【読書感想文】澁澤龍彦『高丘親王航海記』─インドに向けて旅する幻想譚の果てに
美を選べば、死は避けられません。
全集を借りて来て、澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』を読みながら幻想の世界に浸りました。
忙しかったり体調を崩し気味だったりでなかなかゆっくり読書できていなかったのですが、それでもちびちびと夜な夜な読み進めていきます。
東南アジアを舞台にした美と幻想の旅といった感じで、正に非日常を味わうことのできる小説でした。
夢野久作、ポーを読んで来て次は澁澤龍彦にしようという思いつきです。
妻が結構好きなこともあり、ことあるごとに話には聞いていたのでいい機会でした。
久作のようにあからさまにグロテスクな描き方はしないものの、ところどころ非常に癖のある美的センスが籠っている文体ですね。
これまで読んで来た小説と比べると、もっと泉鏡花に近いかなあという印象も持ちました。
史実と幻想が溶け合う親王の旅
この小説のメインキャラクターである高丘親王ですが、実は平安時代に生きた実在の人物です。
平城天皇の第3皇子として生を受けますが、政変に巻き込まれたのちに出家して空海の弟子になり、実際に天竺を目指して旅をしたと言われています。
詳しいことはあまり知らずに小説を読んでいたのですが、あとで親王について調べてみると結構史実をなぞっているところが多くて驚きます。
政変の中心にいたとされるある女性についても、親王にとって非常に重要な存在として繰り返し描かれていました。
小説の方は異界的で幻想的なシーンも多いのですが、最後マレーシアの方まで行って命を落とすところなどは一応記録上もそうなっているみたいです。
高校のころに習ったはずの日本史の知識はどこへいったのやら。
実は出張で何度かクアラルンプールに行ったことがあるのですが、親王のことは恥ずかしながら全く知りませんでした。
次に行く機会があったら大分違った印象を持つことになりそうです。
鏡花を彷彿とさせる美学と幻想性
さて、小説の中にもっと入っていきたいと思います。
「天竺は日本に生まれたわたしの眷恋の地であった。わたしが若年より仏道に帰依したのも、そのためにだったといってよい。求法のために渡天するというよりも、求法と渡天とはわたしにとって同義なのである。それがわたしの渡天の理由である。」
インドを目指して旅する親王一行は様々な異界と通じ合っていきます。
先ほど述べたような史実をバックグラウンドにしながらも、基本的にはやはり幻想譚と言った方がしっくり来ます。
ひとの言葉を解すジュゴン、ひとの夢をたべてしまうバク、半鳥半人の女たち、犬の頭を持つ男たちなど怪奇に満ち満ちています。
霊獣としてひとの夢をたべるというバクの伝説は聞いたことがありました。このあたりの展開は前半で最も印象に残っているかもしれません。
獏がもっぱら自分の夜ごとの夢を食って生きてるのを知っていたから、つい自分と獏とを同一化していたのかもしれなかった。考えてみると、自分の夢を獏が食い、その獏の肉を少女が食っていたのだから、獏を媒介として少女と自分とは直接につながっており、少女は自分の夢によって生きているのだといえばいえないこともないような気がした。自分が夢を見なければ、この少女の存在もありえないのではないかという気さえした。
この直前にもっと性的な描写もあって澁澤っぽさがあるのですが、この文章も非常に雰囲気があります。
幻想的かつエロティックで、久作とは全然違うなあと思い始めた一節です。
さらに進んでいくと、これまた非常に独特な美学を感じさせるシーンがありました。
それは親王が手に取ったある真珠について、旅に同行していた安展というひとが考えを述べるところです。
親王自身は自然にこのようなうつくしいものが生まれることに感心しているのですが、安展は異なります。
わたしたちは見かけの美しさに目をくらまされているけれども、要するに真珠というのは貝にとっての病気にほかならないのですね。病める貝の吐き出した美しい異物、それが真珠です。そういえば修行中の釈尊を誘惑せんとした悪魔のむれも、美しい見かけの下に病めるこころをかくしていたのではなかったでしょうか。病気だから美しいのか、美しいから病気なのかはよく存じませぬが、この二つがどうやら相関関係を有しているのはまぎれもない事実のようで、わたしなんぞは、女人であれ花卉であれ器物であれ、あんまり美しいものを目にすると、つい警戒心をおこしてしまう。みこの掌の上の美しい真珠を見れば、これが将来、みこにわざわいをもたらすことになりはせぬかと、ついつい、いらざる心配をしてしまいます。
真珠については実際ここに書かれている通りです。
貝のなかに入ってきた異物をタンパク質の成分が何層にも包み込むことで出来上がると言われています。
そうした科学的な事実を、このような異界をたっぷりと描いた物語世界の中にポンと置くところがいいですね。
「病気だから美しい」と思ってしまいます。
これも後で調べて驚いたのですが、澁澤は晩年に咽頭癌を患っていたようで自分自身の身体感覚と美的センスを込めて書いていたのでしょう。
この辺りから、死や病というイメージがかなり濃くなって来ます。それに応じて美もまた顔を出すといった展開で、圧倒的な世界観でした。
生と死の向こう側へ、軽やかな転生
ストーリーとしては旅が進んで南方に来るにつれてよりエキゾチックな感じも強くなっていたと思います。
ラフレシアや、出産を終えたらミイラになる定めのスリーヴィジャヤの王妃の話など鮮烈な印象を残します。
ところどころに転生、メタモルフォーシスといった事象が描かれているのも興味深いです。
『豊饒の海』を想起させますが、澁澤の創った輪廻転生の世界観はもっと軽やかでそして生物や植物とひとが一体になるような感じがあります。
哲学的な深遠さではなく、自然に還っていくようなある種安らぎを感じるものです。
思い返してみると、天竺に行くというある意味で宗教的な行為が源流にありながらも小説中には仏教論って全くと言ってよいほど書かれていないんですよね。
この辺りに澁澤が考えていたことの真実が眠っているのだろうと思います。
徐々に喉の病も進行してしまって体力も衰えていく親王です。みずから天竺に辿り着くのも難しいと悟って、最後には信じられない決断をします。
「だいじょうぶよ、みこ。御安心なさいませ。たとえこの世でのいのちは尽きるとも、この光りものが海を越えて日本へたどりつけば、そこからまた、みこのいのちがしぶとく芽ばえはじめますから。みこはただ、霊魂になって永遠に天竺であそんでいればよいのです。」
同行の者からすれば受け入れ難い最期ですが、不思議とそこまで悲劇的な感じはなく、どことなく安寧を得るようなエンディングでした。
インドを目指した旅だったはずが、最後には日本または記憶の源泉に帰るといった幕引きになっていたのは意外です。
東大仏文を出てサドを研究していた澁澤です。
西洋文化を受容しつつも、最終的にはナショナリズムとは違う形で日本あるいは東洋的なものへ回帰していったのかも知れません。
いえ、そうした批評的な分析は置いておきましょう。
物語としては円環的な構造になっていて、航海記としながらも時空を超えた壮大さがとにかく素晴らしかったです。
美しい真珠をえらべば、死を避けることはできませぬ。死を避けようとすれば、美しい真珠を手ばなさなければなりませぬ。さあ、この二者択一をどうなさいます。
個人的にはこのセリフが最もページをめくる動きを止めたところで好きでした。繰り返し、考えたくなります。
きっと澁澤にとってもそうだったのだろうと勝手ながらに思います。
あとがき
はじめて読んだ澁澤龍彦の小説でした。
エッセイや評論の方がいいとかよく言われていますが、読んでよかったと十分に思う作品で、彼のことをもっと知りたくなりました。
あの異界を進んでいく感じを読んでいて、鏡花の『高野聖』を再読してみたくなりました。
海外で言えばボルヘスやガルシア=マルケスも派生として読みたくなります。『百年の孤独』もいいかもしれません。
以上。
