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令和最新版「寺山Tier表」を作る

なんでもかんでも寺山修司と言う前に

ここ数十年、日本のサブカルチャー批評において、ひとつの便利すぎる言葉がある。

「寺山修司っぽい」

これである。

  • 赤い。

  • 暗い。

  • 母が出る。

  • 少年がいる。

  • 田舎が呪われている。

  • 舞台っぽい。

  • 昭和っぽい。

  • サーカスっぽい。

  • 見世物小屋っぽい。

  • 少女が不穏。

  • フォントが変。

  • 急に老婆が出る。

  • 壁が倒れる。

  • 狐が喋る。

  • 白塗りの人間が何かを見ている。

すると、だいたい誰かが言う。

「寺山修司っぽいですね」

本当にそうだろうか。

もちろん、寺山修司は巨大である。
短歌、演劇、映画、評論、ラジオ、テレビ、広告、競馬、ボクシング、家出、母、少年、偽の自伝、見世物、都市、東北、虚構、死者。なんでもある。あまりになんでもあるため、少しでも異様なものを見ると「寺山」の箱に入れられてしまう。

だが、そこには問題もある。
「寺山っぽい」と言った瞬間に、横尾忠則も、宇野亞喜良も、J・A・シーザーも、唐十郎も、土方巽も、江戸川乱歩も、夢野久作も、ボルヘスも、フェリーニも、全部まとめて寺山汁にされてしまう。

便利すぎる概念は、いつか粉末出汁になる。

そこで本稿では、現代日本文化に蔓延する「寺山っぽい」を、あえて真面目に分類してみたい。

ただし、分類名はふざけている。
真面目な顔でふざけるのが、こういう話にはいちばん礼儀正しい。


前提:「寺山っぽい」には複数の意味がある

まず、「寺山っぽい」と言うとき、実際にはかなり違うものが混ざっている。

たとえば、寺山修司本人の作品に直接関わっているもの。
これは当然、寺山度が高い。

一方で、寺山の周辺にいた美術家や音楽家の影響が強いものもある。
これは「寺山本人」というより「寺山圏」である。

さらに、寺山とは直接関係ないが、見世物小屋、昭和アングラ、耽美、倒錯、少女幻想、赤黒ポスターなどの記号によって「寺山っぽく見える」ものもある。

そして最後に、ただ暗いだけ、ただ母が出るだけ、ただ昭和っぽいだけのものまで寺山扱いされることがある。

これはもう寺山ではない。
雑な文化批評である。

したがって、ここでは「寺山っぽさ」を以下のTierで整理する。


令和最新版・寺山Tier定義

以下、順に見ていく。


SSS 寺山

ここは説明不要である。

寺山修司本人。
以上。

具体的には、『書を捨てよ、町へ出よう』『田園に死す』『毛皮のマリー』『家出のすすめ』『あゝ、荒野』、短歌、天井桟敷、映画、ラジオ、競馬評論、あの一連の虚実皮膜の運動すべて。

ここに他人を入れてはいけない。
SSSは本尊である。
寺山本人を寺山Tierに入れるのは当たり前すぎるが、神棚の中央に本尊を置かない宗教はだいたい危ない。


SS 神山

ここが重要である。

神山とは、「寺山っぽいもの」ではない。
むしろ、寺山を寺山たらしめている上位概念、源流、隣接する神々である。

ここには次のような名前が入る。

美輪明宏。
『毛皮のマリー』の肉体的中心であり、寺山的な耽美、異性装、聖性、毒、舞台性を身体ごと背負う存在である。美輪明宏は寺山っぽいのではない。寺山が美輪明宏に向かって書いた、と言うべき領域がある。

J・A・シーザー。
寺山修司以後の「寺山っぽい音」の多くは、かなりの割合でシーザーっぽい。合唱、呪文、反復、演劇的高揚、不穏な祝祭。『少女革命ウテナ』を見て「寺山っぽい」と感じるとき、その感覚のかなり深いところにJ・A・シーザーがいる。

横尾忠則、宇野亞喜良、粟津潔、金子國義。
後世が「寺山っぽい」と感じるビジュアルの多くは、寺山本人だけでなく、寺山周辺の美術家たちが作ったものでもある。赤、線、少女、ポスター、見世物、サイケ、耽美。ここを区別しないと、なんでも寺山になってしまう。

ボルヘス、ガルシア=マルケス、ロートレアモン、ランボー、アルトー、ジュネ、コクトー、フェリーニ。
海外側の神山である。迷宮、偽書、魔術的現実、悪魔的比喩、少年詩人、残酷演劇、倒錯の聖性、鏡、サーカス、記憶、夢。寺山の周囲にある文学的・演劇的・映画的宇宙を考えるなら、このあたりは神棚に置くしかない。

唐十郎、土方巽。
日本アングラ隣国の王たち。寺山と同時代に、演劇や身体表現を制度の外へ押し出した巨大な存在である。寺山ではない。しかし、寺山っぽさを分解すると必ずこのあたりの成分が出てくる。

江戸川乱歩、夢野久作、澁澤龍彦、稲垣足穂、中井英夫。
見世物、猟奇、幻想、倒錯、博物誌、少年、月、虚構短歌。後世のサブカルが寺山と混同しがちな成分の発生源でもある。

そして忘れてはいけないのが、

菅貫太郎/一条三位/麿。

これは特殊な神山である。
『田園に死す』に出演した菅貫太郎の顔面が、後年『水戸黄門』の一条三位を経て、ネットミームの「麿」として転生する。寺山映画の顔が、公家悪役を経由して、インターネットで「画像も貼らずにスレ立てとな」と言い出す。

これは思想的源流ではない。
しかし、昭和異形顔面がネット上で神格化するという意味では、完全に神山である。

寺山本人が見たら、たぶん少し悔しがる。
現実のほうが前衛的な盗作をしてきたからである。


S ガチ山

ここからは、寺山本人との関係がかなり明確なものになる。

浅川マキ、カルメン・マキ。
寺山作詞曲を通じて、寺山の言葉が音楽のなかに直接入り込んでいる。新宿、夜、孤独、猫、母のなさ、ブルース。ここは「寺山っぽい」ではなく、寺山が歌のなかにいる。

毛皮のマリーズ、ドレスコーズ、志磨遼平。
バンド名からして『毛皮のマリー』圏であり、志磨遼平は寺山の未上演音楽劇『海王星』にも関わっている。これはもう、かなり正統な後世寺山である。

『あゝ、荒野』映画版。
原作が寺山修司なので、これは当然ガチ山である。現代化されていても、血統書ははっきりしている。

『あしたのジョー』主題歌まわり。
寺山が作詞に関わった大衆文化の強い例である。ボクシング、少年、燃え尽き、敗北、都市の底。寺山がサブカル以前の大衆文化に刺さっていたことを忘れてはいけない。

このTierは、寺山の名前を出しても怒られにくい。
むしろ出さないほうが不自然である。


A スゴ山

Aは、寺山直系ではないが、かなり濃い血縁や自覚的引用があるもの。

『少女革命ウテナ』。
J・A・シーザーの音楽が入っている時点で、寺山圏との接続は非常に強い。ただし、ウテナを全部寺山にするのは危険である。少女漫画、宝塚、学園、決闘、ジェンダー、幾原邦彦の演出論など、別の要素も巨大だからだ。
それでも、ウテナはAでいい。寺山判定機を通すと、かなり濃い反応が出る。

幾原邦彦作品の一部。
『輪るピングドラム』『ユリ熊嵐』『さらざんまい』などは、寺山というより、寺山以後の演劇的・象徴的・反復的アニメ表現として見たほうがよい。ただ、寺山の名を出す意味は十分にある。

cali≠gari。
ここはかなり面白い。寺山単体ではない。江戸川乱歩、横溝正史、澁澤龍彦、ニューウェーブ、ヴィジュアル系、悪趣味、昭和猟奇、アングラ文芸がごった煮になっている。
つまり、cali≠gariは寺山鍋というより、寺山も沈んでいる闇鍋である。

アーバンギャルド。
寺山が様式美化された後のサブカルを、さらにポップミュージックとして様式化した存在。血まみれセーラー、都市、少女、病、電子音。寺山本人というより、「寺山以後に寺山らしさがファッション化した世界」を自覚的に扱っている。

筋肉少女帯/大槻ケンヂ。
寺山、乱歩、夢野久作、ナゴム、特撮、オカルト、思春期の自意識が混ざる。寺山っぽいというより、「寺山も読んだ人間が、別の怪物になった」感じがある。

Plastic Tree「虚を捨てよ、町へ出よう」。
これはタイトルの時点でかなり露骨である。『書を捨てよ、町へ出よう』型のパロディとして、寺山記号をきちんと使っている。

sukekiyo×万有引力。
寺山の演劇的後継団体と実際に接続しているので、ここもAに置ける。

『さよなら絵梨』。
藤本タツキ作品のなかでは、『ルックバック』よりこちらのほうが寺山・ボルヘス寄りである。現実と映画、死者、嘘、編集、虚構の侵犯。かなり神山圏に近い。


B フツ山

Bは、寺山で読むことはできる。
ただし、寺山だけで読むと負ける。

『エヴァンゲリオン』。
母、少年、閉塞、自己言及、舞台的空間、実写、内面劇。寺山で読める要素はある。
しかし、エヴァは特撮、SF、オタク文化、精神分析、セカイ系、庵野秀明の私小説性があまりにも大きい。寺山だけで読むと、エヴァの大事な部分をかなり落とす。

サカナクション。
都市、夜、文学性、身体性、反復、メディア感覚。寺山味を感じる瞬間はある。ただし、サカナクションを寺山で閉じると、クラブミュージックや現代都市の感覚が痩せる。

劇団イヌカレー/まどマギ魔女空間。
コラージュ、紙芝居、箱庭、見世物小屋的な異界。寺山っぽいと言いたくなる気持ちはわかる。ただし、東欧アニメ、絵本、少女趣味、アニメ的記号なども大きい。

戸川純/ゲルニカ。
寺山・夢野・澁澤的なアングラ趣味を80年代ニューウェーブに変換した存在として読むことはできる。ただし、戸川純は戸川純である。ここを寺山に回収しすぎると、あの特異な声と身体が消える。

黒色すみれ。
耽美、少女、クラシック、サーカス、人形。寺山っぽく読まれやすいが、むしろ「寺山っぽく売られたり読まれたりした」側面もある。

丸尾末広、『少女椿』、ライチ光クラブ周辺。
見世物小屋、昭和猟奇、少年、倒錯。寺山と近い棚にはある。ただ、乱歩、夢野、丸尾、東京グランギニョルなどを分けずに全部寺山にするのは雑である。

『ルックバック』。
これは寺山顔ではない。サーカスも出ないし、母も前面には出ない。
しかし、創作が現実を救えないことを知りながら、それでも創作で死者に手を伸ばす話としては、かなり強い。寺山というより、ボルヘスを読んだジャンプ+である。B上位。

家出のするめ、テラシュー。
これは商品化された寺山である。
寺山修司がするめやシュークリームになる。文化とは恐ろしい。
ただし、これはこれで正しい弔いの一種かもしれない。噛めば噛むほど味が出る文学者、というのは案外かなり寺山である。


C 雑山

Cは、「気持ちはわかるが、それを寺山と言いすぎると危険」な領域である。

どん兵衛/どんぎつね異界CM。
狐、雪、別れ、舞台的空間、美輪明宏的ナレーション、昭和アングラっぽい気配。寺山の匂いはする。
しかし、これは寺山というより、民話、昭和CM、異界演出、広告的な安全なアングラ味である。
つまり、寺山ではない。
ただし、寺山出汁としてはよくできている。

椎名林檎。
旧字、昭和歌謡、着物、歌舞伎町、女、毒、演劇性。寺山にされやすい。
だが、椎名林檎は広告、歌舞伎、ジャズ、歌謡、バンド、セルフプロデュース、都市的身体感覚などが大きい。寺山だけで読むと、かなり雑になる。

BUCK-TICK。
耽美、黒、退廃、異界、ゴシック。寺山棚に置きたくなる気持ちはわかる。
しかし、BUCK-TICKはニューウェーブ、ゴシック、デカダンス、ヴィジュアル系、宇野亞喜良的美術など、別の回路が強い。

女王蜂。
昭和興行、異性装、歌謡、緞帳、毒、クィア性。寺山と言いたくなる瞬間はある。
ただし、宝塚、ディスコ、ファンク、少女漫画、現代ポップの要素を無視して寺山にしてしまうと、かなりもったいない。

水星の魔女、レヴュースタァライト以後の少女決闘系。
ここは寺山というより、ウテナ以後である。
寺山 → ウテナ → 後続作品、という系譜で遠くに寺山はいるが、直接「寺山」と呼ぶには距離がある。

Cは、批評が最も事故りやすいTierである。
なぜなら「なんとなく言いたい」からだ。
なんとなく言いたい寺山は、だいたい危ない。


D エセ山

Dは寺山記号だけの世界である。

「スマホを捨てよ、町へ出よう」
「ネットを捨てよ、町へ出よう」
「会社を捨てよ、町へ出よう」
「布団を捨てよ、町へ出よう」

このあたりの量産タイトルである。

もちろん、パロディとして機能している場合もある。
しかし、あまりにも便利すぎる。

「○○を捨てよ、町へ出よう」は、現代日本語における寺山構文である。
使った瞬間、何かを言った気になる。
だが、たいていの場合、言っているのは「外に出よう」だけである。

また、赤黒配色、サーカス風フォント、旧字、狐、雪、母、田舎、見世物小屋、血まみれセーラー服などを並べただけで「寺山っぽい」とするのもDである。

それは寺山ではない。
寺山風ふりかけである。


E 嘘山

最後がE、嘘山である。

ここまで来ると、もはや寺山ではない。

「母が出るから寺山」
「閉塞感があるから寺山」
「演劇っぽいから寺山」
「昭和っぽいから寺山」
「変な画面だから寺山」
「サブカルっぽいものは全部寺山」

これは危険である。

寺山修司は巨大だが、巨大だからといって何でも飲み込ませていいわけではない。
なんでも寺山にすると、寺山本人の異様さも、後続作家の固有性も、両方ぼやける。

「寺山っぽい」は便利な言葉だ。
しかし、便利な言葉ほど、使う側の怠慢を隠す。


では、なぜ我々はなんでも寺山と言ってしまうのか

理由は簡単である。

寺山修司が本当に多すぎるからだ。

  • 短歌がある。

  • 演劇がある。

  • 映画がある。

  • 母がいる。

  • 少年がいる。

  • 家出がある。

  • 故郷がある。

  • 都市がある。

  • 虚構がある。

  • 死者がいる。

  • 見世物がある。

  • 広告がある。

  • ボクシングがある。

  • 競馬がある。

  • 美輪明宏がいる。

  • J・A・シーザーが鳴っている。

  • 横尾忠則が貼られている。

  • 宇野亞喜良が線を引いている。

  • 菅貫太郎がこちらを見ている。

  • そしてネットのどこかで麿が怒っている。

これだけ揃っていれば、そりゃあ何でも寺山に見える。

しかし本当は、「寺山っぽい」を分解したほうが面白い。

  • それは寺山なのか。

  • シーザーなのか。

  • 横尾なのか。

  • 宇野なのか。

  • 乱歩なのか。

  • 夢野なのか。

  • 澁澤なのか。

  • ボルヘスなのか。

  • フェリーニなのか。

  • 唐十郎なのか。

  • ウテナ以後なのか。

  • それとも、ただ赤黒いだけなのか。

この分解をしないまま「寺山っぽい」と言うと、すべてが同じ味になる。

寺山汁である。


結論

寺山修司は、たしかに巨大である。
だが、巨大なものほど丁寧に扱わなければならない。

「寺山っぽい」と言うこと自体が悪いわけではない。
むしろ、その言葉が開く回路はたくさんある。寺山を通じて、演劇、短歌、映画、美術、音楽、広告、ネットミームまで接続できるのだから、こんなに便利な文化的ハブもなかなかない。

問題は、そこで止まることである。

寺山っぽい。
では、どの寺山か。
映画の寺山か。
短歌の寺山か。
天井桟敷の寺山か。
J・A・シーザー経由の寺山か。
横尾忠則のポスターとしての寺山か。
宇野亞喜良の線としての寺山か。
ボルヘス的迷宮としての寺山か。
それとも、単に「なんか変」なだけなのか。

そこを分けるだけで、批評は少しだけ健康になる。

最後に、令和最新版の寺山Tier表をもう一度置いておく。

寺山修司は、すべてを飲み込むための名前ではない。
むしろ、世界を疑うための名前である。

だからこそ、なんでもかんでも寺山と言う前に、いったん考えたい。

これは本当に寺山なのか。

そしてこの記事は、もちろん「嘘山」である。


追記 2026-05-30

ジャック・プレヴェールについてコメントいただきました。大事なものを見落としていたようです。
私の「嘘山」が露見する…

夷撫悶汰、じゃなかった、イブモンタン聴いて出直します。

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