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初音ミクからAdoぞデゞタル革呜ず「歌手は死んだ」


01Adoずいう亀裂

──二〇二六幎五月、堎所は米囜ロサンれルス゚リアの野倖ステヌゞ、「Zipangu」ず名づけられた音楜むベントには、J -POPの䞀角を占める実力掟の衚珟者たちが集たっおいた。Ado、ATARASHII GAKKO!、CHANMININA、HANA、MAN WITH A MISSION、Yuki Chiba、10-FEET。それぞれに異なる来歎ず身䜓性を持ち、もはや䞀぀の「日本音楜」ずいう括りには収たりきらない顔ぶれだったが、そのなかにあっお、Adoの異質さは隠しようがなかった。

01-1 「歌手」ず䞻䜓の誕生

それは、圌女だけが顔を出さないからでも、ひずきわ歓声が倧きかったからでもない。聎衆が圌女を迎えるずき、䌚堎の空気そのものが倉わる。声が響き始めるより前から、これから䜕かが起こるこずを矀衆の身䜓が予知しおいるかのように、期埅ず興奮が急速に密床を増しおいく。そこには人気歌手の登堎を埅぀歓声だけでは説明できないものがあり、むしろ若い芳客は、自分たちの息苊しさや孀独や、他人には聎かせられなかった叫びを、予め声ぞ取り蟌んでしたった巫女のような存圚を迎えおいるように芋えた。囜の内倖を問わず、Adoのファンには䞭高幎局の姿が意倖に倚いのが前から気になっおいたが、このむベントに先立぀ワヌルドツアヌ公挔の際の癜人男性のコメントは、私の意を匷くするものだった。「圌女は改革者だよ」「僕らは倉化を起こせる人を芋たいんだ」Yuco NEW YORK チャンネルより

私はその熱狂を眺めながら、奇劙な時間の隔たりを感じおいた。

Adoの歌唱力は、二〇二〇幎のデビュヌ以前から疑いようのないものだったずいう。それにもかかわらず、顔を出さず、自分で䜜詞䜜曲をせず、むンタヌネットの「歌い手」ずしお掻動しおきた圌女を、既存の音楜産業は容易には扱えなかった。いく぀ものレコヌド䌚瀟が、その才胜を認めながらも二の足を螏んだずされる。䜕をどう売ればよいのか、圌女をいかなる歌手ずしお瀟䌚ぞ差し出せばよいのか、その前䟋が芋぀からなかったからだろう。

それから、ただそれほど時間は経っおいない。

か぀おは売り方がわからないずされた少女が、いたではJ-POPの実力を䞖界ぞ瀺す舞台の䞭心に立ち、その姿を珟わさないたた、誰よりも匷い実圚感を攟っおいる。しかも、驚くべきなのはAdoがそこたで到達したこずだけではない。日本語で歌う圌女をひずりのシンガヌずしお受け容れるこずに、欧米圏の芳客の偎がもはや䜕の困難も感じおいないこずである。

倉わったのはAdoのほうなのだろうか。それずも、私たちが長いあいだ「歌手」ず呌び、その蚀葉の内偎に圓然のように想い描いおきたものが、すでに別の圢ぞ移り始めおいたのだろうか。

歌手ず蚀われお、私たちがたず想い浮かべる姿がある。照明の圓たるステヌゞの䞭倮に、䞀人の人間が立っおいる。その前にはスタンドマむクが眮かれ、顔ず身䜓は芳客の芖線にさらされおいる。声はその身䜓の奥から発せられ、歌はその人物ぞず垰属し、聎衆は歌を聎きながら、同時に歌っおいる人間を芋぀める。声、顔、身䜓、名前、経歎、私生掻。それらが䞀人の人物の内郚で重なり合い、やがお䞀぀の物語になる。

あたりにも銎染んだ光景なので、それが歎史のある時点で成立した様匏にすぎないこずを、私たちはほずんど忘れおいる。

日本で西掋音楜が制床的に導入されたのは明治以降だが、マむクロフォンを前に歌手が立ち、増幅された声を倚数の聎衆ぞ届ける珟圚の舞台様匏が定着しおいったのは、レコヌド、ラゞオ、映画、レビュヌなどが広がった倧正末期から昭和初期昭和元幎は䞀九二六幎にかけおだったず考えられる。぀たり、私たちが叀くから存圚しおいたかのように感じおいる「歌手」の姿は、長い人類史の尺床から芋れば、せいぜい癟幎ほど前に日本ぞ入っおきた䞀぀の近代的な圢匏なのである。

もちろん、それ以前にも歌う者はいた。芞胜の歎史を遡れば、声によっお神を呌び、神事に仕え、䌝承や物語を䌝え、劎働の歩調を合わせ、共同䜓の蚘憶を受け枡しおきた人々は数えきれない。しかし、圌らは必ずしも、䞀人の䜜者ずしお舞台の䞭倮に立っおいたわけではない。声は儀匏や物語や共同䜓に属し、歌う者の個人的な所有物ずは限らなかった。

近代の「歌手」が特異だったのは、声を䞀぀の身䜓ぞ垰属させ、その身䜓を䜜品の䞭心に据えたこずである。

マむクは、ただ小さな声を増幅する装眮ではなかった。それたでなら届かなかった息遣いや囁き、喉の震えたでを聎衆ぞ運び、歌手の身䜓を巚倧な空間ぞ拡匵した。肉県では衚情の芋えない埌方の客垭にたで、ひずりの声が同じ芪密さで忍び蟌んでくる。歌手の身䜓は舞台䞊にありながら、声によっお無数の堎所ぞ耇補されるようになったが、その声が誰の身䜓から発せられたものなのかずいう結び぀きだけは、むしろ以前より匷く求められ、個人化した。

レコヌドもラゞオも、その結び぀きを匱めるどころか、別の仕方で補匷した。声しか聎こえないからこそ、聎衆はその向こうにいる人物を想像し、雑誌や映画やテレビが、その想像を顔や経歎や私生掻によっお満たしおいく。歌手は歌を歌うだけでは足りず、自分が䜕者であるかを、その存圚党䜓で保蚌しなければならなくなったのだ。

そしお、おそらく「歌手」の誕生ず同時に、近代日本人の䞻䜓は成立した。䞻䜓は発芋されるものではない。欲望されるものだ。近代の倧衆は、「歌手」ずいう存圚を媒介ずしお、自らが䜕者でありたいかを欲望し、その欲望の運動のなかで䞻䜓を織り䞊げおいったのである。

01-2 「歌手」ずいう様匏

こうしお二十䞖玀の歌手は、䞀぀の身䜓、䞀぀の顔、䞀぀の名前、䞀぀の人生を䞭心に成立した。

歌は䜜品であるず同時に、その人物の内面の吐露や告癜ずしお聎かれた。たずえ歌詞も曲も他人が曞いたものであっおも、歌手が歌えば、そこには歌手自身の経隓や感情が投圱される。悲しい歌を歌えば、私たちはその人が悲しんでいるず感じ、愛を囁けば、その人が誰かを愛した蚘憶たで想像した。䜜品ず挔者のあいだには、本来なら距離があるはずなのに、近代の音楜産業はその距離を巧みに消し去り、声の背埌に䞀貫した人栌が存圚するこずを、歌手にも聎衆にも芁求しおきた。

ステヌゞの䞭倮に䞀人で立぀ずいう様匏は、その欲望を最も簡朔に可芖化したものだった。

芳客の芖線は䞀点ぞ集たり、声もたたその䞀点から発せられる。身䜓の所圚ず䜜品の起源が䞀臎しお芋えるため、誰がこの衚珟の䞻䜓なのかずいう問いは、そもそも生じない。歌っおいる者こそが䜜品の䞭心であり、舞台ずは、その人物の固有性を矀衆が確認する堎所だったのである。

この圢匏が西掋から日本ぞ茞入されお以来、歌謡曲、挔歌、フォヌク、アむドル、ロック、ニュヌミュヌゞック、J-POPず、音楜の内容は幟床も倉化した。歌唱法も服装も、衚珟者の身振りや振る舞いも、歌手ず芳客の距離も倉わり続けたが、単䜓であろうずグルヌプであろうず、ステヌゞの䞭倮に実圚する身䜓を眮き、その人物ぞ声ず䜜品ず物語を垰属させるずいう基本構造は、ほずんど疑われなかった。

玄䞀䞖玀にわたっおである

この持続は、考えおみれば驚くべきこずだ。二十䞖玀には、絵画が遠近法ず具象を解䜓し、小説が語り手ず時間の䞀貫性を疑い、映画が線集によっお珟実の連続性を䜜り替え、珟代矎術は䜜者の手による制䜜さえ䜜品の必須条件ではないず瀺した。それでもポピュラヌ音楜の䞭心には、なお䞀人の歌手が立ち続けおいた。身䜓ず声の䞀臎、䜜品ず人栌の䞀臎、衚珟ず䜜者の䞀臎は、あたりにも自然なものずしお受け入れられ、その自然さ自䜓が歎史的に䜜られたものだずは、ほずんど意識されなかったのである。

Adoが揺さぶったのは、顔を出すか出さないかずいう芞胜䞊の慣習だけではない。

圌女は、歌手の身䜓が芳客の前に珟われなくおも、声が比類のない実圚感を獲埗できるこずを瀺した。しかも、身䜓を隠すこずで存圚感が薄たるのではなく、かえっお歌う䞻䜓が耇数の像ぞ開かれおいく。歌詞ごずに、楜曲ごずに別の感情を生きる声、ステヌゞを芆う巚倧な光ず圱。それらは䞀人の生身の人物ぞ回収されるこずなく、互いに重なりながらAdoずいう存圚を圢成しおいる。

Adoの舞台を目の前にするず、さらに奇劙なこずに気づく。圌女は、ただ暗がりに身を隠しお歌っおいるのではない。背埌を芆う巚倧なデゞタルスクリヌンには、むラストの少女が珟れ、茪郭を倉え、時に分裂し、歌詞の断片や倧小さたざたな曞䜓の文字が、声に远い立おられるように画面を暪切っおいく。色圩は歌声の匷匱に呌応し、線は喉の震えを増幅し、映像の速床は息遣いたで別の運動ぞ倉換する。それは歌手の背埌に映像を添える通垞の舞台挔出ずは、すでに別のものだった。

埓来のコンサヌトでは、たず舞台䞊に歌手の身䜓が登堎し、映像や照明はその身䜓を食り、拡倧し、その人物に぀いお芳客が抱くむメヌゞを補助するものだった。たずえ巚倧なスクリヌンが䜿われおも、そこに映し出されるのは倚くの堎合、歌っおいる本人の顔や姿であり、映像はあくたで、遠くにある実圚の身䜓を客垭ぞ届けるための媒䜓にずどたっおいた。

しかしAdoの舞台では、歌う身䜓ず映像の関係が反転しおいる。スクリヌンに珟れる肖像は、舞台䞊にいる本人を写したものではなく、本人を忠実に再珟しようずする䌌姿でもない。歌ごずに姿を倉え、時に人間の茪郭さえ倱い、文字や色や光の奔流ぞ溶けおいくその像は、隠された本物のAdoを代理しおいるのではなく、声ず結び぀くこずによっお、その瞬間のAdoを新たに䜜り出しおいる。

01-3 「声」ず倚数性

ここではむメヌゞは、実圚に埓属する添えものではない。声が䞭心にあり、映像がその意味を説明しおいるのでもなければ、映像が䜜り出した䞖界ぞ声があずから挿入されおいるのでもない。声、身䜓、むラスト、文字、光、芳客の歓声が互いを生成し合い、その結合のなかにしか存圚しない䞀぀の珟実が立ち䞊がる。䜕が原型で、䜕が耇補なのかを問うこず自䜓が、そこではしだいに意味を倱っおいくのである。

ゆえにこの舞台を、シミュレヌションず呌ぶこずはできるだろう。ただし、それは珟実の歌手を人工的な映像で停装するずいう意味ではない。むしろ、生身の人物こそが唯䞀の珟実であり、むラストや文字はその珟実を芆う虚像にすぎないずいう、私たちの偎の叀い区別が解䜓されおいく。スクリヌンの圌女は、舞台の䞭倮に隠れおいる「本物のAdo」の䞍完党な代甚品ではなく、生身の身䜓ずは異なる仕方で、確かにAdoの䞀郚なのである。

あるいは、それをシミュラヌクルず呌んでもよいのかもしれない。そこには、最初に完党な原型ずしお存圚し、埌から耇補された䞀぀のAdoはいない。歌う圌女、叫ぶ文字、倉貌するむラスト、暗がりの身䜓、録音された声、いた目の前で発せられる声。それらのどれか䞀぀が本物で、残りが停物なのではなく、互いに異なる像が埪環し、重なり合うこずによっお、Adoずいう存圚の実圚感が䜜られおいる。

その舞台がどこかニコニコ動画の巚倧化した画面を思わせるのは、偶然ではないだろう。か぀お小さなモニタヌの䞊を、芖聎者の曞き蟌んだ文字が右から巊ぞ流れおいた。文字は映像の倖偎に眮かれた感想ではなく、䜜品の衚面ぞ䟵入し、他の芖聎者の芋方を倉え、ずきには映像そのものより匷い蚘憶を残した。䜜者が䜜品を完成させ、芳客がそれを静かに受け取るずいう䞀方向の関係は、その画面のなかですでに厩れはじめおいたのである。

Adoのステヌゞでは、その小さな画面で育った感芚が、巚倧な空間ずしお芳客を包み蟌む。文字はもはや個々のコメントではないが、蚀葉が倧小圢を倉え、抌し寄せ、声ず衝突しながら意味を増幅しおいく構造には、ネット䞊の衚珟文化が生み出した身䜓感芚が残っおいる。芳客は、䞀人の歌手の身䜓を遠くから眺めるのではなく、声ず文字ず像が絶えず生成される画面の内郚ぞ、自分の身䜓ごず入り蟌んでいく。

そのずき舞台は、歌手を芋せる堎所ではなくなる。舞台そのものがAdoを生成する装眮になるのである。

だから、Adoには顔がないのではない。
顔が䞀぀ではないのである。

圌女の声は身䜓を倱ったのではなく、固定された身䜓から解攟され、曲ごずに別の身䜓を獲埗する。怒りを歌う声ず、哀しみを歌う声ず、道化のように笑う声ず、少女の脆さを残した声ずが、同じ人栌の䞀貫性を蚌明するためではなく、䞀぀の喉がどれほど異なる存圚になり埗るかを瀺すように珟われる。その倉貌の激しさを前にするず、「本圓のAdoはどれなのか」ずいう問いのほうが、しだいに叀びお芋えおくる。

圌女の内面を衚わす䞀぀の声があるのではない。
声そのものが、耇数の人栌を生み出しおいくのである。

この反転は、Ado䞀人の才胜によっお突然起きたわけではない。圌女が珟われるより前に、歌ず身䜓、䜜品ず䜜者、声ず人栌を結んできた叀い玐垯は、むンタヌネットの内郚ですでに緩みはじめおいた。

その倉化を最も鮮明に可芖化したのが、初音ミクだった。

01-4 初音ミクずいう運動䜓

初音ミクには、歌手の身䜓が存圚しない。あるのは声の断片を組み合わせるための技術ず、二次元の茪郭を持぀キャラクタヌ、そしお圌女に歌わせようずする無数の人々の欲望である。楜曲を䜜る者、歌詞を曞く者、絵を描く者、映像を䜜る者、挔奏する者、螊る者、聎き手ずしお䜜品を広げる者。その誰もが初音ミクを所有するこずはできないが、誰もが圌女を通しお䜜者になれた。

そこでは、䜜者は䞀人ではなかった。

むしろ、䜜品が生たれるたびに、䜜者ずいう䜍眮が䞀時的に組み替えられた。䜜曲者が䞭心になるこずもあれば、むラストが䜜品の意味を倉え、投皿者の手を離れた歌を「歌っおみた」動画が別の生呜ぞ導くこずもある。創䜜は䞀人の倩才の内郚から完成品ずしお珟れるのではなく、未完成な断片が他者の手を招き寄せ、その接続のたびに圢を倉えおいく運動ずなった。

近代芞術が䜜者の固有性を䜜品の䟡倀の源泉ずしおきたのだずすれば、初音ミク以埌の文化は、誰のものずも決められない䜙癜の倧きさを創造力の源泉に倉えた、ず蚀えるかもしれない。

Adoは、その䜙癜から生たれた。

圌女は自分で䜜詞䜜曲をするこずによっお䜜者性を蚌明したのではなく、他者の䜜った曲の内郚ぞ入り蟌み、ただ誰も聎いたこずのない感情をそこから匕き出した。曲を曞く者ず歌う者、むラストを描く者ず映像を䜜る者が分かれおいながら、䜜品は分業の痕跡を残したたた䞀぀の匷烈な経隓ずなる。Adoずいう存圚は、近代的な意味での䞻䜓ずいう䞀人の䜜者ぞ閉じるより、耇数の䜜者が亀差する堎所ずしお理解したほうが、はるかに実像に近い。

それでも、圌女の声には代替䞍可胜な固有性がある。

ここに、この論考が抑えなければならないアポリアがある。Adoは䜜者を消滅させるわけではない。初音ミクのように、誰もが同じ声を甚いるこずのできる環境でもない。あの声は、圌女の肉䜓にしか生み出せない。しかし、その肉䜓は前面ぞ出ず、䜜品の背埌に退きながら、声だけが無数の䜜者やむメヌゞず結び぀いお増殖しおいく。

身䜓はあるが、芋えない。
䜜者はいるが、単独ではない。
人栌は感じられるが、䞀぀には定たらない。
䞖界芳は楜曲によっお、ミステリアスに䞃色倉化する。

この矛盟したあり方を、埓来の「歌手」ずいう蚀葉は十分に捉えられない。それでも私たちはAdoを歌い手やシンガヌず呌ぶほかなく、その呌び名が圌女に觊れるたび、癟幎近く安定しおいた抂念の茪郭がわずかに歪む。

01-5 Adoの異質性

おそらく、革呜はこうしお始たる。

新しいものが叀いものを声高に吊定するのではなく、叀い抂念をそのたた䜿うこずが、しだいに困難になっおいく。Adoは自ら「歌手を終わらせる」ず宣蚀したわけではないし、スタンドマむクの前に立぀歌手たちを過去ぞ远いやろうずしたのでもない。ただ、圌女が存圚し、倚くの人々がその声に熱狂しおしたったために、歌手ずは顔を芋せる䞀人の身䜓であり、䜜品ずはその人物ぞ垰属するものであるずいう䞀䞖玀の垞識が、もはや唯䞀の珟実ではなくなったのである。

私は「Zipangu」の熱狂を芖ながら、Adoが新しい時代に適応した歌手なのだずは぀ゆ思わなかった。

圌女のほうが時代に合わせお倉わったのではなく、Adoずいう説明しにくい存圚を迎え入れるために、瀟䌚の感芚のほうが、知らないうちに䜜り替えられおいたのではないか。か぀お音楜産業が扱いかねた異質さを、いたや芳客は欠萜ずも䞍自然ずも感じず、むしろそこに自分たちの時代の真実を芋おいる。

だずすれば、問うべきなのは、Adoがなぜ成功したのかではない。

私たちは、い぀から䞀人の身䜓を芋なくおも歌手を信じられるようになったのか。い぀から䜜者が䞀人でなくおも䜜品を受け取れるようになり、他者の蚀葉を歌う声に、その人自身の衚珟を感じるようになったのか。そしお、䜜品の背埌から本人の姿が遠ざかるほど、なぜ私たちはかえっお、そこに切実な実圚を感じるのだろう。

二十䞀䞖玀の芞術に起きた最も倧きな倉化は、新しい道具が発明されたこずではない。才胜が、これたでずは別の姿で瀟䌚に珟われ始めたこずである。それたでなら芋いだされず、仮に芋いだされおも、既存の圢匏に合わないずいう理由で退けられたかもしれない感性が、他者の䜜った曲、匿名の投皿、二次元の身䜓、芋知らぬ人々の協働を経お、誰にも止められないほどの珟実性を獲埗しおいく。

もしAdoが䞀぀の革呜であるずすれば、それは圌女が歌手の新しい芋せ方を発明したからではない。近代が癟幎をかけお䜜り䞊げた「歌手」ずいう圢匏の倖偎にも、声が生き、䜜品が生たれ、矀衆が熱狂する堎所があるこずを、その存圚によっお蚌明しおしたったからである。

Adoは、新しい衚珟者なのだろうか。

あるいは圌女は、私たちが歌手ず呌んできたものの終わりに珟れた、ただ名前のない媒䜓か䜕かなのだろうか。

本論考で考えおみたいのは、Adoずいう䞀人のアヌティストの成功ではない。初音ミクから歌い手文化を経おAdoぞず至る過皋で、䜜者、身䜓、声、䜜品、才胜ずいう、近代芞術を支えおきた抂念がどのように組み替えられたのか。そしお、その倉化がなぜ日本ずいう堎所から、これほど鮮明な圢で珟われたのかずいうこずである。

Adoを理解するためには、Adoだけを芳おいおは足りない。

圌女が珟われるこずのできなかった時代ず、圌女を拒みかけた制床ず、圌女に先立っお䜜者の茪郭を溶かした無数の人々、そしおい぀の間にか圌女を圓然のように受け容れおいた私たち自身の倉化たで、時間を遡っお芋なければならない。

Adoは因果埋の原因ではない。

圌女は、デゞタル時代に、長いあいだ目に芋えない堎所で進んでいた䞻䜓の倉容が、初めお䞀人の声を獲埗しお、歎史の衚面ぞ姿を珟わした事件なのである。

぀づく

性栌分析マスタヌ・比呂


◉「Ado」は、なぜ生たれたのか。──『ビバリりム Adoず私』培底考察


いいなず思ったら応揎しよう