〔398〕「後期大東亜戦争」〕と「台湾有事」5 陸軍皇道派と統制派の対立の真相
〔398〕「後期大東亜戦争」〕と「台湾有事」5 陸軍皇道派と統制派の対立の真相
落合がこの一年間、心胆を尽くして研究してきた「大東亜戦争の本質」の解明も、いよいよ終盤になりました。
その前に帝国陸軍を二分する対立構造となった「陸軍統制派」と「陸軍皇道派」について簡単にお話ししておかねばならないのは、この両派の対立構造が「大東亜戦争」に深く関係しているからです。
昭和五〔1930〕年頃に「対ソ連認識」を巡って帝国陸軍内に発生した「皇道派」と「統制派」の対立については、巷間に雑多な説が流れていますが、皇道派の中心人物荒木貞夫(9期)が、そもそもただの右翼軍人ではないのです。
荒木貞夫は「國體天皇府・西極本部」の総帥「ハプスブルク大公」が維新政府の帝国陸軍に送り込んできた「國體奉公衆」の一人で、血統的には「欧州伏見宮家」の一人、と落合は推測しています。
紀州有田郡広川村「広八幡宮」の社家佐々木家で生まれたことにして一橋家臣荒木家の籍に入れられた荒木は陸士9期を出て帝国陸軍に入り、参謀本部ロシア班に属します。
明治四十二(1909)年に少佐に進級した荒木は12月にロシア駐在となり、明治四十五(1912)年に駐露公使館武官長補佐の名目でイギリスに赴いています。この「荒木貞夫のイギリス行」は帝国陸軍の公式記録には出ていないのですが、落合は「吉薗周蔵手記」により知りました。
昭和八(1933)年11月に薨去した元帥上原勇作は、死の床で吉薗周蔵に「これからは荒木を頼れ」と言い残します。帝国陸軍で「工兵の父」と謂われた上原元帥の股肱の多くは工兵・砲兵科出身ですが、荒木は歩兵科で、それまでの軍歴において上原との接点は見つかりません。
陸軍三長官を勤めて帝国陸軍内に巨大な「陸軍上原閥」を作りあげた上原勇作が「跡継ぎに荒木を選んだ」ことを知る歴史家はこれまで一人もいないようです(もしおられるのなら。ご存じの方はその名を落合に教えてください)。
「従兄弟ちがい」(五親等)に当たる吉薗周蔵に「個人付特務」を命じていた上原勇作は、昭和八(1933)年十一月8日に薨去を前にして周蔵に「自分の死後は荒木貞夫に仕えろ」と命じたのです。
当時陸軍大臣で十月20日に大将に進級したばかりの荒木は、開けっ広げな性格で、上原の遺命にしたがい快く仕える吉薗周蔵に、いろいろ教えます。
その中の一つが、ロシア駐在武官の時に「西洋婦人の招きでイギリスに渡りチャーチルと会談した」という噺です。
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