デレラの読書録:信田さよ子『なぜ人は自分を責めてしまうのか』

信田さよ子,ちくま新書,2025年
罪悪感と自責感は異なる。
罪悪感は、自分の外にある規範を犯している時に感じる。
一方で自責感は、自分の外にある規範とは直接関係しない。幼少の頃の家庭環境(特に過酷な環境)を納得するための方便として醸成される。
今、子育て真っ最中のわたしからすると、この本で書かれていることは苦い薬であった。
水が高い方から低い方に自然と流れるように、権力もまた高低による流れがある。
子どもが小さければ小さいほど、親が権力者になる(主従逆転があるとは言え)。
子のケアに耽溺するのは、権力者の快楽だろう。なぜなら、子育てには少なからず権力者として人を支配する側面があるからだ。
あるいは、夫婦関係が、または親とその親の関係が、子へのケアに転化される。
油断すれば、子は親のストレスの捌け口になる。
それは、単に親から子への暴力という形だけでなく、過剰なケアという形でも表出する(要はモンスターペアレントだ)。
子に依存する親、妻に依存する夫が誕生する。
過剰なケアという依存(モンペ)、家庭内暴力という依存だ。
必要なのはセルフチェックだろう。
わたしの思いつく簡単なセルフチェックが一つある。
それは、休日に一人で行動できるか、というシンプルな基準である。
妻を放っておいて、子を放っておいて自分自身だけでやりたいことをやりたいようにできるか。丸一日の時間を使って、一人で。
そしてわたしは、一人で美術館に向かった、この本を読んでいた当時にやっていた岡崎乾二郎の展覧会である。
わたしは、結局、気がつけば妻に展示会の様子や写真などを送ってしまっていた。
わたしは、一人で用事は見つけられる、一人で行動はできる、しかし、それを自分一人のものとせずに、妻に連絡を取ってしまった。(正直、妻は当該の展覧会に興味もなかっただろうと思う、つまりわたしの独りよがりで送っている。そういうことが許される仲であるとも言えるが、今回は依存度のセルフチェックである。これは特筆せざるを得ない。)
結論として、わたしは、やや依存の傾向があるのだろうと思う。それはそうなのかもしれない。毎日一緒にいるということはそういうことなのだ。
やや、と依存度が低い評価を下したのは、一人での用事を簡単に見つけられたこと、一人で出かけること自体には抵抗がなかったこと、普段から物理的な暴力は行なっていないことなどがある。
わたしはこの事象を通じて、妻への依存具合を改めて知った。依存はある程度自然に形成されてしまうだろう。と同時に、行きすぎた依存は両者の自由を阻害する。
パートナーへの権力行使になりすぎない、という地点に止まること。
