論語とダーウィン―勇気について― 陽貨篇 17-23
論語 陽貨篇17-23
子路曰、君子尚勇乎。子曰、君子義以爲上。君子有勇而無義爲亂。小人有勇而無義爲盜。
【書き下し文】
子路が曰わく、君子、勇を尚ぶか。子曰わく、君子義を以て上と為す。君子、勇有りて義なければ乱を為す。小人、勇有りて義なければ盗を為す。
【一般的な現代語訳】
子路がたずねた。
「君子は勇をたっとぶものでございますか。」
先師がこたえられた。――
「君子にとって何より大事なのは義だ。上に立つ人に勇があって義がないと、反乱を起し、下に居る人民に勇があって義がないと盗みをする。」
下村湖人『現代訳論語』(青空文庫より)
本記事のタイトルは『論語とダーウィン』とした。進化論を唱えたダーウィンと倫理や道徳を説いた孔子を並列に論じることには両者の親和性が低いように感じられる方がいらっしゃるかもしれない。
しかし、実はダーウィンの著作には勇気という徳について論じている箇所があるのだ。勇気という徳には進化論的な起源があるという趣旨である。具体的には、『人間の由来(The Descent of Man)』という著作の第3章「道徳感覚」から第5章「原始時代および文明時代における知的・道徳的能力の発達について」にかけて書かれている。引用しよう。
if (other circumstances being equal) the one tribe included a great number of courageous, sympathetic and faithful members, who were always ready to warn each other of danger, to aid and defend each other, this tribe would succeed better and conquer the other.
(日本語訳)
もし(他の条件が同じであれば)勇気があり、同情的かつ忠実で常に他のメンバーに危険を知らせたり、援助したり、互いを守ろうとする者をより多く抱える部族の方が成功し、他の部族を征服したことだろう。
Chapter V. On The Development Of The Intellectual And Moral Faculties During Primeval And Civilized Times.より
要するに、原始人の世界において、勇敢な個体を多く抱えた集団のほうが他の集団との生存競争で有利だった、という話である。現代の科学ではこの見方にどの程度妥当性があるかは分からないが、とりあえず直感的には想像のつく話ではある。さらに、ダーウィンはこうも言っている。
As during rude times no man can be useful or faithful to his tribe without courage, this quality has universally been placed in the highest rank…although in civilised countries a good yet timid man may be far more useful to the community than a brave one, we cannot help instinctively honouring the latter above a coward
(日本語訳)
未開な時代には、勇気なくしては自分の部族にとって有用でも忠実でもありえなかったので、勇気という性質は普遍的に最高位に置かれてきた(中略)文明国においては、善良だが臆病な男は勇敢な者よりも共同体にとってはるかに役に立つ可能性があるが、それでも我々は本能的に勇敢な者を臆病者よりも賞賛せずにはいられない
The American savage voluntarily submits to the most horrid tortures without a groan, to prove and strengthen his fortitude and courage; and we cannot help admiring him
(日本語訳)
アメリカの野蛮人※が自らの意志で最も恐ろしい苦痛に耐えて不屈・勇気の精神を強化し証明するとき、我々はそれを称賛せずにはいられない
※アメリカ先住民のこと
ダーウィンも19世紀の西洋人なので、アメリカ先住民をSavage(野蛮人)と見下してはいるが、それでもその「野蛮人」が勇気を示す場合には本能的に彼らを称賛せざるを得ないという。しかし、それよりも目を引くのは、this quality has universally been placed in the highest rank(勇気という性質は普遍的に最高位に置かれてきた)というかなり強い普遍性の主張だ。
ダーウィンの主張をまとめよう。原始時代において、勇気を持たない個体が集団に貢献することは不可能であり、勇気ある個体を多く抱える集団がそうでない集団を淘汰してきた。それは現代でさえ、我々が勇気ある者を称賛し続ける理由でもある。文明や時代に関わらず、勇気という徳は常に人類の徳の最上位として普遍的にたっとばれてきた徳である。勇気についてのダーウィンの見解はこういった具合に総括できそうである。
さて、このダーウィンの主張に真っ向から反するのが冒頭の論語『陽貨』篇の一節である。改めてみてみよう。
子路曰、君子尚勇乎。子曰、君子義以爲上。君子有勇而無義爲亂。小人有勇而無義爲盜。
【現代語訳】
子路がたずねた。
「君子は勇をたっとぶものでございますか。」
先師がこたえられた。――
「君子にとって何より大事なのは義だ。上に立つ人に勇があって義がないと、反乱を起し、下に居る人民に勇があって義がないと盗みをする。」
先に確認しておくと、孔子も別に憶病はすばらしいとか、勇気は悪だとか言っているわけではない。孔子は勇気を否定しているわけではないが、勇気を統制する上位の徳として「義」がなければならないとしている。その理由として、統治者階級の者に勇があって義がないと乱を起こし、被統治者階級の者の場合は、勇があって義がないと盗みを働くということを言っている。孔子の思想は「文化・文明に関係なく勇気は人類の徳の最上位に置かれてきた」というダーウィンの主張には当てはまらない事例になっているといえよう。ちなみに、この『陽貨篇』23節の直後の24節でも、孔子は悪勇而無礼者(勇にして礼なき者を憎む)と述べている。
孔子は「義」によって統御されていない「勇」は「乱」、または「盗」であると述べたが、ではその「義」とは一体何なのだろうか。「義」という漢字の上部は「羊」であり、下部は「我」になっている。「我」はここでは生贄の羊を切り分けるためのギザギザのほこ(ノコギリという説もある)を表している。

漢文学者・東洋学者の白川静(1910-2006)は、「義」という漢字について、神に供える犠牲の羊に欠陥がなく、神意にかなうことから「義しい」という意味が生じたと説明している。ここから、「義」を単なる個人の主観的判断ではなく、共同体が共有する「正しさ」の基準として考えてみたい。つまり、犠牲の羊について、一人が「生贄にふさわしい」と認識するだけではそれは主観に過ぎず、みんながそうであると認めなければならない。「義」とは単独の主体の認識ではなく、集団に共有された認識である。それを想起すれば、近代的なイデオロギー(-ism)の訳語として、「主義」という訳がなされたのも納得がいく。集団に共有され、客観世界を形成した認識はイデオロギーと化す。本記事では『義』を、個人の主観を超えて、その社会において認められた認識の体系という意味で、イデオロギーとして捉えてみたい。
さて、孔子は「勇」は「義」によって方向づけられていなければならない、とそれが当為・規範であるかのように述べた。しかし、人間が意識的に道徳的規範として勇を義に従わせるだけでなく、そもそも勇は義に規定されている面もあるのではないか。というのも、勇気は「恐怖を克服する能力」とでも定義できるが、人が何に恐怖を感じるかということ自体がイデオロギー(=「義」)の支配下にあるからだ。つまり、勇気も社会から完全に独立した純粋な心理能力ではないということである。
例えば、近代以前の人間は怨霊や妖怪の類を畏怖していたが、現代人であればどんな臆病者でも幽霊や妖怪を真剣に恐れることはほとんどない。現代では怨霊や妖怪といったイデオロギーは力を失い、科学というイデオロギーが取って代わっているからだ。「科学はイデオロギーではなく、真理だろう」と批判なさる方もいるかもしれないが、この問題に脱線すると話が長くなるので踏み込まない。
現代人が怨霊や妖怪を恐れないのは、近代以前の人間よりも勇気があるからではなく、もはやそれら超自然的な存在への畏怖というイデオロギーがインストールされていないからというだけである。もちろん、何を恐れるべきで何を恐れないべきか、何において勇気を発揮するべきかが社会的に規定されている事例は他にも無数にある。呪術的な禁忌を破ることや神への冒涜は近代以前には恐れられていたが、現代では必ずしもそうではない。戦場で勇気を発揮することは普遍的に価値ある事とみなされてきたといえるが、その背景にあるのは近代以前なら自身や一族の名誉を守れないこと、近代以降なら国民国家を裏切ることへの恐怖であり、異なっている。
これらの事例を考えれば、孔子が勇の上位原理として義を設定したのは、単なる道徳的命令としての話だけではなかったと考えるのも決して飛躍が過ぎるとは言えないのではないか。『陽貨篇』23節の直後の24節で孔子が悪勇而無礼者(勇にして礼なき者を憎む)と述べていることには先ほど触れたが、この箇所との(孔子の中での)内的整合性もみえてくる。「礼」というイデオロギーをインストールされていない君子は反乱を起こし、小人がそうである場合は盗みを働く、というふうに読み解くことができるだろう。
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