ヘイトスピーチの解消について再び家登氏に答え、戸田事件との異同を論じて「推し活」政治論に及ぶ
この記事は、5月17日の記事「五月祭騒動見聞録/個人抗議行動記録」(以下「前記事」)に対する家登みろく氏の引用リポストなどいくつかの反応にお答えしつつ、五月祭問題との関連でC.R.A.C.アカウントが引き合いに出した「戸田事件」との共通点および差異を検討し、さらには部分的に根を同じくする話題として、近年の政治運動が「推し活」と結びついていることの問題点と可能性をも論じるものです。
5月17日の記事は下記ですが、本記事だけでもお読みいただくことができます。
家登氏らによる反応への回答
前記事執筆の経緯について補足:「承認」と「個人」
事の起こりは、5月16日の東大五月祭一日目、帰路で私が次のポストを行ったことです。
この際なのではっきり書いておきます。私は日本共産党に投票したことが複数回あるけれど、少なくとも鍋倉・家登一派と決別しないかぎり選択肢からも外さなければならないと考えるようになりました。粗雑なカウンターが、丁寧な差別主義者をアシストしてしまっています。そこに勝ち目はない。
— 木村悠之介 (@earthcolor369) May 16, 2026
これがかなり拡散し、私が差別に抗わない人間であるかのように述べる反応(前記事末尾に一部例)も複数付きはじめる一方、反応に対して全ては返信しきれなくなってきたため、まとまった形で示すことにしました。その際、自身の主観的記録であることを前提とした一叙述を残し、自身が参政党講演会に対抗して行った内容も示すことで、前提や立場性をも開示しつつ、単なる反論にとどまらず広く何がしかの参考として読まれうる記事にしようと考えました。
後で簡単に「五月祭見聞録/個人行動記録」をまとめておこうと思います。
— 木村悠之介 (@earthcolor369) May 16, 2026
家登氏からの最初の引用リポストがありヘイトスピーチを阻止するための効果的方法を提示するようにという要請(前記事参照)が来たのは、このあと0時18分のことでした。そのため、あくまでも元々見聞録と行動記録を書く予定だったところに、家登氏への応答を付記する形としたわけです。
家登氏からは緊急性が強調されたため、そこから見聞録/行動記録全体の執筆を行い、5月17日に前記事を投稿、10時41分に家登氏へのメンションつきでポストしました。
そこから半日待機し、22時49分に家登氏の反応を確認しつつ下記のポストを行いました。
五月祭2日目が無事終わってよかったです。こちらの投稿も半日経ち、反応が落ち着いてきました。家登氏にメンションをつけておきましたが、引用リポストやリプライはありませんでした(昨日のポストに関する周囲のポストをたくさんリポストなされていたようです)。以降、この投稿も通知オフにします。
— 木村悠之介 (@earthcolor369) May 17, 2026
また、翌18日の朝には下記の補足を行いました。
補足。家登氏はこれだけリポストしているみたいです。
— 木村悠之介 (@earthcolor369) May 17, 2026
「れいわか参政党にでも投票しとけよ」とか投げかけられたらこうも言いたくなりますよ。 pic.twitter.com/6waBc4SrLr
すると、18日の10時03分に下記の応答がありました。
「共産党が鍋倉さんや私と決別しなければならない」と考えるほどであるのに、私がお尋ねした『より効果的な対処法』の根拠もない、自己承認欲求まみれのノートの執筆お疲れ様でした。
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) May 18, 2026
非常にがっかりしました。 https://t.co/dqrXuhAZoB pic.twitter.com/q4ifuyGMLT
前記事は見聞録/行動記録も含めて急いで書き上げ、そこに家登氏の応答を付したため、私としては答えていたつもりでも不十分に写った側面も確かにあるだろうと思い、他のいくつかの指摘への返答も組み込む形で、本記事を新たに執筆することにしました。
本論に入っていく前に、「自己承認欲求まみれ」という家登氏の評価にお答えする必要があります。自己承認欲求まみれとはどの部分を指すのでしょうか。
まず、具体的にそれらしき箇所を挙げた他の方の例です。
>(家登氏からの促しがあったため夜を徹してこの記事を書いていますが、そのあいだにも引用やリプライが増えているので、際限がありません)
— 仮🏳️⚧️🏳🌈🍉#日本共産党 (@kari_commun) May 17, 2026
こういう不要な自己憐憫がある時点で、もう理性的ではなく感情的な文章なんです。
被差別属性の人はそうした発信をSNS内外含め常に受けているんですよ。
これは、全ての引用やリプライに返信できないためnote記事をもって応答を代える場合がある、ということの理由を示すための一文です。「被差別属性の人」が受ける被害と比較可能なものでもないでしょう(質的にそちらの被害のほうがはるかに重いため)。前記事の最後に引いたような、差別に抗わない人間だというレッテル貼りも別種の軽微な暴力性を持つものではありますが、それをどのくらい念頭に置かれてのことかは分かりません。
家登氏が「まみれ」と述べていたことからすれば、記事全体の内容に関しての評価かもしれません。家登氏への応答という最後のくだりを除けば、記事の前編は自身が何を見て何を聞きえたかを叙述するもので、後編は自身の背景と抗議行動の内容を説明するものでしたから、確かに「自己」を主語にしたり開示するものではあります。
しかしそれは、「承認欲求」のためではありません。もし私が自己承認欲求に満ち溢れていたら、5月15日の官邸前アクションでも、16日の個人スタンディングでも、自分の写真を撮るなどして積極的にSNSで宣伝したことでしょう。そうではなく、いずれも現場に行ければそれでよしとし、SNSには報告していません。
前編は、集められる資料を網羅することでほうぼうで起こっていた事実を確定するタイプの記録(いずれ五月祭常任委員会や東京大学新聞社によりまとめられることを願います)とは別に、何を見て何を聞くことができたかというレベルでの事実を示す記録があってもよいのではないかという思想史学徒としての関心から書いたものでした。後編は、議論の前提として私がそもそもどういう背景の人間なのかを開示することで読解のための補助を提供しつつ、集団によらない一人でのスタンディング事例を示すことで、少しでも政治問題に関心がある人々(特に五月祭問題との関係で読むであろう東大生の層)へ参考になればということで書きました。そのような個人が増えていけば、特定の組織にコミットしているかどうかにかかわらず声を上げる人が増える、そのような意味での連帯が生まれていくことを期待してのことでした。
「個人として」抗議活動を行なった笑
— NT (@MJ76970620) May 17, 2026
大好きな「連帯」はどこへ行った笑
この方には、「勇気を笑うやつが一番ダサい」という鍋倉雅之氏の言葉も贈っておきましょう。
個人での抗議行動を選択した理由は前記事でも簡単に述べていましたが、後ほど改めて説明しなおします。
関連して、「併記」の問題にも触れておきます(この方は、この問題にかぎっては私からのリプライによりご納得いただきましたが、論点として重要なのでここで引きます)。
それぞれ全く次元の異なる問題であり、また五月祭の企画中止・全体中止について負っている責任も全く異なります。併記すればバランスがとれるという話ではありません。https://t.co/zb9scZPF50
— HRK (@on_and_under) May 17, 2026
世の中には両論併記が満ち溢れており、しばしばそれは、(どんなに不均衡な見解同士だったとしても)とにかく両側の対立する意見を載せたから自分はバランスがよく客観的なんだと見せようとする態度や、対立する意見同士をどっちもどっちと片付けて自分はそこから距離を取っていると示そうとする態度として表れることがあります。これらはいずれも併記のよくない例でしょう。
しかし私は、どの意見も載せることで「バランス」よくするというような目的ではなく、まさにこの方がおっしゃるような「全く次元の異なる問題」を「それぞれ」挙げたにすぎません。
党派的な目線からどのアクターが一番悪いかという犯人探しをする者(この方ではなく)の目からすれば、それ以外のアクターについても批判が示されていると犯人を相対化するものに見えてしまうことになりますが、そもそも別の次元において異なる形での責任の話をしている以上、互いに比較可能なものではありません。
個人としてそれぞれのアクターへの批判を示すというのは、どれかの味方となってどれかの敵となるのではなく、どのアクターからも反論される可能性を一人で引き受けるということです。
関連して、後の節で引くC.R.A.C野間氏は後述するようなイメージ戦略の問題に触れる者を「極右への萎縮」によるものだと述べています(五野井郁夫氏のポストをめぐる発言で、五野井氏は私の前記事を参照しているため、私にも向けられたものと考えてよいでしょう)。
確かに、前記事で触れたような靖国近くの交差点での街宣ヘイトは身がすくむもので、とうてい私一人では立ち向かえないものでしたから、野間氏のような専門家にお任せするしかありません。その点で人並みの恐怖はあります。
他方で私は、野間氏が「極右サークル」と呼んだ右合の衆のイベントに際し、関係者や参加予定者が集まる建物の出入り口横で抗議のスタンディングを一人で行ったわけです。しかもレイシズムやヘイトがダメだという当たり前のメッセージを超えて、「白虹日を貫けり」を掲げました。白虹事件の成り行きを考えれば、激昂する人がいてもおかしくない表現です。それでも極右への萎縮と呼ばれなければならないでしょうか。
投票と反差別をめぐって
下記は、前記事でポストを埋め込みした藤森氏からの反応です。
俺の投稿が共産党に投票した事を揶揄したって捉えられてる?
— 藤森太一/Taichi Fujimori ENOTERA店長 (@Taichi_handsome) May 18, 2026
「あの人たちと訣別しないと私みたいな良識派の票が減りますよ?いいんですか?」みたいな姿勢に対する「こっちは客だぞ」の比喩だったんだけどな。 https://t.co/wkveFxa4zF
「こっちは客だぞ」という比喩だとしたら、私の意図とは異なります。政党とそれに投票する人間の関係は、支払いへの対価を受ける「客」(他の何人かが用いていた表現ではカスタマー)ではなく、一人の主権者としてのものです。つまり、別に自分が投票しなくても党の活動による恩恵は受けられるので、客ではありません。主権者としての投票の権利は限られたもので、それを有効に行使したいと考える際に、この相手に付託しても大丈夫だろうかという疑念を示していたものと捉えていただければと思います。党からすれば軽微な一票で私が投票しなくとも影響ないでしょうが(なので不買運動にはなりえない)、私にとっては自分の主権を代弁者に預ける唯一の一票だということです。同じ考えの主権者も、そうでない主権者もどちらもいるでしょう。
投票に関するくだりでは最後に「党勢」にも触れたため、18日朝の時点での家登氏リポストにも見られるように、多くの人から言及を受けることになりました。ここでは2つ挙げておきます。
全部読みました。
— 仮🏳️⚧️🏳🌈🍉#日本共産党 (@kari_commun) May 17, 2026
通して、共産党や家登氏らに関しては「自治」を巡る議論もしくは方法論や印象論でしか批判されておらず、広い社会的な差別抑止や被害の実態など批判された観点に応えていないものだと感じました。
↓党勢と反差別をごっちゃにする、典型的な票ハラスメントの一例です。 https://t.co/syfQ1Hy8A7 pic.twitter.com/mrJcBHDwCf
「れいわ」も「差別主義者の政党」だと認めたように読めました。それに異論はないのですが、共産党員でもない人の揶揄を取り上げて「この人たちは本当に党勢を伸ばす気があるんでしょうか」と書くのはおかしな話。「〇〇一派と決別しないなら共産党を選択肢から外す」と言う人に何を言えばいいのか。 https://t.co/pE3pUavjIm
— mold (@lautrea) May 18, 2026
このくだりは、「れいわか参政党にでも投票しとけよ」という野間氏の揶揄に対し、「この人たちは本当に党勢を伸ばす気があるんでしょうか」と述べたものでした。
まず反差別との関係について。本当に反差別を求めるのであれば、冗談であっても参政党に投票しろなどと口にすべきではありません(れいわの場合はカタコト日本語動画のような問題があり、参政党と違って撤回しているだけ多少マシではある、という程度でしょう)。簡単な話で、「反差別を願うなら〇〇が気に入らなくても共産党に投票しろよ」とでも言えばよかっただけで、あろうことか参政党の名前を出すというのは反差別の観点からして本末転倒です。
そして、ご指摘のように野間氏が共産党員でないからといって、反差別という同じ目標を共有して動いているのであれば、決別しないにしても議会勢力としての共産党への投票を求めつづけるべきであり、参政党への投票を促してくるのは意味不明です。このように協力政党の潜在的支持者をすぐに敵視して嫌味の吐き捨てに走るのは、自己満足による参政党アシスト以外の何物でしょうか。私が参政党に投票しないからよかったものの。
抗議の場所・方法・内容と自治問題
「学生の自治ガー」と一部の抗議者を叩いておきながら学外者の木村さんが学内で抗議をするのはダブルスタンダードではないですか。
— ShiNTani@認識改革Lab🌹🍉🇵🇸 (@ninshikikaikaku) May 18, 2026
有効な代替的抗議手法も提示できていませんし、一部の抗議者を「粗雑なカウンター」と評したことは撤回すべきではないでしょうか。
これは、学生自治や大学自治という私の重視する理念を引き合いに私の行動との整合性を問う点で、内在的批判というべき側面を持ち、他の様々な反応に比べると筋のいいものです。これについては、どこで誰がどのような抗議をすることが自治の侵害にあたりうる(と私が考えている)のかを整理する必要があります。
まず、学園祭をめぐる自治には二つの次元があります。大学の自治と学生の自治です。大学の自治は、社会のなかの一機関としての大学が学問の独立を守るために、その機関としての意思決定において、国家権力や資本など外部のアクターによる介入をできるだけ避けるというものです。学生の自治は、大学構成員のうち教職員と学生の別を念頭に置いたもので、学生間の意思決定に対し教職員が介入しないというのが基本です。そのうえで、前記事で民青系全学連からのTCZの脱退(2012年)に言及したように、学外の学生組織によって学内の学生組織の意思決定が左右されないこと(あるいは左右されると取られるような状態を避けること)も含意されるといえます。同じく前記事で民青系のTCZ事務局員・理事の存在に触れたとおり、個々の学生レベルでの思想や他団体への所属とは別の話です。
ゆえに、自治組織の一つである五月祭常任委員会や、学内の学生団体として学園祭に参画する右合の衆、そして抗議者の学生たちは、それぞれ拠って立つ正統性のレベルには差がありながらも、いずれも学生の立場で意思決定を行うものです。神谷氏に講演をさせるかどうかというイベントの開催可否は、こうした学生当事者によって決定されるべきものでした。もしこの意思決定にまで学外からの介入を是とすると、今後逆の立場になった際に同様の介入を防げなくなる可能性があります。
ゆえに、ゲストの警備としてやってきていた参政党員が学生を恫喝したことは自治侵害として問題ですし、一方で正門前プロテストが講演中止を暗に求めつつもあくまでも学内の意思決定に際して直接に具体的な影響力を行使しようとしたわけでないことは、必ずしも自治侵害とは言えません。ゆえに、正門前であり構内ではないという形で学外と学内の線引きをアピールすることが重要でありました。
私の場合、講演会の開催是非は学内の学生たちによって決定されるべきだと考えていたため、中止を求めるよりは参加予定者に向けて参政党への異論を可視化することを目的とし、スタンディングを行った次第です。当然、意思決定が行われる場としての建物内には入っていません(構内に学外者がいること自体は学園祭にかぎらず普通のことですし、スタンディングをしていても排除されませんでした)。建物前でのスタンディングを行う予定だったので、もし正門前プロテストに加わったとして正門前と建物前での両方の写真が撮られSNSで拡散されてしまったら、正門前の(それまで自治との関係が議論になっていた)運動と建物前での抗議の関係について要らぬ憶測を招いてしまい、累を及ぼすのではないかと恐れました。それが、個人行動という形を選択した主な理由です。
自治については下記の疑問も寄せられました。
“警察力にも頼らない形で安全管理を行うべき”
— コーリー(贋) (@boguscorey) May 18, 2026
ここの理路がわからない、学生の行動ならばともかく学外者が構内に入って活動しているならば警察案件でしょう?
五月祭騒動見聞録/個人抗議行動記録|木村悠之介 @earthcolor369 https://t.co/H6OJnJuqV7
これは、単に構内なのかどこかの建物内なのかでも異なりますし、「活動」の内容次第でしょう。そもそも五月祭ということで学外者がたくさんいるタイミングです。先述した大学自治の原則から、警察力の導入は最小限に抑えられる傾向にあります。
今回の五月祭常任委員会が、爆破予告(後述するようにプロテストではなく愉快犯による可能性が高いです)について意思決定に時間をかけて全企画中止という判断を下したのも、警察力導入の是非という問題との兼ね合いがあったのではないかとの推測も見ます。このあたりは後日の情報公開を待つしかありません。
事実における二つのレベルとSNS時代:「粗雑」さのありか
家登氏のポストには次のようなリプライがついていました。
今回の学外抗議の目的はわりと丁寧に分析してあって、むしろそれゆえに今回のやり方の正しさが補強されてるように思えました。
— AWAZARD (@AWAZARD1977) May 18, 2026
たぶんパニックが冷めて読み返したら「あれ?オレ何してたんだろ?」みたいになるんじゃないかと思います。
同じ方からは直接のリプライもいただいています。
拝読しました。
— AWAZARD (@AWAZARD1977) May 18, 2026
要するに大学は自治空間であり学生の主体性が尊重されるべきということでしょう。
それは仰る通りで、①について学外抗議者は学生の主体性を奪うような行動はしていません。→
この方がおっしゃることは半分正しいです。学外、つまり正門前のプロテストについては、前記事をお読みいただけると分かるように悪いものだとは書いていません。党派的な攻撃を目的としていないため、何が何でも否定というわけではないのです。党派的な攻撃も増えていたなかで、それとは異なるレポートを提供したいという意識がありました。
正門前プロテストについては、(これは私に向けられたものではありませんが)下記のポストにも感心しました。
神谷の講演は中止になったわけですが、振り返るとケアの行き届いたスタンディング現場だった。
— たっつー@壊憲反対 (@kizuki11674) May 16, 2026
・飴やカステラの差し入れ
・女性に長く話す男性には複数名が監視の目、間に割って入る
・学生シッティングの状況を口頭連絡で知る#0516参政党プロテスト東大前#差別に抗うhttps://t.co/H6FBtBG47L
一方、プロテストの参加者で元日本共産党員である鍋倉氏ら数名が、講演会の予定されていった建物へ入って学生や参政党員の紛争に加わったことを抜きにして今回の件を語ることはできません(前記事では当時見ていたポストを元に水の差し入れのみに言及しましたが、実際は五月祭常任委員会と対峙するなどの行動もあったようです。むしろこの点は正式なご補足が欲しいところです。擁護者のあいだでどの事実を強調するかが異なっており、困惑します)。
まず、私が時系列的な記述で示したように、建物内での動きに鍋倉氏らが加わったのは12時頃と後発であるため、鍋倉氏が建物内での抗議そのものを主導していたという風聞は妥当ではありません。あくまでも主体は学生による抗議でした。
つまり、正門前プロテストについては抗議学生へのエンパワメントはありえたにしても直接の意思決定は左右せず、鍋倉氏らの建物入りについても、抗議側の頭数を後から補充したという程度のものでしょう(学生よりは屈強だったかもしれません)。建物入り前後の鍋倉氏は私の視界に入っていましたが、建物に直行するわけではなく同行者と談笑してうろうろしてから入っていったため、シットインに関して学生に危機が迫っているというような急報を受けて馳せ参じたわけではなかったようです。
実際のところ、五月祭常任委員会による講演会中止の意思決定には、後の全企画中止と同様に爆破予告(愉快犯としてあちこちに爆破や殺害予告を行なっているアカウント「ホロニャン」が犯行声明を出しているため犯人はホロニャンである可能性が高く、これもプロテストとは無関係)が強く影響していると思われるものの、右合の衆宛に届いたメールが右合の衆から五月祭常任委員会にはいつ共有されたのか、五月祭常任委員会宛に直接届いてはいたのかという点が不明なため、こちらの事実関係は後日の究明を待つほかありません。
ただ、それとは別に指摘すべき問題が残ります。鍋倉氏の建物入りが周囲にはどのようなイメージを与えるかという点への配慮が、プロテスト関係者の間で完全に欠如していたことです。
鍋倉氏は日本共産党を離党しており元党員という立場ですが、今回のプロテストを呼びかけた家登氏は単なる党員ではなく党のSNS講師という責任ある役職で、日本共産党員の肩書をSNS上で顕示しています。お二人は個々の現場で偶然会って連帯するというよりは、合同で活動する機会が多いようです(下記ポストは5月18日のもの)。
路哲きた〜
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) May 18, 2026
漫才コンビみたいになってるぞ! pic.twitter.com/DKNwQ3ix8x
鍋倉氏が離党しており、また建物内での抗議において必ずしも主要な役割を果たしていないにしても、建物の周辺や内部における鍋倉氏の特徴的な姿がSNSでクローズアップされたことにより、鍋倉氏が参加していた正門前プロテストとの関係、鍋倉氏と仲のよい正門前プロテスト呼びかけ人の家登氏との関係、そして家登氏がSNS講師を務める日本共産党との関係が連鎖的に想起されるのは自然なことです。実際の関与とはギャップのあるイメージが、このように生み出されてしまいます。それは、反共サイドの悪意ある歪曲だけでなく、鍋倉氏が離党していることや出来事の具体的な時系列を知らない一般学生のふわっとした捉え方によっても起こりうることです。
もし鍋倉氏が建物入りしていなければ、こうした発想の連鎖は起こらず、学生同士の対峙と参政党員による恫喝のほうに人々の注意が向き、正門前の穏やかなプロテストとはもう少し区別がなされていたはずです。
プロテスト呼びかけ人の家登氏は、プロテスト参加者の鍋倉氏による建物入りを止めることはできなかったのでしょうか。それとも鍋倉氏の突発的な独断専行なのでしょうか。元々学生の間で自治侵害への懸念が示されていたことを知るSNS講師としては、鍋倉氏の建物入りが回り回って日本共産党のイメージに累を及ぼす可能性を予見し、止めるべきだったのではないかと思います。鍋倉氏の入り方からしてプロテスト関係者たちが建物内の緊急性を感じていなかったのであれば、そのまま学生たちの抗議を信頼して待つべきでした。せめて、例えば水を差し入れるのだとしても鍋倉氏以外の目立たない同志だけに行かせるべきでした。
何が実際に起こっていたかということと、それを見た人々がどのようなイメージを抱いたかということは、それぞれのレベルにおける事実です(事実に反したイメージでも、そのイメージが持たれたということ自体は別種の事実)。擁護者は前者として、つまり自分たちが思う正しさの次元でどうであったかを強調しますが、後者として、他者の目線からどう捉えられるかを考慮し、両方の事実についてハンドルを握らないといけません。全ての人に誤解を解いて回るのは難しいため、まずは誤解が生まれないような振る舞いが求められるということです。
最初に言及したカウンターの「粗雑」さは、プロテスト参加者として有名な鍋倉氏が建物入りを行った事実が、学生自治への懸念を従前から示していた一般層にどう捉えられるかという点への思慮が欠如していたことを指しています。正門前プロテストではなく、建物入りが与えた効果が問題なのです。
活動を行う以上は、事実のみならずそれに対する認知の面でも正当性を得られるようにしてほしい、ということです。
下記は、「粗雑」の部分が説明不足ではないかと指摘してくださった方とのやりとりの一部です。私の趣旨をご理解いただくことができました。
補足をありがとうございました。広くTwitterでの反応を鑑みて考えてらしたのですね。どういう風に人々の「認知」が引っ張られるのかというのも、一つのポイントだと。
— 堪えしのぶ (@taeshinobu) May 17, 2026
逆に、実際には三橋貴明氏のような暴力的な関係者を抱え、今回の建物内でも党員による学生への恫喝があったのが参政党ですが、講演会中止後の民主主義ユースフェスティバルの投稿や新聞での声明に見えるように、大まかな情報だけを受け取っている層から見れば丁寧で礼儀正しいかのようなイメージを与えることに長けていたといえます。
SNS時代においては、こうしたイメージ戦略の問題が比重を増しています。下記のリプライが触れている、山添拓氏が軽微な違反で検挙されたことの過剰報道や、参政党の初鹿野裕樹氏による印象操作などがその例ですし、先ほどの方は、現在問題となっている高市陣営の動画問題にも言及していました。
いやいや、勝手踏切通るくらいで大ニュースにされたり、参政党議員が「沢山の仲間が共産党員により殺害された」とデマを書いてお咎め無しな社会なんですよ。存在しない揚げ足を取ってくる社会で共産党にばかり理性や自省を求めたってそれは支持には繋がりません。
— 仮🏳️⚧️🏳🌈🍉#日本共産党 (@kari_commun) May 17, 2026
→
無根拠なデマまでもがすぐに拡散されるSNS時代ゆえに、せめてそのなかで無用な誤解を増やさない立ち回りを、家登氏は考えるべきでした。
改めて、ヘイトスピーチをなくすためにはどうすればいいか
家登氏の問いに戻ります。
今回の講演会については、講演会開催可否の意思決定を学生に任せ、せいぜい間接的にエンパワメントするというのが最も効果的だったでしょう。それを超えて介入と取られてしまうと、一般学生の支持という点からマイナスであるためです。なので正門前プロテストではなく建物入りが問題でした。
なぜそこまでして学生自治に配慮する必要があるのかといえば、その理念を学生たちが重視しているためです。一致できる争点とは別に、相手が重視している理念をも最大限尊重したうえで、協力できるところを協力していくことが必要になります。喩えるならば、同じ「民主主義」という根本的な理念を共有する組織なのだから日本共産党内部での意思決定方法や選挙制度も大学のそれと全く同じにしろ、という要求をもし大学人が党に対して行なったら、それは党側の組織理念にそぐわないものとして反感を受けるのではないでしょうか。ある大きな理念を共有しているからといって、それぞれの場における他の理念を軽視してよいわけではありません。
ヘイトスピーチがなぜいけないのか。人を傷つける暴力だからです。人を傷つける暴力にはマイクロアグレッションやハラスメントのような他の形もあります。どれもがなくなるべきものです。大学には学問や教育、議会には規則制定や予算策定といった独自の手段があり、大学の自治や選挙での信任のように、それぞれの場における固有の理念や他のイシューの存在にも配慮しながら闘いを進める必要があります。今回の事例は、選挙で信任された人物が大学という場で講演を行う点で、通常の路上でのヘイトスピーチの阻止とは別の対抗策を考えていくことが不可欠だったでしょう(大学らしいやり方なら読み応えある批判ビラをたくさん配るという手もあり、主催者側のコントロール下に置かれる講演の場以外に、言論による対抗を活発化させていくべきでした。私個人は、講演会参加予定者に対する異論の可視化という形で小規模かつ後進のための実験としてやってみたつもりでした)。阻止や中止という方法だけに絞って論点を決めてはいけないように思います。
あとは、家登氏ならではのもっと効果的な方法もありえたように思いますが、それは本記事の終盤で述べます。
大学の例が表しているように、それぞれの役割と理念を尊重しあい、相手のところに自分の方法論を押し付けないこと、無用な反感を買わないように見え方を気をつけること、味方にできるはずの相手を馬鹿呼ばわりしたり敵として切り捨てたりしないことが、仲間内の結束を超えて諸組織や個々人の連帯を生み出し、誰か一人に「ついてい」く形ではなく社会全体がヘイトスピーチの解消へと向かっていくのではないでしょうか。
たたかいに勝つ方法は敵でなく味方を増やすこと。敵でない人をわざわざ敵にしたらあかん。憎悪の連鎖をうまないガンジーさんのたたかう平和主義は、じつは私たちの心の押し入れにしまわれているらしい。長谷川義史さんの『ガンジーさん』から学ぶ。 pic.twitter.com/BqUwKySQWp
— 大門実紀史(だいもんみきし) (@mikishidaimon) May 17, 2026
ここまで、自分たちが正しいことを行なっているかどうかを超えて、行なったことが他からどう見えるかをも意識したほうがよかったのではないか、ということを繰り返し述べてきました。このように切り分けたうえで両方を見ることが必要だと考えますが、下記のような異論もあるようです。
もう一点言いたいのは「パターナルな表現」とか「こう見えてしまうヘタな戦術」とか、そういう二次的な論点を一次的な論点(大学の自治、言論の自由、ヘイトスピーチの危険性)を議論しているところに混ぜるな。本末転倒でしかない。二次的論点は主体の側が後でふり返ること。
— HRK (@on_and_under) May 17, 2026
しかし家登氏が述べていたように、「悠長なことを言っているうちに、ヘイトスピーチによる人権侵害は日々行われています」。次から次へと向かう現場で同じ過ちを繰り返さないためには、後から振り返るなどと悠長なことは言わず、その場その場で見直していかなければならないのではないでしょうか。
さらには、振り返ることが本当にできているのかということも問題です。実のところ今回の五月祭問題は、一年前のある事件における戦術上の過ちを繰り返しているのではないでしょうか。
私は前記事でその事件を念頭に置きながらも、そちらの関係者に迷惑がかかることや、論点が五月祭問題を離れかねないことを懸念し、あくまでも関連ワード(「学校給食無償化」「選挙応援」)によって共通性を仄めかすにとどめていました。しかし、あるアカウントがその事件を五月祭問題と「同じ構図」だと明言していたので、私も論じておくことにします。
五月祭問題と戸田事件の異同
C.R.A.C.アカウントが言及した「戸田事件」とは何か
これ「戸田事件」と全く同じ構図ですよね。つまり、乗っかってるのではなく、本人が《「共産党の目立つアイコン」を血祭りに上げたいという欲望》を持っている。なぜそうなったか? 極右への萎縮です。 https://t.co/PTRgOuNfbC
— C.R.A.C. (@cractyo) May 18, 2026
私が念頭に置いていたのは、ここで野間氏が引き合いに出している、いわゆる「戸田事件」です。
戸田事件とは何でしょうか。当事者の一人である武藤葉子戸田市議会議員のサイトに詳細な経緯の説明や当時の動画があります。家登氏はこのサイトの内容について思うところがあるようですが、武藤議員が小池晃書記局長に抗議した結果として小池氏から謝罪を受けていること、武藤議員が選挙による信任を得ており市議団幹事長も務めていること、日本共産党埼玉県蕨・戸田地区委員会の見解とも矛盾しないことにより、一定程度信頼できるものとしてこちらの情報をベースに紹介します。
2025年1月の戸田市議会議員選挙に際して武藤候補が選挙活動を行っていたところ、武藤候補との知り合いではなかった家登氏が駆け寄ってきて応援を申し出たため「学校給食無償化」のプラカードを手渡したところ、日本共産党を名乗る一方、(残された各動画に写っている範囲では)政策として掲げていた給食無償化ではなく外国人差別問題のことばかりを叫びはじめ、武藤陣営を困惑させました。
さらに、同じ駅で選挙活動を行っていたジョーカー議員こと河合悠祐氏(外国人排斥で知られる)の陣営がやってくると、「選挙妨害だ」など口論の末、家登氏が河合陣営スタッフのスマホに手をかけてぐっと引き寄せました。河合陣営はそれを大げさに騒ぎ立て、この日の選挙活動は潰れてしまいました。
武藤候補は家登氏の行動が応援ではない誤った行動だったとして、蕨・戸田地区委員会に指導を要請しました。
そうしたなかで2月、河合氏とそれに応じた家登氏のSNS投稿により炎上が起こり、武藤陣営にまでクレームが来ます。さらにあろうことか、日本共産党の書記局長を務める小池晃議員が、家登氏を自身のYouTubeチャンネルのゲストに呼び、選挙の際に家登氏が行った活動に賛同しました。
2月のうちに武藤氏が抗議したところ、4月になって小池氏は謝罪動画を出しました。
共通点と差異
戸田事件と五月祭問題は、野間氏が言うように「全く同じ構図」なのでしょうか。共通点も差異もあるように思うので、整理してみましょう。
まず野間氏が触れるように、「共産党の目立つアイコン」あるいはそれに近い人物がSNS上でクローズアップされ非難の的になるという点は同じです。
また、戸田事件が給食無償化のようなアピール施策や選挙員腕章のような制度面での配慮を欠いていたことは、味方の事情を尊重せずに敵との闘いを優先する点で、五月祭問題に通じるところがあります。
一方、戸田事件は日本共産党の議員と党員のあいだのすれ違いで、そこに幹部も加わってきたという点で党組織内の問題という面が大きいのに対し、五月祭問題で問題と取られかねない行動をしたのは元党員で、党のSNS講師がそれを止めなかった不作為が党のイメージに悪影響を及ぼす結果を招いてしまったという形であり、党組織の問題ではありません。ただ、戸田事件の反省を活かすことができなかった家登氏をSNS講師として重用しつづけるとしたら、党の姿勢も問われざるをえないはずです。
少なくとも、五月祭問題について17日の『赤旗』に弁解記事すらも出なかったらしいことは、五月祭問題を党とは全く無関係な事象として片づけ、現に存在するイメージの悪化を放置・促進してしまうものではないでしょうか。
山添拓氏・小池晃氏に問う
おそらくご回答は望めないこととは思いますが、もし可能であれば、議会において活躍なさる一方、鍋倉氏と仲が良いことでも知られている山添拓議員(17日の民主主義ユースフェスティバルにいらっしゃっていたとのことで、その日に伺えればよかったなと悔やまれます)、そして、戸田事件における第四の当事者であった小池晃議員におかれましては、今回の五月祭問題における元党員の鍋倉氏による活動(主に建物入り)と、党のSNS講師としてプロテストの呼びかけ人になっていながら、プロテスト参加者である鍋倉氏の独走を止められず、今のSNS上での党イメージの悪化を招いてしまった家登氏についてどのようにお考えになっているのか、お聞かせいただきたいところです。
特に、山添氏は学生時代に学生自治会による学費値上げ反対運動へ参加しており、小池氏も東北大学医学部時代に自治会や全学連の幹部を務めていました。学生自治の観点や、2012年のTCZによる民青系全学連脱退という事実(今の学生自治が党派に対して何を求めているか)も踏まえながら、ご見解を伺いたいところです。
「推し活」政治の行方
政治運動と「推し活」の結びつきにおける二つの方向性
話が日本共産党それ自体にも関わってきたので、党が打ち出したり支援している政治運動の新たな形について、今回の問題と実は根を同じくする部分もあるのではないかという議論をしてみます。それはいわゆる「推し活」との関わりです。
政治が推し活化されていると指摘されて久しいです。言うまでもなく、その代表はいわゆる「サナ活」でしょう。メディアが創り出した虚像かと思いきや、別界隈で実際にサナ活をしている人を見かけたため、虚像にも現実を動かす力があることは窺えます。前記事で触れた『図書新聞』の特集「「推し活ファシズム」の渦中で読む」は、こうした状況を踏まえてのものでしょう。
政治の推し活化は、参政党や立憲民主党など、他の政党についても論じられています。探せば他にも出てくるでしょう。
そうしたなかで日本共産党は、党の中央委員会が「JCP推し活」というサイトを作り、公式に推し活を推進しています。
サイトを見ると、SNSで友人に「日本共産党のコンテンツ(情報)」を送ることが推奨され、党や候補者が「推し」の対象と呼ばれていることが分かります。
一方、推し活あるいはオタク文化の関わりでは、ペンライトデモも近年の新たな動向です。この文化は韓国における大統領への抗議に由来し、日本では主に護憲や反戦などの集会でペンライトが持ち出されているようです。日本共産党はこちらも推進しています。
JCP推し活とペンライトデモは、いずれも政治運動と推し活文化が結びついたものですが、この2つには実は大きな違いがあります。
それは、「推し」の対象が党や候補者なのか、それとも各自が好むK-POPやオタクコンテンツなどなのかという違いです。
サナ活の例に見られるように、話題性ある人物が出てきたとき、それを「推し」とする人がたくさん出てきます。この形式を取り入れようとすることは、短期的な動員を目指すためにはよいかもしれません。しかしそれは人物的な魅力(あるいはそのイメージ)がなければ強い風にはなりませんし、政治家は生身の人間であってアイドルでもコンテンツでもありませんから、どうしても齟齬が出てくるはずです。「推し」というパッケージングは全肯定という態度を奨励しやすく、健全な批判を失わせます。
それに対し、ペンライトデモにおける「推し」は参加者それぞれが好むもので、バラバラです。その推しと別に運動の理念として護憲や反戦などがあり、推しが住む社会をより良いものとして守りたい、あるいは平穏に自分の推し活を続けたいという願いが、より高次の理念に基づく連帯をもたらしているといえます。
特定の人物を「推し」と見做してコンテンツ消費していくことと、それぞれの「推し」のために社会をよくするべく連帯すること。この2つは、似ているようでいてかなり違うものなのではないでしょうか。
前記事で触れた5月15日のアクションで多様なアプローチの演説が行われており、ペンライトデモと銘打たれていなくてもペンライトが用いられ(私も実はあるオタクコンテンツのペンライトを持参していたのですが、プラカードを優先したので使いませんでした)、一斉のコールとは別に終了後もバラバラの声が挙がっていたことを改めて思い出します。
一方で、SNS映えする人物たちを運動のアイコンとして担ぐことは、まさにそれを対象とする推し活というべき方向性ではないでしょうか。
英雄崇拝と悪魔化を超えて
推し活政治論をもう少し一般化して論じてみるために、前々回のnoteで触れた歴史家・久米邦武の思想を再び参照しておきましょう。特にここでは、「学説自由と英雄崇拝」という1912年の文章を取り上げます。
久米は、当時の日本において「英雄崇拝」が盛んであり、それは既存の宗教をもはや信じにくくなった当時、それに代わるものとして求められているのだ、といいます。
英雄は神でもない仏でもない、俗物である、其時局変化の作用に応じて雄偉のことを成遂げた人である。之を選んで何を信仰せんとするか、根本に於て成立たないことで、早や時局は既に過ぎ去てゐる、変化してゐる。
英雄の所行に就いても其人々の為た事に是非善悪を選む必要が起る。一も二もなく信仰すると云ふ訳にはいかぬ。結局は只偉い人の事績を羨みて談論するに過ぎない。
今流にいえば「政治家はアイドルでもコンテンツでもない、生身の人間である」でしょうか。
人心の同じからざる各々面の如しで、〔中略〕神の自己に与へた事業を充分に発達せしむる所で、必ず第一等と成り果すべきである。〔中略〕社会にあらゆる事業は面の如しで、宗教を信仰する如くに自己の特徴に向つて専心純一に其の学問をなし、智能を研き、勉強鍛錬を加へ、我の自由を充分に遂ぐれば、必ず其事業に於て第一等の人とならるゝと云ふが乃ち天地の公道である。然るに英雄を崇拝すると云ふは自己の天賦天才に応じたる事業に向つての英雄なるやと云へば、実は何も捉ふる点はなくして、只雄偉な事を成遂げて人に偉がらるゝのが羨ましくて、漫にこれを誉そやすのが崇拝なので、〔後略〕
つまり、神仏を信じる「宗教」の代替物として「英雄」が崇拝され持てはやされているが、そうではなく、「宗教を信仰するが如くに」自分の得意な事業を伸ばしていくことこそ重要なのだ、と久米は述べています。
この少し前に起こっていた南北朝正閏問題においては、南朝の「英雄」としての楠木正成の扱いも含め、苛烈な議論が起こっていました。久米はそうしたなかで、人々が何かしらの「宗教」を求めるエネルギーを、特定の人格への崇拝ではなく自身の「事業」への邁進に転化させるべく、このような文章を書いたのだと考えることができます。
冒頭に掲げた図版は『時勢と英雄』の見返しで、山羊たちが各々進み、後から人が歩いていくというものです。人(英雄)が山羊(人々)を先導するのではない、ということです。
現代における推し活と政治の関係についても似たようなことが言えないでしょうか。それこそ推し活が宗教論の枠組みで捉えられることもありますが(それを柳澤田実氏のように経済的トレードとの関係で位置づけるべきかどうかはさておき)、今度は歴史上の英雄ですらなく、現在を生きる人間が過剰に持てはやされているのだと考えられます。
なお、こうも久米ばかり参照していると、木村が久米を英雄崇拝しているのでは、と疑問を持たれる方もいらっしゃいそうですが、もちろん久米も無謬ではありません(例えば扱いの難しいところでは、「学説自由と英雄崇拝」と同じく著書『時勢と英雄』に収録された人種論があります)。あくまでも、現在から見て批判すべき部分は当時の価値観にも留意はしつつ分析し、一方でそうした要素が存在するからといって久米という人物を全否定することはなく、活かすべきものは活かす、そのような向き合い方が必要です。
英雄崇拝が特定の人物への無批判な依存だとすれば、それと対を成すのが悪魔化です。言動ではなく人物そのものへの非難・攻撃へ向かう在り方です。例えば高市総理の容姿を揶揄するような例が挙げられます。
先ほどはペンライトデモを好意的に評価しましたが、阿佐ヶ谷のペンライトデモでは、以前のペンライトデモを「ごっこ遊び」とけなした門寛子自民党議員に対し、「ゴミ」呼ばわりや容姿の揶揄を行うプラカードが出てきました(「選挙ドットコム」における自民党議員の報告)。これは悪魔化でしょう。門氏の発言に問題があったとはいえ、批判すべきは発言その他の言動です。内輪では盛り上がっても、外側からの共感はどこまで得られるでしょうか。特に議員の場合は投票した有権者がいるわけですが、こうした非難のされ方を見ても、嫌悪感を抱きこそすれ、投票をやめる場合が多いとは思えません。推し活政治のなかでは、むしろ「推しが否定された!」と強硬化させてしまうのがオチでしょう。そうではなく個々の言動を実直に批判していくことで考えなおしを図っていくべきです。
参政党抗議において、神谷氏に関する黒塗りの肖像画を用いたり、「カルト」とラベリングをすることも同様の懸念があると考えます(黒い色に悪のイメージを重ねることの問題性も指摘されていました)。
#0516参政党プロテスト東大前
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) May 16, 2026
呼びかけのツリーも読まずに早とちりされた方も多かったようですが、本日、11時より約40名が、東大正門前にてサイレントスタンディングで、参政党首・神谷宗幣氏へのヘイトスピーチ等への抗議を行いました。 pic.twitter.com/vcRxoQXGqs
このように主張の内容というよりは人格そのものへ攻撃が向かい、「しばき」という表現も用いられていくと、実力行使は際限なくエスカレーションしていくはずです。政治家の暗殺がこれ以上増える社会には住みづらいです。そういう社会ではマイノリティはもっと多く殺されます。
そして、悪としての戯画化や「カルト」というラベリングは一見便利ですが、これらのプラカードを見た講演会参加者が、実際の講演会に行って表面的な人当たりの政治家に接したとき、むしろ「会ってみたらいい人だった!」と好感度へのギャップを生み出してしまうことになり、逆効果になるのではないでしょうか。
(関係ありませんが、3枚目に写っているパンダのプラカードは、英語と日本語以外の言語も使っている点で個人的には好きです。)
悪魔化の例としては、「こん連」というジャーゴンもあります。
「こん連」とは「こんな連中」の略語で、当初は日本共産党における党内改革の主張者(松竹伸幸氏のような除籍者を含む)を指すものでしたが、現在は家登氏のような路上活動家やそのシンパが、自分たちへの批判者を指す言葉としても用いられています。私も今回の一件で、菅野完氏らに「こん連」認定されました。
人を「こん連」呼ばわりしている方々は、相手を差別主義者として罵る一方で、野間氏が捨て台詞で参政党への投票を促しても何も言いませんし、菅野氏が「田舎」や「統合失調症」など別の属性を差別語として用いていることも止めようとはしません。党派性の罠にはまっているとしか思えません。
この言葉を知らなかった頃は、SNS上でこの言葉を用いている人々を見ても何のことだかさっぱり分からず困惑した記憶があります。ジャーゴンで盛り上がってはしゃいでいるかぎり、いたずらに対立を煽って消耗するだけで、運動にも党にもよい未来はないのではないでしょうか。
英雄崇拝も悪魔化も、特定の人物や集団の属性という分かりやすいラベルを求める心理から求められているといえそうです(天皇制が存続する理由の一つも、人々が目に見える人格という拠り所を求めているからでしょう)。
しかし、人を何かのシンボルに祀り上げたり、何かのシンボルとして振舞いつづけなければいけない在り方は、無批判さを招く一方、シンボルとされる側でも一貫性を過剰に保つ必要があり、息苦しいのではないでしょうか。
人物や集団によるラベリングは簡単ですが、そうではなく、人間関係を超えた価値観だけを運動では中心に置くべきです。
最近、松沢裕作先生が書かれた『社会を変えたいと思うひとのための戦後日本社会運動史ごくごく概説』では、結論部で次のように述べたくだりがあります(中略した部分もぜひお読みください)。
必要なのは、さまざまな「としての立場」を、相互に尊重しつつ、よりよい社会を構想するための「理念」を提示することだと言えるかもしれない。〔中略〕なんとかして、いろいろな「としての立場」を結びつけそれぞれがお互いを尊重し合えるような、今よりもましな社会をつくるための「理念」を見つけること。それは、「戦前回帰に抵抗しよう」だけではなくて、あたらしい社会を作るための理念でなければならないだろう。できるだけ普遍的な説得力をもち、同時に、そのような理念のもとでは、「今よりもまともな生活が送れそうで、理にかなっている」という実感を伴うものでもなければならないだろう。
色々な立場の人が同じ理念に向き合うことで、理念をめぐって協力しつつも、理念解釈の固定化を避け、開かれた討議が生み出されるはずです。
議員による仕事の一つが「より良い社会とはどういうことなのかを市民と共に考えていく」ことだという武藤議員の言葉も想起します。
「誰かにとってのヒーローにはなれないかもしれないけれど、誰かにとってのヒーラーになれば良い」
私は、五月祭問題で無用な建物入りを果たした鍋倉氏と、日本共産党のSNS講師でありながらそれを止められなかった家登氏については批判をしてきましたが、それは特定の言動における問題です。鍋倉氏や家登氏を人物として悪魔化することもまた、避けねばなりません。むしろ、これまでの鍋倉氏や家登氏の言動のなかにはこれからの政治運動の糧になりうるものも確実にあり、そちらの方面が埋もれてしまっているのではないかと感じます。
この節のタイトルに掲げたのは、実は家登氏の言葉です。
誰かにとってのヒーローにはなれないかもしれないけれど、誰かにとってのヒーラーになれば良いのか!()
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) March 31, 2019
2019年なので森の座新人賞を獲られたのと同じ頃、まだ現在のような活動は始められていない時期で、本記事執筆時点では4いいね、文末の丸括弧で照れ隠しをしているかのような文章ですが、しかしこれはとてもとても大事なことを述べたものだと思います。英雄にはなれないとしても、誰かの傷を癒せるならそれでよいという気づき。ここ数日の私が、友人たちとの会話で支えられたり感謝を伝えられたりした相互的な関係を思い出し、本当に涙が出そうになりました。
それに比べ、現在の家登氏はまさしく英雄たらんとしているようです。こちらは執筆時点で452いいねを獲得していますが、もし7年前の家登氏がこれをご覧になったら、果たしてどのような感想を抱くのでしょうか。
あ〜、バレちゃった… https://t.co/BwPlFCRuZg
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) May 10, 2026
英雄になりたいという欲望が悲惨な結末を迎えるかもしれないことは、反戦の文脈であれば今の家登氏にも見えているようです。
そして「自分は泣いて引き止める家族を振り切って特攻して英雄になれる」と思っている。実際は飢えと病気で死ぬ…
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) April 5, 2026
『森の座』の受賞作は後で読んでみたいところですが、家登氏は現在も俳句活動を続けており、その実践は路上哲学の場でも活かされています。
今日の路哲では試験的に俳句をいくつか詠んで書いてみた。
— 家登みろく@森の座(旧・萬緑) (@miroku_cat) February 9, 2026
いったい誰のための選挙だったのか、問うまでもない。 pic.twitter.com/Mu6wj6u1fF
これは、あのタイミングでの総選挙が弱者を踏みにじったことへの静かな怒りを、季語によって端的に表現したものです。私は俳句を学んでいないので俳句としてどう評価されるものなのかは分かりませんが、家登氏のおっしゃる左翼俳句あるいはプロテスター俳句の持つ力が伝わってくる一枚だと思います。
思うに家登氏は、正門前プロテストにおいて反差別の俳句・川柳なり狂歌なりを書いてみせ、通りがかりの東大生や来場者にも一緒に考えてもらうという催しをしていたら、そこでは「東大生の心をくすぐるエスプリ」を持つ様々な名句が生まれ、自発的な言葉の力で効果的にレイシズムを撃つことができていたのではないでしょうか。
一方の鍋倉氏は、「ヒーロー」についてよく語っています。鍋倉氏は漫画を描かれる人ですが、それよりもご自身が漫画のようなヒーローたらんと望んでおられるようです。
僕も生で堀内ゅいさんを観て、その格好良さに痺れて「真似したい!」と思って表に出始めました。
— なべくら雅之🌹 follow me (@nabekuramasax) February 26, 2026
漫画に描きたいようなヒーローが目の前にいるし、そのヒーローのような存在が今世界に必要とされてるのであれば描くより先に自分が踊りでなければならないんじゃないかと思うのでした https://t.co/MQ7XJoYYNA
しかし、鍋倉氏もまたヒーローの限界を知っているようです。
「ヒーローものは民主主義と相性が悪い」ひ~痺れる。アランムーア良いこと言うなぁ。 https://t.co/vf2r5JABYO
— MASAYUKI NABEKURA (@nabekuramasa) March 6, 2025
本当に必要なのは、むしろ下記のようなヒーローでしょう。これは、SNSで褒めそやされる英雄とは異なる、名もなき人々の立ち方です。
ヒーローって冗談抜きに格好良いと思う。
— MASAYUKI NABEKURA (@nabekuramasa) January 25, 2016
俺にとってのヒーローは、オッさんなのにいつ迄もメラメラしてる人。
意思を貫く人。
自分の過去を賛美しない人。
常に自己懐疑をし、孤独に立ち向かい続ける人。
自分をいたずらに褒めず、孤独でも立つ人。それに近い政治活動の姿を端的に描いたのが下記のイラストです。
#ひとり街宣1万人計画
— MASAYUKI NABEKURA (@nabekuramasa) May 24, 2025
↑勝手に思いつきで書いてみた。でも、都知事選では3000人が立った。都議選と参院選に向けて全国で1万人立つことは可能だと俺は思う#東京都議会選挙#参議院議員選挙#半径5メートル革命#アンガジュチャンス pic.twitter.com/d8HNqsfnVe
顔が見えない後ろ姿だからこそ、自己顕示欲ではなく主張の内容を文字どおり背中で語る、誰でもない一主権者の情念が伝わってきます。そして、「ひとり街宣には 意味がある」というキャッチコピーも素敵です。
前の方で「勇気を笑うやつが一番ダサい」という鍋倉氏の言葉を引かせていただいたように、名も知れぬ誰かの背中をそっと押す鍋倉氏の言葉には、確かな力があります。
最も心を打たれたのは下記の作品でした。
参議院議員選挙反差別ポスター大運動総括マンガ
— MASAYUKI NABEKURA (@nabekuramasa) July 31, 2025
#日本人ファーストは差別の扇動
#参政党は差別扇動をやめなさい #わたしは差別に抗う (2/13) pic.twitter.com/tovWPI4DxW
これはもっと長いツリーのなかの4枚ですが、他の部分はともかく、この4枚がとても好きです。実は私は東大在籍時代は漫画を描くサークルにいたので(五月祭で似顔絵を描いていたこともありました)、この4枚の凄みが分かります。描線こそラフながら、コマ割・各コマの構図・カラー含めたライティング、顔の見える店員と見えない客の対比、そしてタワマンからの夜景を前にした佇まいの情感。正直に申し上げてかなりの漫画力があります。
鍋倉氏の場合、ご自身の活動をメタ的に持ち上げる漫画よりも、こちらのほうが真に人々の心へ訴えかけられるのではないでしょうか。反差別についても、他の様々な社会問題についても、このテイストで鍋倉氏の漫画をもっと読んでみたいです。
家登氏と鍋倉氏のお二人は、SNSで自分自身をキャラクターとして演出してみせたり敵と見做した相手を戯画化することよりも、市井に生きる人々の静かなる怒りや哀しみを汲み取って世間に突きつけエンパワメントへ転化していく創作の力にこそ、実は本領があったのではないかと感じます。
レイシストとの直接対峙は野間氏のような専門家やSNS上で威勢よく同調なさっている方々に任せておいて、むしろお二人にはこちらの方面の「事業」を今以上に伸ばしていただけませんでしょうか。それこそが、反差別の「運動が、市民的モラルを守り、広い人々に共感される方向で発展する」ための一つの道でありうると思います。
もし今の路線を継続なさるのであればやはり議会に基盤を置く日本共産党とは決別したほうがよいと考えます。一方、決別せずにそれぞれの「天賦天才」に応じた役割を果たす形で党を応援する可能性も残っているのではないかということを提起してみました。
ご活動の中心は路上であろうかと思われますが、もし同人誌などの形でお出しいただいたら買いに行きます(もう何か出されていたら教えてください)。お会いになりたくないということなら通販ででも。
おわりに:「雷同」のメディア資本から距離を置くこと
この記事を書くに当たっては、現状をどうにかしないといけないという焦りと静かな怒りはありながらも、人を攻撃しようというような激情は生まれませんでした。これは、Xとnoteというメディアの差異によるところも大きいと思います。
Xで発生するいわゆるレスバトルは、140字制限のもとで断片化された情報を元に、片言隻句を捕まえて相手をやり込めようとするコミュニケーションです。フォロワー同士のつながりが重視されて時には大人数が群がり、自分が主体的に書かなくても指先一つで仲間の意見を拡散でき、いかにしてその場で相手をやり込められるかという点に汲々とします。しかも、TwitterからXに改変されて以来、アルゴリズムによるフィルターバブル、人々の憎悪を煽ってインプレッションの経済を回していく仕組みが強化されています。こう書いて見ると最悪のSNSですね。前々回のnoteで紹介した久米邦武の表現を借りれば、「雷同」して右往左往する人を増やすメディアです。
現実の差別問題を解決するという共通の目的を持ちながらも方法論などの点で意見の違いを持つ人々は、もしかしたらX上でなければもう少し冷静な議論ができるのかもしれません。全ての原因ではないにしても、対立が苛烈化させられている一つの要因であることは間違いないのではないかと思います。
それに比べると、noteは字数制限がなく、見出しやリンクなど文章を構造化するための機能が多彩です(注釈機能はありませんが)。ハッシュタグさえ同じであれば反対の意見もすぐに見つけられます。
この記事のタイトルは、近代の論文でよくあるタイプのものにしてみました。「再び○○氏に答ふ」とか「△△を論じて××に及ぶ」といったもののことで(一例だけ挙げれば、吉野作造「政界の現状を論じて立憲政治の根本義に及ぶ」など)、特定の元ネタがあるわけではありません。
ふざけたタイトルだと思われた方もいることとは思いますが、ある種のユーモアを交えることで激情にかられたコミュニケーションから離脱しつつ、内容を列記することでより多くの読者を獲得できないかと考えて試してみたものです。
そしてさらには、近代においては雑誌という月刊が基本のメディアで何頁も用いて行われていたような議論の在り方のほうが、今のレスバトルよりは健全なのではないかということを思ったためでした。
メディア史研究者の佐藤卓己先生は、雑誌研究を概説した文章において、書物における知の在り方をストック、新聞をフローと呼んでいます。雑誌はその中間にある一方で、XのようなSNSはフローとしての方向性を突き詰めたメディアであると言えるでしょう。
同じく佐藤先生は、感情のまま赴く「世論」と、熟慮による「輿論」を区別し、立ち止まって後者を練り上げていくべきことを説いています。
その意味では、紙の雑誌に書ける人は限られるにしても、誰でも投稿できるnoteであれば、感情で動くXとは異なる、熟慮に基づくSNS(社会構築手段)としての可能性があるのではないか、と感じました。どうでしょうか。
今回の五月祭問題については述べるべきことは全て述べたつもりなので、よほどのことがなければこれで終わりにいたします。これだけ対立が苛烈化した状況下で、相手方の正面からのご反応はさほど期待しておりませんが、批判すべきところは批判し、褒めるべきところは褒めるつもりで書いたつもりです。大袈裟ですが、少しでも日本社会の未来へつながる記事になっていれば幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
