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甲子園ベスト8という肩書と、20年間言えなかった私のトラウマ

テレビをつければ、今年も高校野球の地方大会のニュースが流れる季節になりました。

「遠藤さんって、甲子園ベスト8なんですよね? 凄すぎます!」

新しく入ってきた若いメンバーにそう言われるたび、私はいつも、愛想笑いを浮かべながら「いやいや、大したことないよ」と受け流してしまいます。 自慢したくないから、ではありません。 言葉の通り、本当に大したことがないからです。

県大会優勝。甲子園ベスト8。国体準優勝。 履歴書に書けば少しは光るかもしれない私のこの肩書は、今でも胸の奥をチクリと刺す、恥ずかしい過去の裏返しです。

1.浮かれていた、14歳の冬

私は中学時代、シニアやボーイズといった硬式のクラブチームではなく、普通の学校の軟式野球部に所属していました。 体も特段大きくありません。今でも177センチ、65キロ。どこにでもいる、いわゆる普通の一般男性の体格です。

球速は120キロそこそこ。強みと言えば、コントロールとカウントの取れるスライダーくらい。それでも、中学の軟式野球の世界ではそこそこ通用してしまいました。

人生が変わったのは、中学2年生の秋のことです。 強豪校との練習試合。有望株を探しに、県内で有名な高校の監督がバックネット裏で見つめていました。 十数年も前の記憶なので、スコアはうろ覚えですが、確か1対0で勝ったと思います。小学校から一緒だった同級生が、決勝打を打ってくれたような気がします。

その試合でたまたま良いピッチングができた私は、トントン拍子で強豪校からの声をかけていただき、2年生の冬には高校への進学が決まっていました。

そこからの私は、今思い出しても本当に恥ずかしい人間でした。 周りの同級生が塾に通い、必死に受験勉強をしている中、私は「もう高校が決まったから」と塾を辞め、ろくにテスト勉強もせず、ただただ浮かれていました。 周囲からの冷ややかな視線に気づかないフリをして、自分は特別なんだと勘違いしていたのです。

2.現実を知った、2年生の夏

そんな甘い気持ちで入学した高校は、推薦組と一般組を合わせても学年に20人程度という、少数精鋭の学校でした。

ボールが軟式から硬式に変わり、その重さと硬さに戸惑う毎日。さらに当時は、今の時代ではご法度とされるような、上級生による「新入生いびり」が毎日のようにありました。

これについては、今でも賛成とも反対とも言えません。理不尽な伝統は無くすべきですが、あの理不尽に耐えたからこそ得られた忍耐力があるのも事実だからです。ただ、私たちの代になったとき、「こんな無意味なことは自分たちの代で終わりにしよう」とみんなで話し合って、その風習を無くしました。今でも戻りたくない、地獄のような日々でした。

そんな泥水をすするような毎日を過ごし、2年生になって少しずつ試合に出られる機会が増えていきました。

2年生の夏の大会。ベンチ入りの可能性が見えていました。 ちなみに、私の1つ下の学年には、今アメリカのメジャーリーグで活躍している怪物のような後輩が入学してきていました。同じ投手です。

背番号発表の当日。私の名前は呼ばれませんでした。 代わりに選ばれたのは、3年間必死に頑張ってきたけれど、試合にはほとんど出ない先輩でした。

落胆しました。と同時に、冷徹な現実を知りました。 野球のベンチ入りは、ただの実力順ではない。メンバーのバランス、データ班、そしてチームを支えるサポート役。組織として必要な人間が選ばれるのだと、17歳にして初めて突きつけられたのです。

その年の夏、チームは決勝で敗れ、準優勝でした。 目の前で甲子園を決めて歓喜する相手校と、泣き崩れる先輩たち。 不謹慎ですが、私は心のどこかで少しホッとしていました。 「これで自分たちの代が来る。来年こそは俺の番だ」と、浅はかにもそんなことを考えていたのです。

3.背番号のないユニフォーム

秋の大会では背番号をもらい、試合でホームランを打った記憶もあります。 そして、3年生の最後の夏。私も無事に背番号をもらい、チームは県大会を勝ち抜いて、ついに甲子園出場を決めました。

学校中が全校生徒の大盛り上がりで、私たちを迎えてくれました。 歓声と拍手の中、私は手元の背番号を見つめていました。

その日の放課後、部長から静かに告げられました。 「甲子園では、背番号を外れてサポートに回ってくれ」

ベンチ入りメンバーの調整。仕方のないことだと頭では分かっていました。 でも、心の整理なんてつくはずがありません。

甲子園の期間中、私の背中には数字が刻まれていませんでした。 炎天下の甲子園球場。ベンチ入りの選手たちが冷房の効いた部屋で休んでいる間、私を含めたサポートメンバーの4人で、グラウンド整備をし、ボールを磨いていました。 暑さで頭がクラクラする中、みんなで何でもない雑談をしながら、笑い合っていたのを覚えています。悔しさを麻痺させるための、どこか虚しい笑い声でした。

チームはベスト8で敗退。 その後、ベスト8以上の特権として、秋の国体に出場しました。 国体ではありがたいことに背番号をもらい、試合にも登板させてもらいました。しかし、当時の夏の甲子園優勝校にコテンパンに打ち込まれ、確か6失点くらいしたと思います。私の高校野球は、そんなほろ苦いマウンドで幕を閉じました。

国体は雨天中止なども重なり、結果として私たちの代は、全国の3年生の中で「一番長い夏」を過ごしたことになります。周りから見れば、それはとても幸せで、輝かしい高校野球生活に見えたはずです。

4.遠回りの原点

今でも、私は高校野球をあまり熱心に見ません。 テレビに映る甲子園の緑の芝生を見ると、胸の奥が少しざわつきます。それが後輩たちへの嫉妬なのか、それとも自分の中でまだ整理ができていない未練なのか、うまく表現できません。ただ、無意識に気にかけないように避けている自分がいます。あの日の、背番号のない背中の痛みを思い出してしまうからです。

社会人になってから、先輩や上司が取引先との席で、よく私をこう紹介してくれます。 「遠藤はあの有名な選手の先輩で、甲子園ベスト8まで行ってるんだよ」

そう言っていただけるのは本当にありがたいですし、同席した方々も驚いてくれます。 でも、私の中では何の自慢にもなりません。 すごいのは、今でも第一線で活躍している後輩たちであり、あの時甲子園のマウンドに立っていたメンバーです。グラウンドの外からそれを見ていた私は、何一つ凄くありません。

もしあの時、私が中学時代の勘違いのまま、高校でもエースとして甲子園で大活躍していたら、どんな大人になっていたでしょうか。きっと、人の痛みも分からず、上から目線で、挫折した人間を鼻で笑うような、つまらない男になっていたと思います。

塾をサボって浮かれていた14歳の私。 地獄のような練習に耐えた16歳の私。 背番号を外され、炎天下でボールを磨いていた18歳の私。

あのしょーもない、ひねくれた高校時代があったからこそ、私は「自分は天才ではない。凡人なんだ」と心から自覚できました。だからこそ、社会に出てどれだけ泥水をすすることになっても、「凡人の私でも、必死にもがき続ければ、いつか社会で活躍できるはずだ」と信じて、1日100件のテレアポにも耐えることができたのです。

今年もまた、球児たちの熱い夏が始まります。

だらだらと私の恥ずかしい過去を書いてしまいましたが、今、泥だらけになって白球を追っている高校生たちには、とにかく悔いのない夏を過ごしてほしいなと心から願っています。

私のようにひねくれた思い出になるか、最高の思い出になるかは分かりません。でも、どんな形であれ、そこで流した汗と涙は、いつか人生のどこかで、自分を支える歪(いびつ)な土台になってくれるはずです。

私はこれから、AIやアウトソーシングの事業を引っ張っていく責任者として、また新しい戦場に向かいます。

背番号があろうとなかろうと、自分の打席が回ってきたら、いつでもフルスイングできるように。あの日の甲子園の、あの暑い風を思い出しながら、今日もネクタイを締め直しています。

#球春到来




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