ガリレオ文芸に気をつけろ! 文芸ゴッコの終焉
先ほど、「創作大賞は宝くじではなくマラソンだ――17万作品応募を考える」という記事を書いた。
17万作品という数字を前にして、必要以上に怯える必要はない。
重要なのは、応募総数ではなく、自分の作品がどこまで走れるのかを知ることだ。
そして、そのためには一つ、避けて通れない問題がある。
そもそも、自分が書いているものは「小説」になっているのか。
今回は、そこについて書いてみたい。
ガリレオ文芸が依然として沈黙を続ける中、今回は、肝心の「ガリレオ文芸大賞」に応募されている作品群に目を向けてみたい。
いくつか実際に読んでみた。
率直な感想を言えば、技術的な巧拙を論じる以前に、「小説として読ませる力」が弱い作品が少なくない。
描かれているのは、フィクションとして構築された物語というより、作者自身の体験や感情をそのまま文章にしたものに近い。
もちろん、個人的な体験を素材にして小説を書くこと自体は悪いことではない。
しかし、体験を書いたことと、それを小説にしたことは同じではない。
小説には、作者の経験を読者の経験へと変換する作業が必要になる。
登場人物をつくり、状況を設定し、出来事を起こし、その人物がどう行動するのかを描く。
その結果として、作者自身は経験していないことまで、読者に経験させる。
そこまで変換されて初めて、日記や身辺雑記は小説になっていく。
ところが、そこを飛ばしてしまうと、どうしても「小説未満のエッセイ的レポート」になってしまう。
これは、マラソンに例えれば分かりやすい。
42.195キロを走る以前に、まだ10キロも走れる状態になっていない。
それなのに「17万作品の中で何位になれるだろう」と考えても、あまり意味がない。
まず、自分の作品が走れる作品になっているのか。
そこから考えるべきなのだと思う。
そして、ここで難しいのは、本人にはそれがなかなか見えないことだ。
仲間同士で作品を読み、「よかった」「感動した」「素敵だった」と言い合うことは、書き続けるためには必要だろう。
しかし、それだけでは作品の問題点は見えてこない。
むしろ必要なのは、ときには作者が聞きたくないことまで指摘する批評ではないかと思う。
「あなたの文章は読みやすいですね」という言葉と、
「あなたの作品には、読者を先へ引っ張る力がありません」
という言葉は、似ているようでまったく違う。
前者は励ましになる。
後者は、場合によっては創作そのものを見直すきっかけになる。
私は、相手の不安を心地よく包み込むような占い師的レトリックを持ち合わせていない。
だから、作品について語るなら、できるだけ作品そのものについて語りたい。
賞の名前が立派でも、編集部という看板があっても、そこで交わされる言葉が文学的でも、最後に読者の前に残るのは作品そのものだ。
そこから逃げることはできない。
「賞に応募した」という事実も、「講評をもらった」という経験も、「仲間から評価された」という実績も、作品そのものの代わりにはならない。
文芸の世界では、肩書や看板よりも、原稿を開いた読者が次のページをめくるかどうかのほうがはるかに重要だ。
だから私は、「ガリレオ文芸大賞」に集まった作品を見ながら、少し違った意味で「文芸ゴッコ」という言葉を考えてしまった。
文芸ゴッコとは、文章を書いていることではない。
賞があり、編集部があり、講評があり、仲間がいて、お互いに励まし合っている。
そうした「文芸らしい風景」だけが整っていき、その中心にあるはずの作品そのものが置き去りになってしまうことだ。
それは、書き手にとっても決して幸せなことではない。
なぜなら、厳しい批評を受けなければ、自分の現在地を知ることができないからだ。
マラソンでも、練習仲間から「速くなったね」と言われることと、実際のレースで42.195キロを走り切ることは違う。
創作も、それほど違わない。
外の読者に作品を晒した瞬間、身内の評価だけでは支えきれない部分が必ず出てくる。
賞の看板も、編集者の肩書も、仲間内の賞賛も、作品そのものの代わりにはならない。
最後に残るのは、ただ一つ。
読者が、その物語を読み続けたいと思うかどうかである。
そこまで来たとき、「文芸ゴッコ」は終わる。
そして、そこからが本当の創作なのだと思う。
作品を書いた。
それだけでは、まだスタートラインに立っただけだ。
走り出して、読者に読まれ、評価され、場合によっては厳しい言葉を受ける。
その繰り返しの中で、自分がどこまで走れるのかが分かってくる。
前の記事で書いた「マラソン」という話も、結局はそこにつながっている。
創作に、近道はない。
看板でも、肩書でも、仲間内の賞賛でもない。
最後にものを言うのは、作品そのものだ。
だから、文芸ゴッコが終わったところから、本当のレースが始まる。
