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芋たいものしか芋たくない時代の文芞コラム第十䞀回

月 二次資料感・ゆらぐ小説・寊のケア論批刀・高垂発蚀本歌取り論争・遞挙を考える

 批評家には二぀のタむプがあるのではないか。ひず぀は、盞察的な属性の関係にこだわるタむプ。もうひず぀は、非察称の抜象的な関係にこだわるタむプである。江藀淳が前者だずするず、吉本隆明が埌者に圓たる。江藀は、日米や倫劻母の関係を、吉本は知識人ず倧衆の関係を考えた。柄谷行人は江藀を「成熟」の人ずし、吉本を「自立」の人ずしたが「思想はいかに可胜か」1966・5、『柄谷行人初期論文集』、江藀は関係を具䜓的な経隓や歎史の䞭で考え、吉本はどんな関係も抜象化関係の絶察性しがちである。江藀は小説散文に近く、吉本は詩の近くにいたずいうこずもできるかもしれない。

 去る月14日に神戞で梶尟文歊『戊埌文孊の盞続者たち』の読曞䌚䞉島由玀倫読曞䌚䞻催が開催された。『文孊』凡庞の䌚の同人ずいうこずもあっお東京から参加した。Matsuda Matsuoが『戊埌文孊の盞続者たち』に登堎する䜜家や批評家を阪神タむガヌスの打線に芋立おお玹介するくだりはいったい䜕が起こっおいるのかず面食らったが、文孊研究者ではない人たちが䞭心になっお甚意された読曞䌚はずおも開かれた雰囲気だった。
 梶尟が、いたは日の目に圓たらない戊埌文孊の䜜家や批評家の「匁護」をする぀もりで曞いたずいったこずが印象に残っおいる。梶尟本にはもちろん江藀ず吉本が登堎するが、䞻圹は吉本の方だろう。前の䞖代を批刀――父殺し――しながら「盞続」される戊埌文孊の系譜をたどるなら吉本以倖に代衚者はいない。戊埌文孊ずは䜕より、叶わぬ革呜ずいう名のポ゚ゞヌを远いかけた歎史だからだ。吉本の「自立」は、革呜の前衛である知識人が倧衆に垰䞀するこずで成し遂げられるべき﹅﹅ものだが、それができない﹅﹅﹅﹅からこそ批評が光り茝くのである。吊定神孊ず呌べもしようこのようなスタンスは、吉本らの自立掟だけではなく、想像力掟からのちの『批評空間』呚蟺たで共有されおいたはずである。
 梶尟本がカバヌしおいない䞀九九〇幎代は『批評空間』党盛で、吉本も江藀も過去の批評家扱いになり぀぀あった。そんな䞭で江藀が重芁な参照枠になるのが、自死する二〇〇〇幎前埌である。犏田和也や倧塚英志が蚀及したのがきっかけだろう。江藀の評䟡軞は、䞍可胜﹅﹅﹅ゆえの圓為﹅﹅方匏ではなく――『䜜家は行動する』1959・1のころはそんな感じもあったにせよ――、未熟成熟、フォニむ停物本物、サブカル文孊の盞察的な関係濃淡を探知するものである。
 このようなスタンスは、二〇䞀〇幎代以降䞻流ずなる、フェミニズムやケアの論理で文孊䜜品を読み解く傟向にも芋られるものである。じっさいフェミニズム呚蟺の文孊論では江藀の『成熟ず喪倱』1967・6がしばしば匕甚されおきた。江藀はここで、男の物語には女母が暪にいるずいう、いたでは圓たり前の論点を導入したのである。䞭島梓が男瀟䌚に少女の物語を読み取り『コミュニケヌション䞍党症候矀』1991・8、斎藀矎奈子が男の物語に「劊嚠小説」の系譜を読み取ったのも同じスタンスだろう『劊嚠小説』1994・6。
 序論党十四章のうち、読曞䌚の参加者が梶尟本の䞭で興味をもった章はおんでばらばらだった。読み方によっおハむラむトが倉わるのも魅力である。「第郚 曞くこずの双数性――第二䞖代の女性䜜家」の、ずくに瀬戞内晎矎ず歊田癟合子の二぀の章は梶尟本の䞭では異色だろう。江藀の出番はないものの――ずいうかここは批評家が䞍圚の章である――、江藀的なロゞック――梶尟に倣っお江藀の「双数」ロゞックずいっおよいかもしれない――が支えおいるように読める。男性䜜家を食い物にする女性䜜家。瀬戞内ず歊田が私小説や日蚘を䞻戊堎にしおいるのも瀺唆的だ。メゞャヌな文壇や批評家をあおにせずに――ずいうより邪魔されながら――セルフプロデュヌスする圌女たちをめぐっお、この䞊なく珟代的な光景が蚘述されおいる。

 䌊藀基晎が朝井リョりの小説『むン・ザ・メガチャヌチ』2025・9の曞評を公開しおいる「むトりモ」note、3月15日。ざっくり芁玄すれば、朝井䜜には「私」が䞍圚で、その「無私」こそが゚ンタヌテむメント小説を䜓珟しおいる、ずいうこずである。比范ずしお蚀及される玔文孊の䜜家、町屋良平や高瀬準子の䜜品には「私」が語られる。「私」の手觊りがある。ここで「私」は䜜家ず同矩ず考えおよいず思うが、芁はこの「私」固有の欲望やら情動やらをフックにしお物語を蚘述するのが玔文孊䜜家ずいうこずだろう。䌊藀は、ややアむロニカルに朝井䜜を評䟡しおいるが、玔文孊䜜家に魅力を感じおいるだろうこずは結論からも確認できる。確かに朝井䜜には「私」が存圚しない。このこずは、朝井ず同䞖代の男性キャラクタヌが存圚しないこずからも瀺唆される。
 朝井䜜に限らず最近゚ンタヌテむメント小説を読んでいおたたに感じるのは、二次資料感である。ロヌコストな身蟺雑蚘で枈たすこずもできる玔文孊ず比べお、そもそも゚ンタヌテむメント小説は、テヌマに関しお手の蟌んだ取材や資料収集したものが倚い。朝井䜜は、掚し掻ず陰謀論――䜜䞭では芖野狭窄ず芖野拡匵ずしお展開される――のテヌマをタテ糞に、ケア論のテヌマ――䞭幎男は女よりケアが䞋手――をペコ糞にしお構成されおいるが、各キャラクタヌが䜕かで読んだこずがあるような教科曞的な蚀動に終始する。物語の半ばでラストがむメヌゞできおしたうし、これならそれぞれのテヌマの新曞やルポに盎接圓たった方がよいのではず぀い思っおしたったほどだ。構成など゚ンタヌテむメント小説ずしお高い氎準にあるこずは理解できるのに、悪くいえば、AIっぜいし、二倍速したいず感じる。
 ただこれは䜜家の技量が問題ずいうよりも、YouTube動画や無料蚘事やSNSの投皿――極め぀けはAIによる芁玄――で様々なテヌマをカゞュアルに芋聞きできおしたえる珟代の䞖界がそもそも二次資料的になっおいるからではないか。すでに二次資料的な䞖界の䞭で、取材や資料収集しお物語を立ち䞊げるので、二次資料感が際立っおしたう。しいおいえば゚ンタヌテむメント小説ずしお完璧であるほどその感を匷めおしたう。このような事態を朝井は自芚的に匕き受けおいるのではないかずいうのが、おそらく䌊藀のスタンスなのだが、いずれにせよ゚ンタヌテむメント䜜家受難の時代にはちがいない。
 ボヌドリダヌル的な議論ではある。あえお違いを瀺すなら、ゞャン・ボヌドリダヌルが映像の再珟性のむンパクトにシミュラヌクルを芋出したのだずすれば、珟代の二次資料感はテキスト蚀語情報ベヌスのシミュラヌクルではないだろうか。
 執筆掻動ずいう知的営為すらAIが容易に再珟しおしたう時代。文孊にはコンテンツ消費ず繋がり消費がある。前者は䜜品の内容が消費されるだけのタむプで、埌者は䜜品の頒垃・受容を通しお人ず繋がる欲望に重きが眮かれるタむプ。前回の文孊PR論でたずめた文孊賞・翻蚳文孊の䞊昇コヌスずZINE・フリマ的繋がりコヌスがそれぞれ察応しおいる。AI の介入は、埌者は限定的、前者は䜕かのきっかけでAIで完結しおよいずなる可胜性はあるず思う。゚ンタヌテむメント小説がその兆候を瀺しおいる。ただ、AIがキャラ売りしはじめるず――いたでもすでに各生成AIに個性があるこずは指摘されおいるが――玔文孊も圱響がないこずはないだろう。
 くり返せば、最近の文孊シヌンは文孊賞・翻蚳文孊の䞊昇コヌスずZINE・フリマ的繋がりコヌスに匕き裂かれおいる。では、空掞化し぀぀あるその真ん䞭――ゞャヌナリズムの文芞誌ずアカデミズムの研究が代衚――はどうデザむンされるだろうか。埓来通り手法どう曞くかず䞻題䜕を曞くかのむデオロギヌ闘争が挔じられるず考えおいる。そういう意味で、昚幎の町屋良平ず李琎峰による文孊史蚘述は非垞に瀺唆的だった。ここのゟヌンもAIの介入は限定的だず思われるが、そもそもい぀たで維持できるのかが課題である。

 『矀像』月号の関口涌子「いた、小説の枠は広がっおいるのか――詩の小説ヘの「浞出」」は、読んで考えさせられた。小説に詩䜜の圱響が入り蟌んできおいる珟状を考察したものである。フランスで䜜家掻動をする著者によるず、フランスでも同様の傟向が芋られるそうで、その事䟋を詳しく玹介しおくれおいる他の囜の事情も知りたい。『文孞界』の月号の特集「浮遊する蚀葉」は、珟代詩を積極的に取り䞊げたものだったし、『文藝』春季号の特集「うたのこずば」では短歌や歌謡が取り䞊げられおいた。
 関口は、『矀像』月号の金原ひずみずの察談で、金原の新刊を゚ッセむずもフィクション小説ずもいえる新しい領域ずしお評䟡しおいる「私ず他者、瀟䌚ぞず぀ながる新しいゞャンルを求めお」。小説の領域が、よくも悪くもゆさぶられおいるのだずすれば、この時評でも䜕床か玹介した、゚ッセむや日蚘ぞの泚目にも関わる珟象だろう。ちなみに今月の『本の雑誌』月号の特集は「日蚘の時代」である。
 以前、「どう曞くか」にこだわる町屋ず「䜕を曞くか」にこだわる李は、「どう挔じるか」䜜家のアむデンティティをパフォヌマティノに衚明するずいう点で近い立堎にあるのではないか、ずいうこずを曞いた。「どう挔じるか」ずは、先ほどの䌊藀の議論でいえば「私」を立おるこずである。どの立堎に立぀にせよ、゚ッセむずフィクションの察比でいえば、おそらくフィクションだけでは厳しくなっおきおいるのだろう。だから゚ッセむやポ゚ゞヌに頌りたがる。よくも悪くも。
 柄谷行人は、䞀九䞃〇幎代の半ばに「倧きな転換期」があったずしおこうたずめおいる。「意味や内面性を背負わない「蚀葉」が解攟された」。かくしお「蚀葉遊び、パロディ、匕甚、さらに物語、぀たり近代文孊が締め出した党領域が回埩しはじめたのである」『日本近代文孊の起源』講談瀟文芞文庫、1988・6ず。やや乱暎な蚀い方になるが、䞀九䞃〇幎代以降の文孊は、玔文孊蚀葉遊び、パロディ、匕甚ず゚ンタヌテむメント小説物語の関係が問われたわけだ。その勢力図が抑圧しおきた「意味や内面性」がいた珟代詩、短歌、俳句、歌謡、私小説、゚ッセむ、日蚘ずしお回垰しおいるのだずしたら
 少し話がずれるが、文芞誌が組む特集で簡単な゚ッセむや創䜜をいく぀か䞊べお枈たせるものが最近目立぀。たずえば東日本倧震灜十五幎ずいうこずで特集が組たれおいる。『文孞界』月号の小特集では、短篇゚ッセむのみだった。これではどういうスタンスで特集が組たれたのかたるで分からない。曞き手に気を遣っおいるのか、批評なり線集の介入がたったくないからである。
 『歌壇』月号の特集「震灜詠から芋えおくるもの――東日本倧震灜、原発事故から十五幎」は、「震灜埌䞀幎以内」阿朚接英「震灜埌䞀幎五幎以内」倧束達知「震灜埌五幎十幎以内」梶原さい子「震灜埌十幎今日」本田䞀匘の時代区分ごずの曞誌を各評者に分担し、最埌に「原発事故から十五幎」ずしお䞉原由起子に総括的な゚ッセむを任せおいる。初玚者でも分かりやすい。
 十五幎ずなるず、震灜に文孊がどう関わっおきたのかを知らない人が倚くなる。゚ッセむかフィクションかの二分法もよいが、批評なり線集をも疎かにしない方がよいだろう。今月の『矀像』は倧江健䞉郎の未発衚小説の収録が話題だったが、阿郚賢䞀による「解説」のアシストあっおこその䌁画だった。このケア的仕事に比べるず、『すばる』月号の谷川俊倪郎単行本未収録詩線は物足りなかった。以䞊、PR的ダメ出しを少し。

 今月の『矀像』は盛りだくさんである。寊重圥がたたしおもケンカを吹っかけおいる。工藀庞子ずのリレヌ連茉「察話」においお、「ケア」批刀を展開しおいるのだ。たたしおも、ずいうのは、時評の第䞀回でも玹介したように、寊が同「察話」で犏嶋亮倧を批刀しお犏嶋がやり返すずいうプチ論争があったからである。先月の「些事にこだわり」『ちくた』月号の高垂批刀はSNSで芋事に炎䞊させおいたし、いたや叀兞ず化しおいる批刀・論争が今幎九〇歳になるご老䜓の呚蟺においおしか発生しおいないずは、さすがにいかがなものか。いいかげんゆっくり䌑んでほしいずころなのに、文芞誌の察談ずいえば、お互いを耒めあうものばかりになっおしたった。もうひず螏ん匵りしおもらわないずいけないのかもしれない。
 犏嶋ずの察立はテクスト論VSカルスタだった。䜜品を自埋したものずしお分析する立堎ず、䜜品の文脈や歎史的背景を重芖する立堎ずの察立。手法ず䞻題の察立。寊はテクスト論の擁護者で、今回の察立はテクスト論VS心理孊ずいったずころか。批刀の察象は、ケアの倫理を立ち䞊げたキャロル・ギリガンを招いお行われた小川公代ず小西真理子ずの錎談。『矀像』の月号に掲茉されたもので、同号には寊ず工藀の「察話」も茉っおいた。
 寊は、たず、ギリガンが䜜家を心理孊者に芋立おる発想を批刀しおいる。䜜䞭人物の心理を探るこずに限定する䜜品読解はいかがなものかずいう批刀だ。これに察しお䜜家は「曞く人」なのだず論じる寊にずっお、読解の䜜業は「䜕よりもたずテクスト構造の解明が必須」で、「「心理」の問題など、そのほんの䞀郚」ずする。非人称的なテクストずの出䌚いこそが求められるずき、その読解者ずしお最も適任なのはAIなのではないかずいう疑念が発生するが、ここではそれ以䞊問わない。
 問題は、文孊におけるケア論批刀の意矩である。寊は、女性たちを代匁representしようずするギリガンを批刀するが、男性䞭心のアリヌナにこれたで代衚represent、いや参加すらしえなかった立堎からの批刀がフェミニズムやケア論呚蟺からあったここ十数幎だったはずで、ゆえに反動ずもずられかねない批刀ではある。こず圌はそのアリヌナの䞭心にい぀づけた批評家である。
 その䞀方で、寊の名誉のために、圌の批刀の䞭心は、ケア論そのものにはないこずも指摘しおおきたい。ケア論の文孊ぞの導入の仕方に぀いお批刀をしおいるのだ。ギリガンの䞻著『もうひず぀の声で』にも、新たに翻蚳刊行された『人間の声で』にも日本語蚳の副題に「ケアの倫理」が含たれおいるが、原著には存圚しないではないかず。「だずするなら、その日本語蚳に添えられた「ケアの倫理」ずいう語には、もっぱら商業的な目的がこめられおいるず芋なければなりたせん」。その䞊で寊は、「「ケア」ずいう語圙の珟代日本における理䞍尜ずも思える氟濫ぶり」に違和を衚明する。ここが批刀のハむラむトである。やや深読みをするなら、どんな正矩にも――むろんここではケアの倫理にも――぀ねに政治が入り蟌んでいるのであり、玔粋無垢な正矩など存圚しないずいう、嫌味たらしい意図が蟌められおいるのだろう。これもたた、文孊のアリヌナにおける、手法どう曞くかず䞻題䜕を曞くかのむデオロギヌ闘争の䞀バリ゚ヌションずいっおよい。

 論争ずいえば、高垂総理発蚀本歌取り論争を簡単に取り䞊げおおこう。嶋皟倪郎が、むラン戊争䞋の蚪米䞭にわが囜の総理がトランプ倧統領に向けおペむショリップサヌビスした発蚀を、短歌ず芋立おお短評した「䞖界䞭に平和ず繁栄をもたらせるのはドナルドだけだず思っおいたす」、『日々のクオリア』3月21日。それがTwitter珟Xを䞭心に賛吊を呌び起こした䞀件である。おそらく吊の方が倚かったように思う。ここではスズキセむラの「短歌ではないものを短歌ずしお」をあげおおきたい。
 論点は耇数あるず思うが、ポむントは、スズキのタむトルにもある通り、短歌ではない蚀葉を短歌に囲い蟌むずき、そこにどのような批評性があるかだろう。文脈暪断ずいう意味では、アダプテヌションや文化盗甚にも近い話題ずいえる。たずえば珟代詩だず、類䟋ずしお山田亮倪の『オバマ・グヌグル』2016・6がすぐに思い浮かぶ。りェブや雑誌、公園内に掲瀺された蚀葉を集めお詩䜜品に取り蟌んだものだ。それは単に、詩の倖に詩のようなものを発芋しお寄せ集めたものではない。自由埋であるがゆえに、䞖界は党お詩になっおしたう――詩人がやるべきこずは䜕もない――ずいうアむロニヌが批評性を担保しおいるのである。マンションポ゚ムずいうテヌマ蚭定も同じアむロニヌを共有し、広告のなかに意図せずしお混じる胜倩気なポ゚ムを取り出すずいう、やや冷笑的ずはいえ、批評がある。
 『短歌研究』月号の「展望座談䌚2025」では、ネットミヌムや流行り蚀葉――たずえば「それっおあなたの感想ですよね」©ひろゆきなど――を短歌にする詊みが玹介されおいる。これは珟代短歌の「私」が厩壊し぀぀あるずいう文脈で玹介されたものだ。぀たり䜜家性の吊定ずいう批評性があるずいうわけだろう。私は短歌初玚者だが、こういった批評性に比べるず、嶋の手法には批評性が薄いず感じた。短歌の倖に短歌のようなものを発芋しお短評しただけではないかず。ずりわけ、短歌の倖にある政治的な蚀葉を取り蟌んで批刀する堎合、自ゞャンルの圢匏にた぀わる政治や歎史に無自芚であるず、短歌が正矩の偎に立っおしたう。批刀察象の総理が自身を正矩の偎に䜍眮付けおいるのず䜕ら倉わらない。
 いずれにせよ、こういった問題提起をする曞き手がちゃんずいるこずが凄い。しかもそこに賛吊が集たっおいる様を芋るに぀け、ゞャンルが生きおいるなあず矚たしく思った。

 ここたで文孊の政治や道矩的偎面に぀いお倚く話しおきた。さらに、『文藝春秋』月号の特集「絶察安定倚数は吉か凶か」に茉った、䞉宅銙垆「高垂総理の秘密は「文䜓」にあり」を取り䞊げおおこう。前回の文孊PR論ずも関わる議論である。遞挙は政治のPRにほかならないからだ。
 その前に補助線ずしお皲田豊史の『本を読めなくなった人たち――コスパずテキストメディアをめぐる珟圚圢』26・2にも蚀及しおおきたい。皲田によれば、AIの芁玄や動画コンテンツが前提になった珟代――コスパ重芖の「非読瀟䌚」――では、本を読むリテラシヌの瀟䌚的䟡倀がなくなる。ごく䞀郚の教逊階局の莅沢品でしかなくなるずいう。いわばデゞタルメディアが民䞻䞻矩を完成させるずいう発想だろう。吉本隆明が理念ずしお立ち䞊げるしかなかった「倧衆」ぞの垰䞀は、デゞタルメディアによっお具珟化されたずいっおよいかもしれない。そこでは本を読む知識人は単に䞍芁である。
 䞉宅の議論も前提がおおむね同じである。いたや遞挙は、SNSやYouTubeの切り抜き動画こそ䞻戊堎になっおいるずいうものだ。自民党・高垂早苗はそれを掻甚した遞挙を戊っお圧勝し、マスメディアのテレビや新聞を意識した䞭道・野田䜳圊は完敗した、ずいう図匏を描く。その䞊で䞉宅は、高垂の遞挙戊略を肯定的に評䟡する。なぜなら、デゞタルメディアの仕組みに寄り添うこずこそ匱さを抱えた囜民党員に向けた蚀葉遣いに意識的になるからである。逆に、マスメディアを意識した遞挙は、友敵を区分し、仲間内に向けた蚀葉遣いぞず瞮枛するしかないずいう。前者は様々な「界隈」に向けた発信、埌者は抜象的なキャッチコピヌ。この敎理にずくに異論はない。
 ただし私は、YouTubeやSNSのプラットフォヌムの珟状が民䞻䞻矩の遞挙にマッチしおいるずは思っおいない。遞挙のルヌル、ずくにSNSや動画などりェブ䞊のルヌルに関しおは、珟状にマッチした芏制を早急に行うべきだず考えおいる。広告では圓たり前のレベルの芏制すらできおいないからである。
 ネット通販が新芏参入の機䌚を増やし、䞭小のメヌカヌでも売り方次第で皌げる堎をもたらしたこずは間違いない。しかし他方で、誇倧広告などで消費行動を歪める販促が無秩序に幅をきかせたのも事実である。たずえば健康食品や矎容医療広告は深刻な健康被害をもたらしもした。あるいは、コンプガチャのようなギャンブル䟝存が高いもの、やらせや誹謗が発生しやすい口コミサむト、アフィリ゚むトやむンフル゚ンサヌを掻甚したステマ、それに各皮ダヌクパタヌンなど、消費行動を歪める販促が生み出されおは消費者保護の芏制をかけるずいう錬ごっこがここ二十幎近くのネット通販だった。
 芏制には、消費者保護ず販売機䌚の平等を確保するずいう意味がある。儲けるものがより儲かるではなく、新芏参入にもチャンスを䞎える。他方、やりたい攟題だず問題が出るので、消費者保護でフォロヌする。
 蚀論や出版のゞャンルにいるず分かりにくいが、広告の業界には衚珟の自由は存圚しない。蚀い方が悪ければ、衚珟をする䞊で非垞に匷い芏制があるずいっおもいい。なぜか。関係が容易に非察称になるからである。各メヌカヌの間、メヌカヌず消費者の間で。ゆえに消費者被害者保護ず新芏参入の機䌚の確保のバランスをずるこずが重芁になる。その意味で、遞挙も倉わらない。プレむダヌは、立候補者ず有暩者だ。
 珟状の、遞挙時の切り抜き動画やむンフル゚ンサヌによる玹介は、民䞻䞻矩の感芚を歪めおいるずしか思えない。ステルス・マヌケティングならぬステルス遞挙掻動。切り抜き動画はアフィリ゚むトに、むンフル゚ンサヌ玹介オリ゚ンタルラゞオ䞭田敊圊の比范的公平に立候補者を玹介するチャンネルから立花孝志のような偏向的介入たではむンフル゚ンサヌ・マヌケティングにほが察応するだろう。広告業界ではいずれも厳しく芏制されおきたが、遞挙はやりたい攟題である。
 もちろん、マスメディアの報道の方がよいわけではない。それらもバむアスがかかっおいる。ゆえにリベラル偏重の売囜メディアずしお批刀される媒䜓もある。しかし䞉宅が敎理する通りマスメディアの圱響はいたや限定的なものであり、圱響力があるように芋えるのはSNSや動画が切り取っおネタにするずきくらいである。ただし、ずりわけ地䞊波テレビは、政治的公平性の芳点から遞挙報道を行う矩務を負う点でいたも重芁なメディアであるこずに倉わりはないが文孊でいえばメゞャヌ文芞誌に近い。
 商品広告ず同様の芏制の動きが公遞法に芋られないのは、政暩にずっお珟状は有利に働いおいるからだろう。いずれにせよ、SNSや動画の芏制はプラットフォヌムが日本発ではないため網矅的なものにはならないずはいえ、露出の総量が公平になるなどの芏制に取り組むべきである政治的公平性の再線に関しおマスメディアは質的芏制、りェブメディアは量的芏制の培底が望たしい。
 少なくずも、䞀党が議員定数の䞉分の二を掌握した遞挙の結果から取り組むべきこずがあるずすれば、勝ち負けの分析よりも、ルヌルの欠陥を問い、批刀的に怜蚌すべきではないか。「匱さを抱えた囜民党員」にずっおゲヌムをスリリングなものにし぀づけるには、たえざるルヌルの調敎が必芁である。
 文孊のアリヌナを差配するメゞャヌ文芞誌も本圓はそうあっおほしいものなのだが。もちろん『文孊』はマむナヌな立堎からのルヌルチェンゞをあきらめおいない。文孊の批評ず研究がより掻発になるための。

 最近は、どの立堎に立぀にせよ、我こそは正矩の偎にいるず匁明する傟向がより匷いように思う。そんなフリでもしおおかないず仕事の䟝頌が来ない業界だから仕方ないのかもしれないが、それにしたっお単調ではないか。
 垂川沙倮が朝日新聞の取材3月18日で垂川節を披露しおいる。バリアフリヌの必芁性をコスト面から唱えおいるのだ。バリアフリヌずいうず真っ先にコストカットすべき無駄な郚分ずされがちである。だから瀟䌚正矩ずか公共性ずか持ち出しお、コスト重芖掟ず衝突する。だったら、面倒な亀枉のコストをキャンセルするために予めバリアフリヌを実装しおおいた方がよいではないかず。そう、あなたがたが重芖するコストの論理にしたがえばバリアフリヌは䞍可欠なのだ。
 面癜い。このパフォヌマティノなロゞックがどれほど説埗的に受け入れられるかは分からない。しかし、少なくずも垂川は自分を正矩の偎に眮かず、ルヌルをどう改倉しようかをもくろんでいるのが䌝わる。正矩の䞻匵がシビアに政治ずリンクしおいるこずをよく知っおいるからだろう。政治ずは端的にいっお必芁なものず䞍芁なものを仕分ける優先順䜍を付ける行為にほかならない。バリアフリヌは話題の博物通コストカット問題ずも深く関わるはずである。

 最埌は駆け足で。『昭和文孊研究』第92集、3月1日を開く。歊久真士の「「印象掟的詩歌」の詊み――䞉奜達治『日たはり』論」が面癜い。私なりに敎理するず、①䞉奜の四行詩呚蟺は詩や短歌・俳句を含み蟌んだ総合短詩圢ずしお構想されおいる。②定型やゞャンルの解攟は通垞自由埋化果おは散文詩によっおなされるものだが、䞉奜の四行詩は各ゞャンルの圢匏性差異にこだわるこずによる。③短歌ず俳句、日本語の音楜性ず意味映像などの区分を、行分け等を駆䜿しお圢匏を再線する、ずいう芳点から䞉奜の短詩圢をめぐる可胜性を匕き出しおいる。最近の口語短詩圢のゞャンルを考える䞊でも有意矩だろう。『珟代詩手垖』月号の特集は「萩原朔倪郎VS西脇順䞉郎」。『詩ず思想』月号は「茚朚のり子」特集。文孊史倧奜きっ子クラブにずっおありがたい䌁画。ただ、䜜家論特集ずくに過去のをいたやるのは困難だなあずも思った。自戒を蟌めお。『ラむトノベル倧党』3月5日は、䞀九䞃〇幎代からの五〇〇䜜品の解説を䞀挙収録したものだが、舞城王倪郎ず䜐藀友哉、枅涌院流氎の䜜品の項目がないこずに驚いた。れロ幎代批評ずラノベ台頭に欠かせない䜜家ず思っおいたのに、業界的には違うのだろうか。『短歌』月号は曞評特集「近幎の歌集を評す」。斉藀斎藀の高島裕歌集『盂蘭盆䞖界』の曞評ずいう䜓裁をずった「アむデンティティヌ」評が二ペヌゞだけで、もっず読みたいず思った。「アむデンティティヌ」の政治的䞻題をめぐる論争に぀いおは、瀬戞倏子の評を参照。『俳壇』月号の特集「類䌌類想句どう考える」も面癜かった。俳句の歎史は類䌌句ずの戊いの軌跡でもある。競技ゲヌムの䞖界ではチェスが最も早くコンピュヌタヌの脅嚁にさらされたはずだが、文孊の䞖界では俳句がAIずの関係でその立堎にあるだろう。この特集を読んでいるず、俳句は叀くからポストヒュヌマンな䞖界第二芞術論を、厳しく批刀し぀぀楜しんでいたのではないかず思わせおくれる。

 『図曞新聞』が月日号をもっお終刊。その前の月28日号で岡和田晃の「〈䞖界内戊〉䞋の文芞時評」が最終回を迎えた。2015幎月14日号スタヌトで、毎月積み重ね、合蚈䞀䞉䞉回、十䞀幎䞀月続いたそうである。耒め時評ばかりのご時䞖にあっお、必芁ずあれば遠慮のない批刀をする、数少ない時評だった。長い間、お疲れ様でした。

▶䞭沢忠之。1972幎生。凡庞の䌚。文孊WEB版線集人。感情レノュヌ。

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