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業と輪廻転生など分からないことはとりあえず仮定しておく

従来の仏教では、ブッダの超越的な智慧で確認したとされる業と輪廻転生などの常人には分からない超越的な智慧の概念が出てきます。

日本の仏教学者などは、「そのような非科学な概念はブッダは説かなかった」と自説を述べる場合もありますが、初期仏教経典を読むと明らかに業や輪廻転生については何度も言及されています。

これらについては、〈苦を受け流す仏教〉ではどのように扱うかについて語ります。


業と輪廻転生についての簡単な説明

宗派によって多少解釈は違いますが、基本的には仏教では通説的に業と輪廻転生の世界観を前提にして苦しみの輪廻転生から抜け出すための教えを説いています。

身口意の三業

業とは身口意の三業といって、身体による行為と言葉による行為と心で考えたりする行為の三種類の意図的に行う行為のことです。

シンプルに説明すれば、意志による行為を行うと何らかの潜在力(ポテンシャル)が溜まり、それが未来に何らかの影響をもたらすという仏教の概念です。

善因善果と悪因悪果の原則

伝統的な仏教では、良い行いをすれば良い結果に繋がるだろうという善因善果という考え方と、悪い行いをすれば悪い結果に繋がるだろうという悪因悪果という業の果報の原則が説かれています。

業と輪廻転生は超越的な智慧がないと分からない

しかし、業がどのタイミングでどのような果報をもたらすかどうかは、条件次第でもあり不確定要素があるので、ブッダや最終解脱者の超越的な智慧がないと見極めることは非常に困難であるとされています。

厳しい瞑想修行をして、業の果報や輪廻転生を知る神通力(超能力)を得ないと分からない超越的な智慧だとされています。

業と輪廻転生の関係

伝統的な仏教の世界観では、全ての生命は無始なる輪廻の世界で転生を繰り返しながら、無数の行為をして、無量の業を相続しているとされています。

業とは、シンプルにいえば因果法則のことです。

生を因として死という結果が起きて、死を因として次の生存状態という結果に繋がるという連鎖反応があり、自らの生き方(行為・業)によって変化が起きて境遇が変動するというのが仏教の輪廻転生です。

五道や六道輪廻について

初期仏教では、生命が輪廻転生する次元を①地獄、②畜生、③餓鬼、④人、⑤天の五道で説明していて、大乗仏教では、①地獄、②餓鬼、③畜生、④修羅、⑤人、⑥天の六道で説明しています。

現代風に簡略化して説明すると、自らの行為によって精神的な境遇が良くも悪くも変動することが五道なり六道なりで表現されているという風に解釈することができます。

輪廻転生は分からなくても、スケールダウンして今の自分の行為によって精神状態が変動するという意味ならば理解しやすいと思います。

暗いことばかりを考えていたり、悪い行為を繰り返したりしていると暗い精神状態や後ろめたい精神状態になってしまうことは誰でも経験があることだと思います。

とりあえずは、そのように今の自分でも分かりやすい形で理解するといいと思います。

仏教では実体が輪廻転生するとは説かない

仏教では、固定した実体がないので輪廻するという立場をとるので、永遠不滅の実体としての魂などがあることを前提にした輪廻転生論は間違いであるとされています。

自我意識とは、何か固定した実体があるものではなく、意志や行為や条件や環境などによって変化し続ける無常(変化する)で苦(不満足・不安定)で無我(因縁によって生じるので実体はない)という性質がある変化し続ける実体のない現象の流れだと捉えるのが仏教の考え方です。

例えば、タンスに足の小指をぶつけて痛みが生じても痛みの感覚は観察すれば生じて変化して消えていく一次的な現象だと分かるようなものです。

誰かに悪口を言われたとしても、それを何度も繰り返し反芻して思い出すから嫌な気持ちが持続するのであって、そのことに執着せずに過ぎたことだと受け流してしまえばいつかは忘れてしまうのです。

無因論や断滅論にも注意が必要

無因論(物事には原因や法則性はなく偶然起きる)や断滅論(死ねば全て終わる)などの見解は、仏教では物事の道理や道徳や努力を否定して人を堕落させる誤った見解であると扱っています。

物事に原因や法則性がなく偶然起きるなら科学も成り立たないし、行為に善悪がないなら道徳や倫理も成り立たなくなるし、どうせ死ねば全て終わりだから何をしてもいいと自暴自棄に陥る恐れがあるのでそれらは物事の道理を否定して人を堕落させる誤った考え方であると仏教では説いています。


確認できない事柄は否定せずに「そう説かれている」と仮定しておく方が安全

〈苦を受け流す仏教〉では、業と輪廻転生などの我々には今すぐに確認しようがない問題については、正直なところ分からないので「仏教ではそういう風に説かれている」と否定せずにとりあえず仮定しておくという態度を取ります。

これらの超越的な智慧に関する事柄については、今の自分には分からないからといって否定したり信仰するのではなく「今の自分には分からないけどブッダはそのように説かれているからそうだと仮定しておく」というのが理性的な態度でしょう。

ブッダの説く信仰の賭け

仏教にも、パスカルの信仰の賭けのような教えがあり「来世があるかないか?」について無戯論経(アパンナカスッタ)という経典では、「あると仮定して生きた方が安全である」と論証しています。

来世があった場合は、善い生き方をした人は天などの善い境涯に赴くだろうし、悪い生き方をした人は地獄などの良くない境涯に赴くだろうから、善い生き方をした方が得ということになります。

来世が無かった場合でも、善い生き方をした人は世間から善い人であると信頼され心穏やかに暮らせるが、悪い生き方をした人は世間に非難されたり処罰を受けたりするので、悪い生き方をするよりも善い生き方をした方が得であるという話ですね。

生きとし生けるものが幸せでありますように🙏

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