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愛、倫理と精神分析、ヴェイユ

愛とは何だろうか。最近、愛についてばかり考えているのだが、考えれば考えるほど簡単には答えられないもののように思える。まず、「愛が虚構を"信じる"」という行為なのはそうだろう。しかし、問題の所在はここではない。愛とはどのようにして、他の信仰、倫理的主張と区別できるのかということである。愛はしばしば幸福や救いと結びつけて語られる。孤独を埋め、人生に意味を与え、欠けているものを満たしてくれるものとして理解されることが多いように思う。だけれどもヴィクトール・E・フランクルが『夜と霧』のなかで語った経験に触れたとき、愛はそうした理解だけでは捉えきれないのではないか、と感じさせられるものがあった。彼は強制収容所という極限状況のなかで、愛する妻が生きているのかどうかさえ分からないまま、それでもなお妻を思うことで深い充足を経験したという。そのとき重要だったのは、妻が実際にそこに存在しているかどうかではなかったらしい。

もしそうだとすれば、愛とは相手の現存や応答によってのみ成立するものではないのかもしれない。僕たちはしばしば、愛を孤独や不足を埋めるものとして考える。しかしフランクルの経験を読むかぎりは、愛は何かを手に入れることで完成するものというより、むしろ「その人が存在していてほしい」と願う"志向"そのものに近いようにも思える。この点「愛」は「死」と同じくらい強いものだと考えることができるのではないだろうか。人間存在にとって、「死」とは不可逆的なもので、誰もがいずれ避けられない絶対的なものである。人間がどれだけ「理性」や「権力」を得ようとも死には敵わないのである。しかし、「愛」もまた落ちようとして落ちるものではないし、やめようとしてやめれるものではない。愛もまた、人間の自由や理性を超えてしまう力があるといえる。愛とは人間が有限な存在なのに、無制限に思える運動のようだ。

「ものあるいは人についてこれを愛すること、すなわち、私はあなたが存在することを欲している一私は愛する、すなわち、あなたが存在するように意志する(Amo:Volo ut sis)と言うこと以上に大きな肯定は存在しない」

ハンナ・アーレント『精神の生活』

例えば、ハンナ・アーレントがアウグスティヌスの言葉として紹介した「私はあなたが存在することを欲する」という定式は、この感覚を静かに、言い表してくれてると思う。愛するとは、相手が何をしてくれるかではなく、その人がただ存在しているという事実を肯定することなのではないだろうか。それは条件としての存在(A for B)ではなく、存在それ自体(A for A)の肯定なのだ。たとえ、その存在が不確定であったとしても、意思すること、すなわち「存在への志向」が愛することであり、この肯定の反復こそが、「欠如」から生まれる行為という定式そのものの外部にある"完全性としての反復"であると認識できるのではないか。これはかなり倫理学的な問題としてだが、この自己義人化しない完全性の反復が、無制限なもののように思わせる。

だが、愛がそうした肯定であるとしても、それが欠如や不安を消してくれるわけではないだろう。精神分析の観点から見れば、人が愛するのは不完全だからだという説明には納得できる部分がある。ラカンが述べたように、人間の主体はどこかで自己と一致できず、常に満たされない感覚を抱えている。だからこそ他者へ向かい、関係を求める。愛もまた、そのような裂け目から生まれてくるものとして理解することができるだろう。私たちは完全ではないからこそ誰かを必要とし、他者との関係のなかで自分を保とうとする。その意味では、愛が心理的に「欠如」から生まれるという見方は自然に思える。

けれども、それだけで愛の経験を言い尽くせているのかと考えると、少し迷いが残る。もし愛が単なる不足の補填であるならば、相手が失われたとき、あるいは応答が不可能になったとき、それもまた消えてしまうはずではないだろうか。それにもかかわらず、人は不在の他者を思い続けたり、報われる保証のない関係を手放さずにいようとすることがある。

トロイアとカルタゴの壊滅をつうじて慰めもなく神を愛する。愛は慰めではない。愛は光である。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

 例えば『重力と恩寵』では、ヴェイユが「愛は慰めではない。愛は光である」と書いている。彼女が指していたのは、苦しみを消し去る力ではなく、それでも現実から目を逸らさずにいられるあり方だったのではないかと思う。これはフランクルが「愛」という関係性を保つことで極限状態を生き延びることができたことと繋がると思う。愛は意味が保証されなくても向き続ける。そして時に愛は現実を覆い隠す幻想ではなく、現実を直視可能にする力ともなるえるのだろう。

ヴェイユはまた、人間が自己を直接愛することは難しく、他者や神からの愛を経由してはじめて自己を受け入れることができると語る。

愛はわれわれの悲惨をあらわす兆候である。神は自己しか愛せない。われわれは自己ならざるものしか愛せない。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

神がわれわれを愛しているから、われわれも神を愛さねばならぬのではない。神がわれわれを愛しているから、われわれは自己を愛さねばならない。この動機なしに自己を愛せようか。
(この迂回路を経ずして、人間に自己愛は不可能である。)

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

神は完全(自己充足)しているが故に自己しか愛すことができない。欠如がないし、外部を必要としない。愛が悲惨をあらわす兆候なのは、愛があるということ自体が、人間の不完全性(欠如としての存在)の証拠ということではないだろうか。だから人間は神を仮構することで逆説的に自己を愛そうとしたのではないか。

こうして考えてみると、愛についての理解は一つに収まらないのかもしれない。精神分析は、なぜ人が愛するのかという出発点を説明してくれる。私たちが不完全であること、自己と一致できないことが、他者への志向を生み出しているという見方である。しかし倫理的な観点から見たとき、愛は単なる欠如の結果としてだけでは捉えきれないようにも思える。愛するという行為のなかでは、ときに他者の存在が理由なく肯定され、目的や利益とは異なる次元が開かれるように感じられるからである。

おそらく愛とは、この二つの側面のあいだに生じる経験なのではないだろうか。心理(精神分析学)的には、不完全であることから始まる。それでも倫理的な次元においては、欠如へと還元されきらない何かが残る。愛は人間を完全にするわけではないし、苦しみを消してくれる保証もない。それでもなお、他者の存在を望み続けることができるという事実のなかに、私たちは世界とのつながりを見出しているのかもしれない。

こう考えてみると、愛とは欠如を克服する出来事というより、欠如があるにもかかわらず、見返りを求めない関係が続いてしまうこと、この二律背反的にも思える不思議さがある。精神分析学的には欠如から生まれながら、倫理的には欠如へと回収されない。そのあいだに生じる緊張こそが、私たちが愛と呼んできた経験の深さなのではないか。他者は決して完全には分からず、いつか失われる存在である。それでもなお、その存在を望み続けることができる。この肯定は一度達成されて終わるものではなく、ごく自然な日常のなかで何度も繰り返されているように見える。誰かを思い出すことや、気にかけること、ただ存在していてほしいと願うこと。そのささやかな反復のなかで、私たちは世界とのつながりを保っているのではないだろうか。

愛は世界に意味を与える万能の答えではないのかもしれない。それでも、意味が確かなものとして与えられない世界のなかで、他者との関係を手放さずにいようとする態度として現れることがあるように思える。慰めになるとは限らないし、苦しみを消してくれるわけでもない。それでもなお、世界を見失わずにいられる瞬間があるとすれば、それは誰かの存在を静かに肯定しているときなのかもしれない。愛とは、おそらくそのような、説明しきれないが確かに経験される光のようなものなのだと僕は思う。

そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル

「われを汝の心におきて印のごとくせよ・・・・・・其は愛は強くして死のごとくなればなり」

新約聖書「雅歌」第八章第六節

他の人間存在の実存をあるがままに信じる、これが愛である。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

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