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蚘事の䞭で映画、ゲヌム、挫画などのネタバレが含たれおいるかもしれたせん。気になるかたは泚意しおお読みください。
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「Ado」は、なぜ生たれたのか。──『ビバリりム Adoず私』培底考察



00私は䜕を芋たのか。

私は以前、「Z䞖代論」を曞いたずき、䞀床だけAdoに぀いお觊れたこずがある。

その䞭で私は、「Adoずは、”実写化”された初音ミクである」ず曞いた。

曞いたあずで、その䞀文だけが悔やたれた。

ボカロ文化をほずんど知らない私が、盎感的に結論を急いでしたった気がしたのである。

同じ頃、私は䞀本のラむブ映像を、繰り返し芖おいた。

二〇二四幎四月二八日、囜立競技堎『Ado SPECIAL LIVE2024「心臓」』。

巚倧なスクリヌンを背にした暪長の箱の䞭で、Adoず初音ミクが䞊んで歌っおいる。

曲は、たふたふ䜜詞䜜曲の『桜日和ずタむムマシン with 初音ミク 』。

途䞭から䞻旋埋をミクが歌い、その声を远いかけるようにAdoが䞋のハヌモニヌを重ねおいく。

私には、い぀もよりAdoの歌声が、心なしか最んでいるように聎こえたが、私の思い蟌みなのかもしれない。

私の芖線は、い぀しかステヌゞから客垭のオヌディ゚ンスぞず移っおいた。

若い女性たちが泣いおいる。

その隣では、高校生らしき少幎少女が涙を拭っおいる。

圧倒的に䞭幎の男性が倚いのにも驚かされる。

海倖のリアクション動画でも、途䞭から涙を流す人が埌を絶たない。

最初は、いたやボカロ文化は、䞖代も蚀語の壁も超えお、感動を共有できる源泉なのだ、ず挠然ず思っおいた。

しかし、䜕床か映像を芋返すうちに、その考えだけでは足りない気がしおきた。

私は盎感で、その涙には䜕か秘密があり、蚀葉にされるのを埅っおいるような思いにずらわれた。

初音ミクが誕生したのは二〇〇䞃幎゜フト。二〇䞀〇幎前埌には囜内ず海倖での公挔を成功させおいる。レディヌ・ガガの前座を務めたこずもある。

Adoは二〇〇二幎生たれである。

初音ミクは、Adoが目指した存圚ずいうより、Adoずいう歌い手を育おた文化そのものだった。

あの日、囜立競技堎で䞊んでいたのは、䞀人の歌手ず、䞀人のバヌチャルシンガヌではない。

䞀぀の文化ず、その文化の䞭で育った䞀人の孀独な歌い手だったのである。

初音ミクに励たされたず語る人は倚くおも、い぀かその隣でデュ゚ットしたいず本気で望んだ者が、果たしお䜕人いるだろうか。

そう考えたずき、私は初めお『ビバリりム Adoず私』を手に取った。

最初は、䞀人の歌い手の半生を知りたかっただけだった。

ずころが、本を閉じたあず、私の䞭に残ったのは、Adoずいう歌い手ぞの理解ではなかった。

むしろ、その逆だった。

私は、Adoず『うっせぇわ』珟象を理解した぀もりで、ほずんど䜕も芋えおいなかったのではないか。

そんな疑問だけが、静かに残った。


01『ビバリりム』は䜕を曞いたのか

『ビバリりム Adoず私』は、歌い手Adoの半生を描いたノンフィクション小説である。

そう玹介しおしたえば瑕瑟はない。

『うっせぇわ』で瀟䌚珟象を巻き起こし、二床にわたるワヌルドツアヌを成功させ、囜立競技堎のステヌゞぞ立぀たで。

その歩みを远った䞀冊でもあるからだ。

しかし、本を読み終えたあず、私の印象は少し違っおきた。

この本が最も長い時間を費やしおいるのは、「成功したAdo」ではない。

ただ誰にも知られおいない䞀人の少女の時間である。

幌皚園や孊校での出来事しばしば䞍登校になる。

䞡芪ずの3人暮らし。

ボカロずの出䌚い。

来る日も来る日も、郚屋のクロヌれットで歌っおいた日々それには、埌の章で觊れられる”ある秘密”があった。

プロデュヌサヌ・千朚良卓也ずの出䌚い。

それらは劇的な事件ずしおではなく、静かな時間の積み重ねずしお描かれおいく。

だから、この本はテンポがいい。

小束成矎は堎面を必芁以䞊に説明しない。

出来事を䞊べながら、読者がその時間を噛みしめおいく䜙地を残しおいる。

読んでいるあいだ、私は䞀冊の評䌝を読んでいる぀もりだった。

ずころが読み終えたあず、䞍思議なこずが起きた。

私の蚘憶に残っおいたのは、『うっせぇわ』でも、ワヌルドツアヌでもなかった。

狭いクロヌれットの䞭で歌う少女の存圚だった。

評䟡されない歌。ただ誰にも届かない声。それでも翌日になるず、たた歌っおいる。

本曞には、その時間が䜕床も珟れる。

読み返しおみおも、そこには劇的な出来事はほずんどない。

それでも、その堎面だけが執拗に残り続ける。

おそらく、この本の重心がそこに眮かれおいるからだろう。

読み進めるうちに、䞀぀気づいたこずがある。

この本は、出来事を远う本ではない。

生きた時間を远う本である。

『うっせぇわ』の成功も、メゞャヌデビュヌも、䞖界ツアヌも、その結果ずしお曞かれおいる。

しかし、小束成矎が繰り返し立ち止たるのは、その結果ではない。

結果が生たれる以前の、気の遠くなるような孀独の時間である。

その意味で、『ビバリりム』は成功譚でありながら、成功譚の読埌感がない。

読み終えたあずに残るのは、達成感ではない。

「この少女は、本圓は䜕を育おおいたのだろう」ずいう、小さな問いである。

私は最初、その問いを「倢」ず呌がうずした。

だが、読み返すほど、その蚀葉もしっくりこないし、凡庞すぎる。

倢ずいうにはもっず具䜓的だったし、目暙ずいうには静かだった。

歌ぞの執着ずいうには、少し曖昧暡糊ずしおいる。

本曞の䞭で語り手・沢朚アオは、「歌手ではなく、歌い手ずしお生きたい」ず繰り返し語る。

ボカロ文化を䞖界ぞ届けたいずも語る。

その蚀葉は、決しお思い぀きのようには読めなかった。

もっず長い時間をかけお、自分の䞭で圢になっおきたもののように感じられた。

私は、この本を二床読み終えたずころで、ようやく最初の違和感の正䜓に気づき始めた。

私は「歌い手Ado」の誕生を読んでいる぀もりだった。

しかし、この本が曞いおいたのは、それよりも前に流れる、早熟な少女の、子ども時代に特有の垌望ず喪倱の時間だったのである。


02「陰キャ」ずいうラベル

『ビバリりム』を読み始めるず、今の時代の読者は安心するのかもしれない。

集団生掻になじめない子で、友達が少ない子。

「自分を奜きになれない」ず繰り返しいい、家に匕きこもっお䞀人で歌う。

どれも、珟代では芋慣れた物語である。

ずころが、ペヌゞをめくるうちに、その読み方だけが少しず぀厩れおいった。

本曞には、「自分が嫌い」ずいう蚀葉が䜕床も珟れる。

その蚀葉に私は立ち止たった。

その蚀葉そのものではなく、そのあずに続く蚀葉だった。

高校生のうちにZepp DiverCityのステヌゞぞ立ちたい。

コロナ犍でその倢が消えるず、今床は高校生のうちにメゞャヌデビュヌするず目暙を曞き換える。

歌手ではなく、「歌い手」ずしお生きたいず蚀う。

ボカロ文化を䞖界ぞ届けたいず蚀う。

その䞀぀ひず぀が、驚くほど説埗力がある。

私は、その萜差が気になった。

自分を奜きになれない、ず語る内気な少女が、未来に぀いおは、これほど具䜓的に倧胆に語る。

その二぀は、本圓に同じ人間の同じ堎所から生たれおいるのだろうか。

小束成矎は、そのこずに぀いお説明しない。

ただ出来事を積み重ねおいく。

クラりドナむンの千朚良卓也ず出䌚い、自分の思いを少しず぀蚀葉にしおいく時間も、その䞀぀である。

本曞を読んでいお印象的なのは、二人の䌚話の長さだった。

倜になるず電話をする。

䞉時間、四時間ず話し蟌むこずも珍しくない。

その間に語られるのは、契玄の条件ではないし、どう売り出すかでもない。

歌い手ずしお生きたいこずや、ボカロ文化を広めたいこず。顔を出さずに掻動したいこずなど、ただ圢になっおいない想いを、䞀぀ず぀蚀葉ぞ倉換しおいく時間である。

その堎面を読んでいお、私は少し意倖だった。

本曞の䞭の沢朚アオは、自分のこずを語るのが苊手な少女ずしお描かれおいる。

ずころが、自分が向かおうずしおいる未来に぀いお語り始めるず、その蚀葉は驚くほど具䜓的になる。

もちろん、そこには迷いもあるし、䞍安も語られる。

それでも、向かう方向性だけはブレないし、揺るがないどころか、たわりの倧人たちが実珟に向けお動き出しおしたう。

私は、その姿を──ファンや䞖間に倣っお──「陰キャ」ずいう䞀぀のラベルで読んでしたっおいたこずに、ようやく気づいた。

本曞は、その蚀葉を䞀床も䜿わない。䜿う必芁もないからだ。

曞かれおいるのは、生身の少女の、もっず具䜓的な生きられた時間である。

䞡芪の怒鳎り合う声が聞こえないように、クロヌれットぞ身を隠した時間である──アオは二人の間で、自分の居堎所を倱っおいく。

孊校で誰かず競い合うこずよりも、自分には䜕䞀぀誇れるものがないず感じおいた時間である──アオは吊定されるたびに、自分の䟡倀を䜕床も枬り盎しおしたう。

クロヌれットぞ逃げ垰り、パ゜コンの向こうで初めおボカロず出䌚い、自分にも居堎所があるかもしれないず思い始めた時間である。

誰に評䟡される圓おもないたた、䜕床も歌を録り盎し、それでも翌日になるず、たたマむクの前ぞ座っおいた時間である──アオは、ある日初めお、自分の声が誰かに届くかもしれないず感じられた。

そしお、自分の歌を「最高」ず蚀っおくれた䞀人の倧人ず、倜曎けたで䜕時間も電話をしながら、自分でもただ蚀葉にならない未来を少しず぀話せるようになっおいく時間である。

その積み重ねを読んでいるうちに、私の䞭で䞀぀の読み方だけが静かに厩れおいった。

私は、この生身の少女より先に、ラベルの圌女を理解した぀もりになっおいた。


03「Ado」ずいう䜜品

『ビバリりム』を読み返しおいお、私が最も考え蟌んだのは、「Ado」ずいう名前だった。

本曞では、実際の本名の代わりに「沢朚アオ」ずいう仮名が䞎えられおいる。

もちろん、それはノンフィクション小説ずしおの配慮だろう。

だが、読み進めるうちに私は、もう䞀぀別の意味があるような気がしおきた。

この本には、沢朚アオは登堎するが、「Ado」は、ただどこにも珟れおいないのである。

正確に蚀えば、「Ado」ずいう名前は最初から存圚しおいる。

歌い手ずしおリアルに掻動しおいるのだから圓然だ。

それでも読み終えたあず、䞍思議な感芚だけが残る。

私は「Ado」の誕生物語を読んだはずなのに、その誕生の瞬間だけが芋぀からない。

ペヌゞを繰っお戻っおも、それはない。

「今日からAdoになった」ずいう堎面は存圚しないのである。

代わりにあるのは、少しず぀積み重なる時間だった。

ボカロを聎く時間。歌を録る時間。コアなリスナヌに向けお、投皿を続ける時間。千朚良卓也ず電話で話し続ける時間。

その䞀぀ひず぀は、どれも劇的ではない。

しかし読み終えたあずで振り返るず、その静かな時間の䞭にだけ、「Ado」が少しず぀茪郭を持ちはじめおいる。

私は、その読み方をしお初めお、「うっせぇわ」ずいう曲が違っお芋えおきた。

䞀般に『うっせぇわ』は、Adoのデビュヌ曲ずしお語られる。

だが本曞を読むかぎり、それは少し違う。

あの曲は、Adoが突然生たれた瞬間ではない。

長い時間をかけお育っおきたものが、初めお瀟䌚の前ぞ姿を珟した瞬間だった。

ここで誀解しおはいけないこずがある。

『うっせぇわ』を曞いたのはAdoではない。

䜜詞䜜曲は、ボカロPのsyudouである。Adoが自ら䟝頌した。

そのこずは、この物語を読むうえで、むしろ重芁に思えた。

䞀人の人間が䜜った楜曲が、別の䞀人の人間の声によっお歌われる。

それだけなら、音楜シヌンでは珍しいこずではない。

しかし『うっせぇわ』には、もう䞀぀の時間が重なっおいる。

『うっせぇわ』が䞖に出たのは、二〇二〇幎十月二十䞉日アオの17歳最埌の日。

瀟䌚党䜓が、「正しさ」をめぐっお神経を尖らせおいた頃である。

倖ぞ出るこずが善なのか、悪なのか。

䌚うこずは自由なのか、無責任なのか。

自分の呜を守るこずず、誰かの生掻を守るこずが、同じ方向を向かなくなった。

瀟䌚を維持しようずする力ず、䞀人ひずりが生き延びようずする欲望ずが、毎日のように衝突しおいた。

あの頃、人々はりむルスだけず闘っおいたのではない。

他者の「正しさ」ずも、自分自身の䞍安ずも闘っおいたのである。

その匵り詰めた空気の䞭で、『うっせぇわ』は瀟䌚ぞ攟たれた。

だから、倚くの人はあの歌を「反抗」ずしお、干枉ぞの怒りずしお聎いた。

ある者は組織ぞの怒りを重ね、ある者は青春の蚘念日ずなるセレモニヌを奪った孊校を想い浮かべた。

ある者は、゚ゎず゚ゎがぶ぀かった家族の日々を想い出した。

しかし、『ビバリりム』を読み終えたあずでは、その歌は少し違っお聎こえる。

私は、瀟䌚ぞ向けお怒る歌ずいうより、䞀人の少女がようやく自分の声を手に入れる瞬間ずしお聎くようになった。

syudouが曞いた䞀぀の歌は、Adoの声を通り、その時代のフィルタヌを通り、さらに䜕癟䞇人ものリスナヌを通っお、それぞれ別の意味を持ち始める。

だから私は、この曲を「ヒット曲」ず呌ぶこずに少しためらいがある。

爆発的にヒットし、瀟䌚珟象ずなったこずが重芁なのではない。

倚くの人が、自分自身の内面の「声」ずしお受け取っおしたったこずのほうが重芁なのである。

『ビバリりム』は、その珟象を分析しないし、説明もしない。

ただ、その「声」が生たれるたでの時間だけを曞いおいる。

そしお、私はようやく䞀぀のこずに思い至った。

Adoは、『うっせぇわ』によっお生たれたのではない。

『うっせぇわ』ずいう䞀曲によっお、私たちがAdoに出遭っおしたったのである。

だから、『うっせぇわ』は䞀時代を画する楜曲になったのだず思う。

もっずも、私は最初、その歌をそう理解しおいなかった。

瀟䌚ぞの反抗や、若者の鬱屈を代匁し、抑圧された感情の爆発を衚珟した曲。

そうした読み方は、圓時の空気ずもよく重なっおいた。

ずころが、『ビバリりム』を読み終えたあずでは、その歌は少し違っお聎こえるようになった。

syudouが曞いたあの歌詞は、瀟䌚ぞの抗議ずしお曞かれたずいうより、圌自身の内偎で溜め蟌んでいた思いの䞈を衚珟したものだった。

その思いを、Adoが歌い、解き攟った。

いや、歌ったずいう衚珟だけでは足りない。

圌女は、その蚀葉を自分の人生の䞭ぞ匕き受けおしたった。

本曞を読んでいるず、Adoの声が説埗力を持぀その理由が少しず぀芋えおくる。

幌い頃から、自分の思いをうたく蚀葉にできなかったこず。

䜕かをやりたいず思っおも、自分には無理だず先に思っおしたうこず愛情ずいう名の芪の支配ずコントロヌル。

誰かに届く保蚌のない郚屋の䞭で、䜕床も歌声を録り盎しおいたこず。

そうした時間を知っおしたうず、『うっせぇわ』は䞀人の少女が突然瀟䌚ぞ牙を剥いた歌には聎こえなくなる。

もっず長い時間をかけお育っおきた声が、ようやく居堎所を芋぀けた瞬間の喜びに聎こえるのである。

そしお、おそらく『ビバリりム』ずいう本が曞いおいるのも、その䞀曲が生たれるたでに費やされた、誰にも芋えなかった透明な少女の、気の遠くなるような時間なのである。


04小束成矎が芋たもの、芋なかったもの

『ビバリりム』を二床読み終えお、私はようやく䞀぀のこずに気づいた。

私は、この本を読み違えおいたのである。

最初は、Adoずいう歌い手を理解するための本だず思っおいた。

しかし二床目は違った。

この本は、理解するための本ずいうより、䞀人の少女ず同じ時間を過ごすための本だった。

小束成矎は、急がない。䜕かを説明しようずもしない。

家庭のこずも、孊校のこずも、ボカロずの出䌚いも、淡々ず出来事を積み重ねおいく。

その読み心地は、評䌝ずいうより、小説に近い。

だから読者は、沢朚アオず同じ時間を歩くこずになる。

私は、この距離感が奜きだった。

人を裁かないし、出来事に意味を䞎え過ぎないで、読み手に考える䜙癜を残しおいる。

その筆臎は、䞀貫しおいる。

䞀方で、読み終えたあずに、私は別の感芚も残った。

本曞は、倚くの出来事を語っおいる。

それでも、私は䜕か決定的なものだけが、最埌たで蚀葉にならなかったように感じた。

沢朚アオは、なぜこれほど匷く、自分を吊定しおいたのか倧人に吊定され続ける少幎少女はいっぱいいる。

なぜ、歌うこずだけは諊めなかったのか。

なぜ、「歌手」ではなく、「歌い手」ずいう蚀葉にこだわったのか。

なぜ、「䞖界ぞ届けたい」だったのか。

本曞は、その問いに答えようずはしない。

それは、著者の力量ではなく、遞択だったのだず思う。

小束成矎は、人の内面を心理面から説明する䜜家ではない。

人生を出来事ずしお描く曞き手である。

だから本曞には、知られおいない倚くの事実がある。

だが、その事実を䞀本の解釈ぞ束ねるこずはしない。

私は、その姿勢を尊重したい。

䞀人の十代の少女に぀いお、倧人が安易に意味を䞎えるこずには、慎重であるべきだからだ。

ただ、その慎重さが、本曞に独特の䜙韻を残しおいるこずも確かである。

読み終えたあず、読者はAdoを理解した気持ちになる。

ずころが時間が経぀に぀れ、その理解が少しず぀揺らぎ始める。

私はそうだった。

本を閉じおからのほうが、考える時間は長くなった。

問いばかりが残っおいく。

おそらく、それが『ビバリりム』ずいう本の特城なのだ。

読み終えおも、決しお終わらず、静かに問いかけが始たる。

だから、このあずの文章もたた、『ビバリりム』ぞの反論ではない。

䞀冊の本が残した問いを、もう少しだけ先ぞ運んでみたいず思った、その読曞䜓隓の続きである。

『ビバリりム』は、倚くを教えおくれる。

しかし、読めば読むほど、「Ado」ずいう存圚は䞀぀の説明から遠ざかっおいく。

そしお、䞀぀だけ思い至った。

「Adoずは䜕だったのか」ずいう問いだけが、静かに育ち始めるのである。

『ビバリりム』を読み終えお、なお残るのは、個々の堎面の意味ではない。

もっず根の深い問いである。

──「Ado」は、なぜ生たれたのか。いや、なぜ生たれざるを埗なかったのか。

沢朚アオは、歌うために芞名を必芁ずしただけではない。

自分の顔を隠すために、別の名前を遞んだだけでもない。

家族の䞭で蚀葉を倱い、孊校では自分の感芚を吊定され、䜕かを始めようずするたびに「自分にはできない」ずいう声が先回りする。

その䞀方で、圌女の内偎には、十代のうちに爪痕を残したい、誰も知らない堎所ぞ行きたい、ボカロ文化を䞖界ぞ届けたいずいう、珟実の自分には収たりきらない欲望が育っおいた。

その二぀を、沢朚アオずいう䞀人の少女のたた抱え続けるこずは、できなかったのではないか。

自分を奜きになれないたた、それでも䞖界ぞ出おいこうずするには、もう䞀人の分身の自分が必芁だった。

傷぀き、怯え、䞡芪の喧嘩の声に身を固くする少女ずは別に、怒り、がなり、他者が曞いた歌を自分の声で奪い返し、䞖界に向かっお立぀存圚が必芁だった。

だから「Ado」──シテではなくアド、しかも英文字衚蚘──は遞ばれた名前ずいうより、远い詰められた堎所から生たれた必然に近い。

それは自由な自己衚珟の結果ではない。

沢朚アオが沢朚アオのたたでは生き切れなかった未来を、先に生きるために生たれ出た存圚だったのではないか。

小束成矎は、その誕生に至る出来事を䞁寧に䞊べおいる。

䞡芪の䞍和も、母芪の過干枉も、父芪の所有欲も、クロヌれットも、ボカロずの出䌚いも、千朚良卓也ずの長い電話も曞かれおいる。

読者は、その経緯を知り、涙し、Adoが顔を隠し匿名で歌う理由にも玍埗するだろう。

それでも、説明し切れないものが残る。

なぜ圌女は、自分を守るだけではなく、䞖界を目指したのか。

なぜ隠れるための名前が、やがお䜕䞇人もの前ぞ立぀存圚になり埗たのか。

なぜ自己嫌悪が、瞮こたる方向ではなく、巚倧な舞台で茝く方ぞ向かう力に倉わったのか。

その問いを蟿っおいくず、やがお最初の問いぞ戻されおしたう。

「Ado」はなぜ、生たれたのか。

そしおさらに、その問いは圢を倉える。

沢朚アオは、なぜ「Ado」を生たざるを埗なかったのか。


05少女は、自分を挔じおいたのではない

『ビバリりム』を読み終えたあず、私の䞭に最埌たで残った違和感がある。

沢朚アオは、本圓に「陰キャの少女」だったのだろうか。

もちろん、本曞には、そのように読める堎面がいく぀もある。

家庭の䞭で居堎所を倱うし、孊校では、自分に自信を持おない。

「自分が嫌い」だず䜕床も曞く。

その姿は痛々しいほど率盎で、だから読者は圌女に共感する。

しかし、二床目に読み返したずき、別の少女が芋え始めた。

高校生のうちにZepp DiverCityぞ立ちたいず蚀う。

その倢がコロナ犍で消えるず、今床は高校生のうちにメゞャヌデビュヌするず蚀う。

「歌手ではなく、歌い手ずしお生きたい。」

「ボカロ文化を䞖界ぞ届けたい。」

その蚀葉は、驚くほど具䜓的で、驚くほど䞀貫しおいる。

私は、その二぀の姿をどうしおも䞀぀に重ねるこずができなかった。

自己嫌悪に揺れる少女ず、未来を迷いなく語る少女。

どちらが本圓なのか、ずいう話ではない。

本曞を読んでいるず、どちらも本圓なのである。

だから私は考えた。

私が読み違えおいたのは、沢朚アオではなく、「Ado」ずいう存圚そのものだったのではないか、ず。

私たちは、぀い「Ado」を芞名だず思っおしたう。

歌い手ずしお掻動するための名前。

それ以䞊でも、それ以䞋でもないものずしお。

だが、本曞を読むかぎり、それは名前ではない。

芞術品のような、䞀぀の䜜品である。

そのこずを最もよく衚しおいるのが、「歌手ではなく、歌い手ずしお生きたい」ずいう䞀文だった。

私は最初、この蚀葉を文化的なこだわりだず思っおいた。

ボカロ文化ぞの敬意ず、歌い手文化ぞの愛着。

もちろん、それもあるだろう。

しかし、それだけでは足りない。

「歌手」ずいう職業ではなく、「歌い手」ずいう存圚のあり方を遞んでいるのである。

そこには、自分をどう芋せるかずいう問いだけではなく、自分は䜕者ずしお䞖界に存圚したいのかずいう問いがある。

本曞には、その問いに答える堎面はない。

代わりに、小さな遞択が積み重ねられおいく。

顔出しはNGで、歌だけを、それも日本語で届けたいず蚀う。ボカロ文化の魅力を䞖界ぞ届けたいず蚀う。

千朚良卓也ず䜕時間も未来を語り続ける。

䞀぀ひず぀を芋れば、どれも独立した出来事である。

ずころが読み終えたあずで振り返るず、それらは偶然には芋えなくなる。

すべおが、䞀぀の方向を向いおいお、たわりが説埗される。

私は、そのこずが䞍思議だった。

本曞には、自分を奜きになれない少女が描かれおいる。

しかし、その少女は、「自分が䜕者になりたいのか」だけは、知る限り䞀床も芋倱っおいない。

だから私は、この本を「成功譚」ずしお読むこずができなかった。

読んでいたのは、䞀人の少女が有名になっおいく物語ではない。

䞀人の少女が、「Ado」ずいう創造物を、この䞖界に少しず぀成立させおいく時間だったのである。

そしお、そこたで読み進めたずき、私はもう䞀床、最初の問いぞ戻るこずになった。

「Ado」は、なぜ生たれたのか。

その問いは、ただ終わらない。

むしろ、この本は、その問いを読者ぞ手枡すために曞かれたのではないかず、私は今は思っおいる。


06「Ado」は、なぜ生たれたのか

どれか䞀぀の解釈で説明した瞬間、「Ado」は私の前から消えおしたう。

だから私は、簡単には、答えを曞くこずができない。

曞いおはいけない気がするのである。

『ビバリりム』は、䞀人の少女に぀いお、倚くのこずを教えおくれる。

しかし、それらはどれも原因ずしお曞かれおはいない。

家庭も、孊校も、ボカロも、誰かずの出䌚いも、「だからAdoになった」ず説明されるこずはない。

本曞が曞いおいるのは因果ではなく、䞀぀の存圚が少しず぀茪郭を持ち、説埗力を持っおいく時間なのである。

そしお、「Ado」が生たれるたでの時間。

しかし、本を閉じたあずも、なお䞀぀だけ曞き残された問いがある。

それは、「Ado」が生たれた理由ではない。

なぜ、「Ado」ずいう存圚は、これほどたでに倚くの人の心を匕き受けるこずができたのか。

その問いである。

私は、いたもその答えを持っおいない。

だから、ずきどき『桜日和ずタむムマシン』の映像を芋返す。

巚倧なスクリヌンを背にした箱の䞭で、Adoず初音ミクが䞊んで歌う。

あの日、涙しおいた倧勢の人たちは、本圓は䜕を芋おいたのだろう。

䞀人の歌い手の成功ではない。

初音ミクずの倢の共挔でもない。

私にはむしろ、マむナヌだった䞀぀の文化が──そしおその文化が育んだ固有の感受性が──、挞く自分の時間を肯定された瞬間を芋届けおいるように思えた。

だからこそ、その涙は䞖代も囜境をも越えおいたのではないか。

ただ、䞀぀だけ確かなこずがある。

だから、あの日、囜立競技堎で生たれた感動は、あの日だけのものではなかった。

それは、もっずずっず前から始たっおいた。

『ビバリりム』は、その長い時間を、䞀冊の本ずしお静かに残した。

そしお私自身も、この䞀冊を読み終えお、Adoを理解したわけではない。

むしろ、理解しおいたず思い蟌んでいた自分の芋方のほうが揺らぎ始めた。

それだけで、この本には読む䟡倀があったず思う。

しかし、私の読曞は、ここでは終わらなかった。

最埌たで残り続けた問いが、䞀぀ある。

──「Ado」は、なぜ生たれたのか。それは沢朚アオにも知られおいない秘密だ。

『ビバリりム』は、その誕生たでを描いた。

けれども、その誕生が、この時代にずっお䜕を意味したのかに぀いおは、ほずんど思考されおいない。

私は、皿を改めお、その問いに挑戊しおみようず思う。

おそらくそれは、䞀人の歌い手に぀いおの論考にはならない。

あの日、囜立競技堎に立っおいたのは、䞀人の歌い手ではなかった。

私には、䞀぀の時代が、新しい名前を埗た瞬間のように芋えたからである。


07「Ado」或る肖像

その少女は、自分を信じおいなかった。

そのこずは、本曞のいたるずころに曞かれおいる。

顔ぞの劣等感。孊校での居心地の悪さ。「自分が嫌いだ」ずいう率盎な蚀葉のリフレヌン。

ずころが、読み返すたびに、私は別の違和感を芚えるようになった。

この少女は、自分が䜕者であるかに぀いおは、ほずんど確信を持おない。

それなのに、自分が䜕者になろうずしおいるのかに぀いおは、䞀床も迷っおいないのである。

高校生のうちにメゞャヌデビュヌする。

歌手ではなく、歌い手ずしお生きる。

ボカロ文化を䞖界ぞ届ける。

それは倢ずいうより、自己玹介に近かった。

未来を願っおいる蚀葉ではない。

未来の自分を、すでに珟圚圢で匕き受けおいる人間の話し方だった。

私は、この萜差が最埌たで気になった。

珟圚の自分は信じられないが、未来の自分だけは疑わない。

普通なら、この二぀は䞡立しない。

だから私は、本曞を読みながら、少しず぀考えが倉わっおいった。

圌女は、自分を信じおいたのではない。

「自分」ずいう人間を、そのたた䞖界ぞ差し出そうずもしおいない。

先に決めおいたのは、私は䜕者ずしお生きお、䜕者ずしお䞖界に珟れるかだったのではないか。それは凡庞な倧人が跪くくらいに非凡なこずだ。

沢朚アオは「私はこうなりたい」ずは蚀っおいない。

むしろ、「私はこういう人間です」ずいう話し方をする。

目指すのが理想自己なら未来だが、Adoは未来ではない。垞に珟圚圢だ。

だからこそ、高校生でも、「䞖界ぞ行く」ず蚀えた。

そう考えるず、本曞に散りばめられた小さな遞択が、急に䞀぀の線で぀ながり始める。

ディズニヌ映画のプリンセスぞの憧れ。歌を磚く。名前を遞ぶ。顔を芋せない。「歌手」ではなく、「歌い手」ずいう蚀葉を遞ぶ。そしお歌い手はどこか「声優」に䌌おいる。

どれも独立した出来事に芋える。

しかし、振り返るず、それらはすべお同じ方向を向いおいる。

圌女は歌を䜜っおいたのではない。

歌い手を䜜っおいたのでもない。

「Ado」ずいう存圚が、この䞖界にどう珟れるべきかを、䞀぀ず぀遞び取っおいたのである「これはむダ」「あれはむダ」ずいう消去法で。

その姿は、挔技ずは少し違う。

挔技なら、圹を終えれば元ぞ戻るこずができる。

しかし圌女が䜜っおいたものは、戻る堎所ではなかった。

むしろ、ただ远い぀いおいない未来の自分だった。

だから私は、「Ado」を芞名ずは思わない。

ペル゜ナずいう蚀葉でも、ただ足りない。

あれは、䞀人の少女が珟実から逃れるために䜜った仮面ではない。

珟実の自分よりも先に生き始めた自己定矩だったのではないか。

アオには、「私は䜕者ずしお生きるのか」ずいう自己定矩だけは本気で信じられおいた。

自己評䟡ではなく、自己定矩で生きるこず。

だから圌女は䌑めない。

成功したから止たるのではなく、止たった瞬間に、その自己定矩ぞ远い぀けなくなる。

昚日の成功は、今日の安心にはならない。

次のステヌゞぞ向かうこずは、野心ずいうより、自分自身ずの玄束を守る行為だったのではないか。

だから私は、圌女を成功者ずは呌びたくない。

もっず切実なものを芋おしたったからである。

圌女は、成功を目指しおいたのではない。

「Ado」ずいう存圚に、自分自身が远い぀こうずしおいた。

私は、その切実さこそが、「Ado」ずいう名前を必芁ずした本圓の理由だったように思えおならない。


〈了〉

性栌分析マスタヌ・比呂

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