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小説の教室 谷崎、川端、そして津原泰水

小説の書き方の本は数多く存在している。

然し、そんな本たち、を、読んでも、小説を書くのは上達しない。参考程度ならわかるが、基本的には、小説とは、文章力とは、持って生まれたセンスであって、そこから語彙や知識などを地道に身に着けていく他無く、何よりも、小説のお手本は小説であって、小説をよく読み、よく書くこと、が、重要なことだ。なぜなら、小説は生理現象であるから。
つまりは、真似したいほどの作家を見つけることが、まずは重要なことだ。そこから、書く日々が始まる。

『バガボンド』において、まぁ、19巻、くらいの話、だが、関ヶ原で、伊藤一刀斎と佐々木小次郎、そして夢想権之助、この3名が、大阪方の残党狩りの野武士や農民に山中で追われる展開がある。ここで、齢17歳の小次郎が、最強の一刀斎に置き去りにされて、その中で、四六時中、自分の生命を狙ってくる人間数十名と殺し合いを重ねていく。まぁ、これは、武蔵の吉岡一門七十余名斬りの小次郎版だが、その中で、とにかく戦いまくって、最強最速の剣を獲得していく。つまりは、文章も、書いて書いて書きまくることでしか、劇的な成長は見込めないのだ(強引)。一刀斎は教えるのが苦手だ。だから、こう言うわけだ。

つまり、いつだって、こう、匠、の、技は、盗むしかないのだ。模倣、真似、それがこそ、それを掴むための必定の条件なのだ。

で、そういいながらも、買っちゃった。のは、津原泰水だから。

津原泰水は小説の書き方の指導の講座などを開いていましたね。

文章読本、と、いえば、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、などが並んでいる。それぞれがそれぞれに思う文章に対してのことを書いている、の、であろうけれども、私は、三島由紀夫さんのは読んでいない。

要は、『文章読本』と書いてあれば、その作家の極意がそこに秘められている、そんな気がするのだ。然し、まぁ、実際に書いてあるのだろうけれども、結局、読み手がそれをスルーする、ということがある。読み手は、特効薬が欲しいわけだ。読めば一気に文章が巧くなる、乃至は、読めば勇気や啓示、的なものを授けられる、ある種の自己啓発。

谷崎は、文章を声に出して読むこと、音読することの重要性を説いていた。文章はリズムであること、この重要性。音読は非常に有効で、読むことで、文章が滑らかか、引っ掛かりがあるか、など、耳で聞いて理解できるので、美しいかそうでないかがすぐにわかる。

これは、谷崎的だと思う。30代後半から古典回帰して、『源氏物語』に耽溺した谷崎さんは、今様いまよう源氏物語として、『細雪』を書いた。

悪魔派の頃の谷崎さんは、こう、モダンで、デカダンな、そんな文章、すじ、を、重要していて、その中に偏愛が込められていたが、段々と、日本的な、古典の文章に立ち戻っていく。ほぼひらがなで構成された『芦刈』や句読点の極端に少ない、吟じるかのような文体の『春琴抄』、語りかけるようにつらつらと物語られる『盲目物語』、様々な文体を駆使して、作品ごとに実験を積み重ね、そこからの『源氏物語』の翻訳、そうして、いよいよの『細雪』。

『細雪』が日本文学で最高峰の作品であるのは、今様の『源氏物語』であり、そこに滅びゆく美しきものへの哀切が込められている日常系小説、であるからだが、書き出しの、「こいさん、頼むわ。」の一文は、簡単に出た文章ではないのだ。一朝一夕ではなく、天才が、自らの生活をも藝術化して、そして、十年以上の文章への飽くなき研鑽と、リズムの体得を持ってして、ようやく完成した「こいさん、頼むわ」、からの、美しき文章藝術なのだ。

『細雪』は長い。長い、が、あの長さは必要な長さなのである。

文章とは、最適な語り口、最適な長さ・短さ、そして、文体が存在する。つまり、文体を変えることは、作品の生命を掘り出すことであり、それを谷崎さんはされている。文体を変えない、と、いうことは、強烈な思想に支配されているか、もしくは、物語の肉付きだけを手を変え品を変えて提出している、それだけなのだ。

そういえば、『源氏物語』と、いえば、今年、京都、来年、東京で、大規模な源氏物語画帖の特別展があるそうで。京都は50年ぶり、東京は初!う、嬉しい……!!いつだって、東京に負けてきた。今は、こう、心から、東京に先んじての喜びがある。

で、私の好きな康成さん、YASUNARIさん、だが、康成さんは、こう、文章が短い。一文が短く、語彙力に乏しい。の、だが、然し、その、語彙力に乏しい、その一文が、流れ星のようにきらきらとしている。水滴を浮かべた紫陽花のように、美しいのである。


これは、もう、感覚派、新感覚派、そんな感じで、こう、どのような言葉が美しく、どう配置すればそれがきらめくのか理解している、センスの鬼なのだ。

康成さんは、女性が好きでー、いや、女性の書く文章が好きで、女性の書く綴方つづりかたを評価するのが大好きな変態だった。恐らく、その読んできた大量の綴方からネタを拝借しているのではないかと思ったりもするが(代作も多いし)、市井の人が、感じたこと、見たこと、それを生のママに書く文章に殊更思い入れがあり、それこそが、康成さんにとっての文章藝術のようで、康成さん、こう、全集には、この綴方へのレビュー、つーか、指摘や批評がたっぷり掲載されているのですが、これをこそ、康成さんの『文章読本』として出したほうが余程良いのではないか。

で、話を津原泰水さんに戻すと、私は、一度津原泰水さんの文章講座を聞いたことがあって、その時、確か、どういう風に物語を終わらせるのが良いでしょうか?という質問をされた方がいた。

その時、津原さんは、書いていて、あ、終わるな、と、思った時に、物語はふっと幕を閉じるのだと、そう言っていた。

その感覚はわかる気がする。物語は、時としてプロットを裏切ることすらある。ガチガチに固めたプロット藝術もあるだろうが、私は、幻想の中にそのまま吸い込まれて来てしまうような、ろうそくを吹き消したあとの暗闇のような、そんな津原泰水さんの小説が好きだった。


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