、高校三年生の時に送られた。


高校三年生、最後の花園。準決勝。大阪桐蔭戦。

ラストワンプレーの中、自陣からピックアンドゴーでフェイズを重ねた。

ワントライで同点に追いつける。キックが決まれば逆転勝利だった。

トライラインまで、あと5メートル。
気がつくとラックからボールが顔を出していた。頭からDFラインに身体を押し込もうと、ボールを掴もうとした刹那、コンマの誤差で、相手の方が早くオフサイドラインを超えて雪崩れ込んできた。

ペナルティーの長さで笛が鳴る。

相手のオフサイドだと確信して顔を上げると、なぜかレフリーの手は相手側に挙げられ、ノットリリースと宣言された。

ここまでは主観の話でしかないので、実際の真偽の程は分からない。

ただ、自分のラグビー人生で、あの時ほどレフリーに反抗したことはない。
どれほど喚こうが自分の反則が取消しになることは無く、理不尽さに対する憤りと、自分の失態を直視しなければならない恐怖から、レフリーに食ってかかってしまった。

翌日、僕たちは新幹線で神奈川に帰った。

引きずる後悔と逃避。物足りなさ、静かな虚無。三年分の開放感と、待ち構える緊張感を一緒くたにして、2ヶ月ほどの引退生活を謳歌した。

そんなある日、同期の一人がニヤニヤしながら近づいてきた。おもむろにスマホの画面を見せてくる。

画面には匿名掲示板の神奈川県高校ラグビーのスレッドが映し出されていて、そこには桐蔭対大阪桐蔭の試合内容について意見?が交わされていた。

「ここみて!ここ!」

口角を限界まで吊り上げ、目尻を限界まで垂れ下げたチームメイトが指した箇所にはこう書かれていた。

「1番の豚はラグビーやめろ」

僕が試合のラストでレフリーに反抗していたのが、強く指摘されていたようだった。

悲しい、傷つく、虚しい
そんな感情はなく、ただただ感嘆したのを覚えている。

当時僕らは18歳。
可能性は0ではないが、ラグビーをやってる同年代が書き込んでいる姿はあまり想像できなかった。

それよりも現実的なのは、
おおよそ自分たちより二回り以上の大人が、
画面越しの見えないところから、
18歳の子供に対して、
自分の言いたいことを何の着色もせずそのままネットに落としている事実で、そのことが18歳の僕にはひどく興味深かった。

それまでの僕が知っている大人は、
親、親戚、親の友達、学校の先生、部活の監督コーチ、友達の親御さん。

彼らは基本優しく、温もりをもって接してくれていた。

間接的ではあるが、初めて温度のない人間と対峙した時、僕の世界はあきらかに広がった。

世の中にはこんな大人がいることを、
自分が想像もできなかった人間がいることを、
それはつまり、自分の想像力の稚拙さの証明で、これからも沢山そんな出会いがあるのだと、身をもって知ることができた。

スマホの画面を見せつけてくるチームメイトと周りを囲む奴らは、僕のほえーなんて気の抜けた反応を見てゲラゲラ笑ってやがる。


それからも僕は「1番の豚」を度々耳にすることになる。

でも、顔の知らない人から言われたのはその一度きりで、それ以降ことあるごとに、野郎ども(チームメイト)がミーム化して使ってくるのだ。

行け一番の豚!走れ1番の豚!歩くな1番の豚!

社会人になった今でも、試合後にLINEでメッセージをくれるバカども。
愛すべきバカども。


アンチコメントは現代人のウイルスだと思う。

みんなが被害者になり得るし、みんなが加害者になり得る。

顔も身体も、存在すら感知できない場所から、いろんな形の石が投擲される。

僕はその石を拾って仲間内に見せる。

こんな石がありました。大きすぎです。重すぎです。尖りすぎです。なんか湿ってねばついてます。センスを疑う配色ですね。これは石だけど磨けば光りそうです。こっちはもう石ってより糞。

そして仲間達はその石を、当たっても痛くない柔らかい素材でできたレプリカにして、面と向かって投げつけてくるのだ。

その刺激は心地よく、元の石の悪意を忘れさせてくれる。

十人十色の世界で、僕らが傷つけ合わず分かり合えることはできない。
自分の常識を優に超える存在が、価値観が、世界が、互いに傷つけ合っている。

だからこそ、

必要なのは、自分一人では生きてはいけないことを知ること。
そして投げられた石を批評し合える存在だ。

それこそが最も有効なワクチンになる。


思えば小さい時からラグビーで繋がった友達に囲まれてきた。

これまでの自分の人生は、
基本的に毎日楽しいけど、時々急に足場がなくなって、際限なく落下することがあった。

その度に彼らは、落下し続ける僕を、
掴んで離さなかったり、一緒に落ちてくれたり、もがいてくれたり、落ちていく僕を隣で静かに見ててくれた。

そんな存在があったから、
こうしてラグビーが続けられているのだと思う。

みんなそれぞれステージが変わって、
価値観とか考え方、優先順位だったり、趣味とか好きなものですらほんのちょっとずつ変わっていって、それは自分だって絶えず変化していくことだから、倍のスピードで心地いい距離が離れていくこともある。

それでも、あの瞬間の僕たちは確かに存在していて、いくら時が過ぎ去ろうが、この世で数少ない永遠のひとつなんだと思う。


人類は、発展している。
より快適な生活を目指して、加速度的に進歩している。

その上で起こる副次的な被害から身を守る術は、案外、人類史初期から変化していないのかもしれない。


「友達」よりは大雑把ではなく、「家族」より束縛的ではない。丁度中間ってよりも、若干のウェイトを乗せて、そんな言葉で囲いたくなるような人たちに



感謝を。

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