文学雑記㉑『教育』/遠野遥
学生時代、我々が必死になっていい成績を取ろうとしていたのは、ありていに言えば、将来においてより多くの快楽を得るためです。いい成績を取ることで、いい学校に進級し、いい会社に入るため。そうして、人より多い収入を得て、人より美味しいものを食べ、人より素敵なパートナーを獲得するためなのです。つまり、我々の住むこの世界では、いい成績を取ったことの結果として、将来的な快楽が与えられる仕組みが取られているのです。
本作はある全寮制の学園を物語の舞台としているのですが、この奇妙な学園においては、生徒たちに「いい成績を取るためには一日三回以上のオーガズムに達するとことが重要である」とのことが喧伝され、学内でのセックスや自慰行為が推奨されているのです。そして、そのための学校指定のコンドームやポルノビデオまでもが学校側から支給され、学内のいたるところでそういった行為が行われているのです。
つまり、我々が暮らすこの現実の世界とは、ちょうど真逆の関係で、より多くの快楽を得たことの結果として、いい成績が待っている、との仕組みが取られているのです。
何故作者がこんな奇妙な設定を採用したのかといえば、それはもちろん、子供の頃の成績がその後の人生を大きく左右してしまうこの現実世界の理不尽さを、より強調して我々に示すためではないでしょうか。
また、本作の舞台である学園においては、その「成績」の決め方に関しても、極めて風変わりな方法が取られます。
裏返しで配られた四枚のカードの中から正しい絵柄が描かれたものを直感的に選び出す、という、いわば超能力テストみたいなもので、当人である生徒たちは努力や工夫次第でその正答率を上げられると信じて疑わない訳ですが、我々読者の目から見れば、それは明らかな「運任せ」。努力や工夫の余地のない、純然たる「運ゲー」です。
事実、成績上位の生徒たちであってしても、その正答率は27パーセント程度であり、四枚から無作為に一枚選んだ時の平均である25パーセントを大きく上回るものではないのです。それによって寮内での待遇が一変してしまうほど重要なテストなのですが、その方法は極めて理不尽なものであり、全く筋の通ったものではないのです。
ですが、だからといって我々には、この学園の生徒たちのことを嘲笑う権利など、全くないのではないかと思うのです。彼らが従っている一見奇妙なルールや価値観が、我々が日々従っているルールや価値観とどこまで違いがあるのかといえば、大した違いなどないのではないかと思うのです。いえ、違いなど全くないのだということに、物語を読み進めていくうちに、自ずと気づかされてしまうのです。
例えば、我々の学生時代の成績はどれだけ多くの英単語や歴史の年号などを記憶したかどうかで決まります。その人が持つ「記憶力」次第で決まります。そして、その「記憶力」というものは、どう考えても生まれ持ったものなのです。自分では努力や工夫のしようもない、生得的でものなのです。
他にも、メリトクラシーや親ガチャのことなどを考えてみても、我々の人生の成否を決定するものは、どう考えても生まれ持った能力や生まれた時代や環境など、自分の力ではどうすることも出来ない部分に依るところが大きいのではないかと思うのです。
それは、はっきり言って「運ゲー」です。理不尽な神の「気まぐれ」です。本作のカード選びの奇妙なテストと、なんの違いもないのです。
……いやいや、違う。努力によって成績を上げた人を私は何人も知っている、との反論もあるだろうとは思うのですが、「努力できるかどうか」というのも生得的な能力の一つだと考えるならば、やはりそれすら「運」次第。我々が暮らす現実世界と、本作の舞台である学園には、やはりなんの違いもないのではないかと思うのです。
……いやいや、それでもやはり現実世界と本作は違う。確かに成績の良し悪しは運次第かもしれないが、それによって実際に能力のある人が抽出され、その人物に高い地位と責任を与えることで社会に貢献して貰う、彼に対する人並み以上の報酬はあくまでそれへの対価である、との考え方もあるにはあると思うのです。だから別になんの問題もないのではないか、我々が暮らすこの世界が本作と同じように理不尽であるとは決して言い切れないのではないか、との考え方もあるにはあると思うのです。
ですが、そうでしょうか? 社会貢献に必須な能力とは、いったいどういうものでしょうか? 今の時代、それを判別することは、我々には果たして可能なのでしょうか?
今が狩猟採集生活の時代だったなら話は簡単です。社会に貢献できる能力というのは、獲物を上手に狩る能力です。ですが、農耕が始まり、分業や貨幣や身分の違いなどが発生して、そこにさらに資本主義的な話だとか消費社会的な記号の話までもが乗っかってしまっている現在、その見極めはものすごく難しいことなのではないでしょうか?
汗水たらして働いている農家や介護職の人などより、デイトレーダーや転売ヤーのほうが稼ぎが良く、より多くの快楽を得られる社会で暮らす我々には、不可能なのではないでしょうか?
いえ、むしろ、本作の舞台である学校には外部があります。学校の存在に疑問を持つ外部勢力のことが僅かですが仄めかされることにより、生徒たちには「自分たちを縛りつけているルールはもしかしたら理不尽なものではないだろうか」との疑問を持つだけの余地があります。そう考えると、むしろ、自分たちの価値観を相対化し、その異常性に気づかせるための外部がどこにも存在しない我々のほうが、本作の舞台である学園の生徒たちよりも、より救いのない状況に追い込まれていると言えるのかもしれません。我々とは全く違う価値観やルールに基づき暮らしている宇宙人にでも運よく遭遇しない限り、我々の世界にはもはや外部など少しも有りはしないのですから。
もちろん、ここまで書いてきたことは全て私個人の読み解きです。作者が意図していたこととは全く違う可能性も、十二分に有り得ます。ですが、最近私は、それでいいのではないかと思うのです。ミステリーならば誰が読んでも犯人は同じ人でなければなりませんが、純文学はそうではないのです。本作のような多義性、多層性の高い作品ほど、読み替えの可能性のある作品ほど、より素晴らしい純文学作品なのではないのかと、そんな風に思うのです。
それはつまり、物語の結末的な意味でオープンエンドなだけでなく、読者側の受け取り方としてのオープンエンド。読後の感想が人により時により様々に分かれてしまう作品こそが、本当に素晴らしい純文学作品なのではないのかと、そんな風に思うのです。何故なら、きっと、我々は理不尽で正解のないこの世界を生き抜くための力や知識を得たいがために、決して読みやすいとは言えない純文学作品をこうして読み続けているのでしょうから。
とにかく面白かったです。遠野遥が文庫化を待ってから読めばいい作家ではないことが今回ではっきりしましたので、既刊の単行本もさっそく買いに行こうと思います。
皆さんも是非。

