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顔の残らない科学者、ロバート・フック。 「細胞」を名づけた男の知られざる仕事【Vol.1】

「細胞」を英語で cell といいます。

この言葉を、生物学の文脈で最初に使った人物の名前を、ご存じでしょうか。

ロバート・フック。1635年生まれのイギリスの科学者です。

同時代のニュートンやボイル、ハレーの顔を、私たちは肖像画で知っています。ところがフックだけは違います。

現在、フック本人のものと確認された肖像画は、一枚も残っていません。

これほど多くの仕事を残し、王立協会の中心にいた人物の顔が、分からないのです。なぜでしょうか。その謎は Vol.2 で追いかけるとして、今回はまず、フックがどんな仕事を残した人物だったのかを見ていきます。

ノミの絵で、ロンドンを驚かせた男

フックは30歳のころ、『顕微鏡図譜(ミクログラフィア)』という本を出版し、異例の評判となりました。

そこに描かれていたのは、ノミ、シラミ、ハエの目、ハチの針——顕微鏡で拡大された、精密画の数々です。なかでもノミの図版は、折りたたんで収録しなければならないほど大きなものでした。

海軍高官サミュエル・ピープスは日記に、この本を「これまで読んだ中で最も独創的な本」と書き記し、夜中の2時まで読みふけったと記録しています。

現代の私たちは、ノミやシラミに実際に遭遇することはまずありません。本や映像で見ることはあっても、暮らしの中で出会う機会はほとんどないでしょう。でも当時のヨーロッパでは、どんな高貴な人にもノミがいました。ただし肉眼では、それは「飛び跳ねる点」としか認識されていなかったのです。

その点が、拡大されて姿を現した。

分厚い装甲をまとい、鋭い棘を生やした異形の生き物。今の言葉で例えるなら、SF映画に出てくるエイリアンのような姿です。それまで見えなかった世界を鮮烈な図版で示したこの本は、科学書としては異例の人気を集め、多くの学者や聖職者が、フックの顕微鏡を見ようと詰めかけたといいます。

この時代、生物界はまだ神や魔術が支配する世界でした。人々はこの奇怪な生き物を創り出した創造主の力に、感嘆したのです。

そして同じ本の中で、フックはコルクを薄く切り取り、自作の顕微鏡でその薄片を観察します。そこに規則正しく並んでいたのは、蜂の巣のような小さな区画でした。彼はそれを「小さな箱」と表現し、cell と名づけました。

これが、生物の構造に cell という言葉が使われた最初の例とされています。ただしフックが見ていたのは、生きた細胞そのものではありません。すでに死んだコルクの組織に残された、細胞壁と空隙でした。

ちなみに cell の語源はラテン語の cella(小部屋)です。後世にはしばしば「修道院で修道士が使う小部屋」になぞらえて語られますが、フック自身がそう書いたのかどうかは、はっきりしません。名前の由来として広く知られている説明のひとつ、というくらいの距離感でとらえてください。

ちなみに『顕微鏡図譜』が出版されたのは1665年。ペストが大流行し、ニュートンがウールスソープに引きこもっていた、あの「驚異の年」と同じ年です。

「ボイルの法則」を支えた手

フックの仕事は、それだけにとどまりません。

化学の教科書には「ボイルの法則」が登場します。温度が一定なら、一定量の気体の圧力と体積は反比例するという法則です。

ただし、この法則も一人だけの仕事から生まれたものではありません。圧力と体積の関係については、リチャード・タウンリーとヘンリー・パワーが先に考察していました。ボイルはさらに実験を進め、その実験装置を設計・製作した中心人物が、助手のフックでした。フックはボイルとともに、測定にも携わっています。

現在その関係は「ボイルの法則」と呼ばれていますが、その成立を支えた実験には、フックの技術と労力が欠かせませんでした。

さらに彼は、空気ポンプ、気圧計、望遠鏡、顕微鏡と、多くの装置を改良し、発明しました。時計の精度を高める研究にも取り組みました。そして王立協会の実験主任を務めました。毎週の会合ごとに新しい実験を用意して見せるという、途方もない仕事です。

彼はどこからどう見ても、一流の科学者でした。

顕微鏡で新しい生物の姿を描き、気体の性質を実験で確かめ、時計やポンプまで設計する——ひとつの分野にとどまらず、手を動かしながら次々と成果を残していく。それが、ロバート・フックという科学者のやり方でした。

専門分野に細かく分かれて研究が進む現代からすると、ずいぶん自由で、贅沢な仕事のしかたにも見えます。もし彼が今の時代に生まれていたら、生物学者、化学者、エンジニアのどれを名乗っていたでしょうか。

ところが、この一流の科学者は、同時代のもうひとりの天才と、深く対立することになります。アイザック・ニュートンです。

二人のあいだに何があったのか。そして、なぜフックの肖像画が一枚も残っていないのか——その謎は、Vol.2でお伝えします。

新刊『天才ニュートンの頭の中 1
ニュートンが選んだ数学の言葉〜プリンキピアを紐解く〜』

『天才ニュートンの頭の中 1
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この秋発売予定です。

フックのような同時代の科学者たちとの関わりも、本書の随所に登場します。


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