干さオレ~五反田地団駄篇~(第九回)
文芸時評・3月 荒木優太
時評は新鮮でなければならない、という観念によって我々は(というか私は?)なにを犠牲にしているのかとときどき考える。毎月、洪水のように流れ込んでくるコンテンツ。対応するために発売日に購入、瞬読し、手早く要約と自分なりの評価を書き留めた、と思ったら次の月がもう目前に。振り返ればそんな場当たり仕事がうずたかく積まれている。こんなものがなんの役に立つか。二年前のあの名作のことをもう誰も話題にしていない。当意即妙のつまらなさを悟る。
吉村萬壱『木星人ゆき子』(三田文學)は、先月の木村友祐『殺しの時代における都市型狩猟の観察』(すばる二月号)とセットで読むべきだと思った。
吉村作では、会社で不正に手を染めているハラスメント気質の富永が、同僚で「木星人」の綽名をもつ変人ゆき子の体をむさぼる。ゆき子は、「私はゴキブリなんです」と自称し、個人が愛情を抱くたびにゴキブリが殺される超個体的な「回路」の一部であると語る。木村作の主人公は、害虫駆除に特化した清掃請負業者で働く小熊。ゴキブリやネズミを駆除するある日の作業中、ふとネズミの視線を感じ、親子ネズミを取り逃してしまう。以降、小熊は傲慢な上司である岩倉に頭を悩ませながら、動物殺しに躊躇を覚えていく自分を発見する。
イスラエルのガザ攻撃と思わしき戦争報道の言及に留まらず、両作にはよく似たところがある。人間中心主義批判であり、生命の環の一部としての人間観である。カナダの先住民はヘラジカを狩ったさい、「すべてのヘラジカがそれぞれのヘラジカの目玉を通してこちらを見ているから」目玉を取り除くのだ、という木村作での逸話は、「私たち七千万個体は全員回路で繋がっていて、本質的には一個体ですから争いはありません」というゆき子の言葉に呼応しているかのようだ。
他方で、生命的ネットワークを殺しの抑止力としてあつかい、さらには小動物との入れ替え可能性を暗示して終わる木村作とは違って、吉村作にはまた別のひねりがある。というのも、「回路」には感情の異常値をもとに戻そうという恒常性があり、作中の「ゴキブリ」は世界のどこかで生起した愛情を鎮めるため、アンバランスを均すために、一方的に犠牲になる憎悪の贄のようなものだからだ。「大切な人を守ろうという大きな感情が起こった時には特に、人は無意識に強い信号を発して回路の中に送り込み、世界の果ての暴力装置を発動させてしまいます」。
木村作が食う食われるに代表される相互性の原理で構築されているとすれば、吉村作は片務性の徹底を往く。一方通行的に押しつけられる暴力のほうに向かう。そして、気味の悪いことに相互性はこの片務的負荷を内包することで調和的な循環を実現させているのである。このとき、木村作の倫理のトリガーになったのが最初に登場したゴキブリではなく、そのあとのネズミであったことは興味深い。ゴキブリとネズミのなにが違うか。端的に、視線があるかどうか、顔があるかどうかだ。身体の構造とスケールの相対的な違いは、対面可能なものの種をあらかじめ選別している。肉食の禁止を訴える動物倫理学者も昆虫食は容認する。或いはまた、「顔」に殺人禁止の源泉を認めたエマニュエル・レヴィナスは、にも拘らず決してその顔の肌の色については語らなかった。一九六七年の中東戦争を経てなおイスラエル国を擁護したシオニストのレヴィナスにとって、パレスチナ人の顔は「顔」ではないのかという反問は依然横たわりつづけている。顔が倫理を起動させるとして、顔でないものがその作動的負荷を担っているとしたら。内田樹は専門外の政治談義で世相をひっかき回すのではなく、こういうことをきちんと考えるべきだ。
顔といえば、鳥トマト『漫画でイけ』(文學界)の二一四ページは必見である。本作はサブカル方面で一定の評判を得るも経済的にはいまだ不安定な女性中堅漫画家のツグミが、先輩漫画家である蛇川の紹介のもと、指摘は厳しいものの作家を売れさせることに絶対的な自信をもつ編集者・野分の面倒になる話。特異なのは、新連載に失敗し、担当を離れねばならなくなった野分への手向けのごとく、彼をモデルにしたツグミ作の漫画が挿入されている点だ。漫画と小説のコラボレーション。
二一四ページには、創作に真摯なのに人気はない作家の担当になった「野田編集長」の顔のアップが中央に描かれている。左目の瞳に注目してほしい。真ん中がすこしひしゃげていて、ハートの形のようになっている――分かりにくいと思うのでぜひ実際にご覧いただきたい――。そこで生まれたアシンメトリーは、コマの言葉にも対応している。つまり、右手(つまりハートの目の方)に「この気高い弱った美しい生き物を」の、左手に「助けなくてはならないと思った」の心情台詞が記されているが、「美しい生き物」への恋慕の念と「助けなくてはならない」の職業的義務感の分裂と同居が簡潔に示唆されている。勿論、そこで仄めかされた恋慕とは、生来のファザコン的気質も合わさって次第に野分に惹かれていったツグミの片恋の投影である。秀逸な表現だと思う。
ツグミによれば、編集者には「漫画家のミューズ」の側面があって、モデル漫画もその発想に貫かれている。つけあわせて考えるべきは、奥野紗世子『この人の知らない戦争』(文學界二〇二五年一二月号)である。大庭芽依は、歌会で出会った井口誠とものの弾みで恋仲に似た関係になるが、自分たちのあいだで起きた私事が井口によってことごとく短歌に詠まれ、SNSに投稿されることに居心地の悪さを味わっていた。極めつけに堕胎した件を作品化して雑誌の短歌賞に選ばれる段に至って、とうとう大庭は「わたしを書くな」と激昂する。「井口くんの短歌は最近すごいいいよね。それって大庭さんの存在があってこそ? ミューズっていうの?」という評言でも分かるとおり、ここには美の化身にさせられることの搾取、その告発がある。
鳥作では「みんな自分を物語にされたいのだ。小規模でつまらない、何のためにあったのかわからないような人生のまま死にたくないのだ」という大義名分が漫画執筆の正当性を支えるが、奥野作からすればそんなのは他人の物語をくすねて自分の手柄に変える泥棒の弁に等しい。モデル漫画を本文は「野分さんのおちんちんの漫画」と表記する。じゃあお前のおまんこはどこにいったんだ、おちんちんでおまんこを隠すんじゃない、という反論は避けられない。作者の下心が登場人物に仮託されているのならばなおさら。下品な言葉遣いを操ったが、島口大樹『風景たち』(文學界)がいうところの「写真家の撮った風景は、一体誰のものなのか?」と置換してもよい。
相変わらず、相互性と片務性の相克または補完を論じている。井口と別れた大庭は弱弱しい被害者像に留まるのではなく、加害のほうへ、すなわち、井口との思い出を短歌に詠んでそれをSNSでバズらせることで自分の傷と拮抗しようとする。相互性。しかし、相互的サイクルは片務的負荷の黙認によって成り立っていたのではないか。このとき、野分は一匹のゴキブリのように我々の前に現れる。「私の才能を世界に見せつけるために、あなたの面影をめちゃくちゃに使うね」(鳥作)から「相手がゴキブリと同じだと分かると、人は簡単に人を殺します」(吉村作)へとジャンプすること。書くことは殺すことによく似ている。
以下寸評。映画『ルーム』を小説にしましたで要約可能な佐倉ユミ『ケラルの城』(すばる)とスーパーマーケットで働く女の出会いと別れを描いた武塙麻衣子『春の波』(群像)には、同じ指摘ができる。本筋に対してサブエピソードが邪魔。『ケラルの城』ではロリータファッションを趣味とする友人の話が、『春の波』では同僚と店長が駆け落ちして失踪したという話が要らない。それぞれ単独ではさして面白くもないし、主題との調和もいまいちだと思った。両者はぜひ芝夏子『でも、やっぱり、おめでとう』(文藝)に当たるとよい。小学校教師の木下衿は給食の配膳を手伝いながら、喧嘩をした男児らに「ごめんね」と「いいよ」を言わせる。謝意があるかどうかは関係ない。それは教師の説教を終わらせる「祝詞」のようなもので、言っているという事実こそがかなめである。そこから本作は、生理がはじまった少女に「おめでとう」と言ってしまった自身への反省に飛ぶ前に、梶井クルミを仲介する。クルミは重たい吃音を抱え、号令の発音などにも難儀している。が、言っているという事実さえあればなんとかなる。正確さはあとからついてくればよい。気がついたら、頑張れとアドバイスするな、プレッシャーになるから、と言われる時代になった。でもやっぱり、頑張れ、と言うだろう。本当に頑張ってほしいからではない。とりあえず私はあなたを見ているよ、と伝えたいからだ。時間はたっぷり残されている。大人な小説に習うべし。
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