女装・男装 漫画家、小説家、芸術家
まだアニメ化されていない漫画で、有名な作品に、『ミントな僕ら』と、いう少女漫画があって、世代は、80年代〜90年代生まれの方、が該当するだろうが、吉住渉先生の、女装漫画である。
吉住渉先生、と、いえば、『ママレード・ボーイ』、や、『ハンサムな彼女』などが代表作、で、あるが、先生は、筑波大付属中学・高校卒業の一橋大学卒、と、いう、超高学歴漫画家でもある。
筑波大付属中学、と、いえば、共学の国立校で、と、私立男子御三家の開成中学校、武蔵高等学校中学校、麻布中学校、私立女子御三家の桜蔭中学校、雙葉中学校、女子学院中学校、これらと並び立つような、大変な難関校だ。
まぁそんなことはどうでもいい。いや、どうでも良くはないが、然し、この『ミントな僕ら』は、なかなかに珍しい女装潜入もの、で、あり、男装の令嬢、男装して男子校に潜入するー、そんな漫画の逆、で、あるが、然し、けれども、男装の令嬢は、まぁまだバレない可能性がある、いや、極めて難しく、99%バレると思うが、然し、女性の令息は直ぐ様にバレるだろう。
主人公の双子の姉弟、まりあとのえる、クリスマス絡みの名前だが、この、のえるが姉離れ出来ておらず、姉が初恋の相手を追って入学した学校に編入する。女子寮しか空いていないため、女子として入るのだが、それを、理事長は面白いからと、両親は「のえるは言い出したら聞かないからなあ。」と、許す。
完全に狂っているのだが、然し、そんなこんなで、のえるは鬘を被って、姉と瓜二つの妹として、学園生活を送る。
『ママレード・ボーイ』もそうだけれども、そんなこと、普通は思いついても漫画にしないだろう。いや、無理があるよな……ええい!ままよ!ってな感じで、完全に犯罪であるが、然し、けれども、イヤラシイことはなにもないのだ。と、思ったら、即、同室になったクールビューティーの不良系、牧村未有ちゃん(ちょっと綾波レイに似てるんだよね、系統が。連載が1997年からだから。90年代くらいの、冷めた系の)が着替えをして焦るシーンがある。然し、生々しさはない。何故だろうか。恐らく、男性がこのようなシーンを描くと、性的なボルテージがはち切れて、紙面全体に湿り気が増すのだろうが、そのような邪な視線がないため、これ以上無く、こう、爽やかさすら感じる。
これは、男性の描く潜入は梅雨、で、あり、女性の描く潜入は夕立の後、くらいの、違いがある。男は基本的に、陰湿だ。
で、そんな漫画、とても楽しい漫画、なのだが、最近、私は、昔のマニア雑誌の『奇譚クラブ』、『風俗草紙』、など、『ミントな僕ら』の読者層とは一切の縁がないであろう、昭和時代の変態雑誌の絵師たちの本を楽しく読んでいたのだが、そこには、雑誌の性質上、変名で書く、或いは描く、そして、マニアたちを喜ばせるため、緊縛絵や拷問絵などを描く絵師たちが、女性名義で発表する、と、いう、つーか、もう、実は、女性名の作家、ほぼ9割はおっさんが描いている、と、いう現実が赤裸々に綴られていた。
そして、その絵師たちには真面目な方が多く、縄などで縛られた女性を見たことがない、そう編集者に恥ずかしそうに告げる、編集者は、それなら見せたる!と、女性の緊縛シーンを実際に見せる、すると、絵師はめちゃくちゃ赤くなって、もう見てるだけで恥ずかしくて恥ずかしくて……スケッチする手が震えだす…。
妄想逞しく描かれた絵に興奮している側が実際にそういうこと(生身の女性を縛る)をやっているのに、そんな絵を描くくせに、絵師側は初心(縛られているのは観たことがなく、あくまで妄想して描いている)、と、いう、そんな倒錯が語られていた。
まぁ、なんでもそうだ。基本的に、モテる人間には想像力がなく、もてない人間こそが藝術家として最高の花を咲かせる。そこには渇望があるからだ。女体、或いは、男性の肉体への焦がれがあるからだ。
全然話は違うが、こういう絵も、ロープ、縄、にフェティッシュを感じるか感じないか、それは絵を見たらわかる、フェティッシュがない人に、俺の作品の挿絵を描いてほしくないんや!的な話があり、やはり、人間、拘ることが大事だ。見る人はわかるものだ。その絵が、その漫画が、その話が、あんたが本当に描きたいものなのか?と、いうことを。
で、その女性名の作家がたまたまあの緊縛絵の先生ということを識り、がっかりする人が出てくる。えー、識らなきゃ良かったよぉ、的な。それは、三島の由紀夫も言っていた、の、だが、稲垣足穂について、「ぼかぁ、彼には会いたくないんだ。」と、タルホを美化していて、彼の書く作品は美少年でなければ、白皙の美少年でなければならない、と。まぁ、確かに、タルホは入道的であり、禿げ頭のごつい眼鏡親父、で、あり、あれが出てきたら腰を抜かすだろう。然し、若い頃は美青年なのだ……。
いや、男性、多くのおっさん、と、いうのは、若い頃は可愛い顔してたり、精悍なものだ。若いだけで、カッコいいのだ。
で、まぁ、漫画とか、小説、とかでもそうだけれども、少女や女性を対象にした雑誌などでは、男性作家が女性名で書く(描く)ことがままあり、逆も然りで、特に、少年漫画誌、などでは、女性漫画家、が、男性作者の名前で描くことも多い。それは、今では異なるが、やはり、女性名だと読まれない、舐められるから、という、そんな理由があったそうだ。
男性でも、女性でも、どちらの性別でも、面白ければ良い、と、いうのは前提としてあるが、然し、この性差、女性が男性漫画、少年漫画、少年小説を描くことと、男性が女性漫画、少女漫画、少女小説を描くこと、と、いうのは、その性差から来るマンガ表現、育ってきた環境の違いで、共に、男装漫画、女装漫画としての表現が生まれいづるわけで、この違いこそが本質を炙り出す重要な要素なのだ。
心理学者の渡辺恒夫氏の『トランスジェンダーの文化:異世界へ逆境する知』、この名著に、漫画、幻想文学、それぞれに関しての含蓄の深い論考が展開されている。その中で、渡辺氏が1980年代から、常に転生にまつわる漫画を推して来たことに合わせて、その中に、『超人ロック』がベスト漫画5に選んでいる。
『超人ロック』の作者の聖悠紀先生が同人誌の肉筆回覧誌において、『超人ロック』の第1話である『ニンバスと負の世界』においてのデビューの後、プロとしては22歳で少女漫画としてデビューしたことに触れている。美少年には宇宙が似合う、と、して、竹宮惠子や萩尾望都などの女性漫画家に並んだ女装漫画家として、高く評価されていた。
私個人としては『超人ロック』はそんなに好きではなく、全部読んでいないのでなんともいえないが、然し、絵の美しさ、線の美しさは氏の仰るとおり、まさしく少女漫画の匂いがある。
まぁ、『超人ロック』は、シリーズが多すぎるため、初見殺しなのだ……。
また、氏の好きな漫画作品に、和田慎二の『ピグマリオ』がある。和田慎二もまた女性誌をメインに少女漫画、『スケバン刑事』など描き続けてきた御大、ヒゲクマのおじさん的なビジュアル、で、あるし、それを隠そうともしていないが、メルヘンの世界を描き続けていた。ある種の女装漫画家である。
魔夜峰央も、作風やペンネームから、女性だと思っている人が多い、彼も同様に、女装漫画家として括っている。ちなみに、『パタリロ!』はまだ連載しており、最新104巻まで出ている。恐らく、全巻読んでいる読者はなかなかいないだろう。
私の大好きな津原泰水はデビュー当時は少女小説を書いていて、津原やすみ、と、いう、女性に思われそうな筆名を用いていた。津原やすみも、女性だと思われる可能性も残すように、と、編集側からの依頼でその筆名にしている。そして、その後も女性を主人公として多くの作品を書き続ける。
女装が好き、と、いうよりも、女性の書いた文章が好き、なのがYASUNARI、で、あり、YASUNARIは、常に、女性心理を追って作品を書き続け、然し、女性が主役の作品、少女小説の『乙女の港』や『東京の人』、などは代作、で、あり、そもそも変装野郎だったのかもしれない。
少女小説、少女漫画を描く男性作家は、ロマンチストであり、文章が妙なる音色が響くように美しい。
女性が描く少年漫画の男性たちは男性から見るとあり得ないような友情表現を見せるが、然し、そこに見える心理描写の繊細さは見事なもので、これもまた、一つの花を咲かせている。
女性が描く男性向けの漫画、男性が描く女性向けの漫画、それは作品そのものが両性具有として存在し、そして、その偽装するような形質が、異性への憧憬とも相まって、図らずも異性の美しさの本質に触れていることがある。
それは、その異性が自分では気づいていない、自分の美しさそのものだ。人は、自分の美しさを自分で識ることは出来ないのだ。
