【星の再編物語】|第1部|境界の薄明⑧ 《還るための光》
朝は、もういつも通りの「朝」というだけのものではなかった。
世界が
また新しい姿へと、ゆっくり変わっていく時間だった。
星の再編後、
この世界は、目に見えない層が幾重にも重なっているということを、
人々が少しずつ感じ取るようになっていた。
光はただ地面を照らすために降りるのではなく、
触れたものの内側に眠っていた輪郭を、静かに目覚めさせるために降りていた。
《星の再編・境界の薄明》|第一部|境界の薄明 エピソード集⑧
|薄明化|5
エピソードNo.14 《還るための光》
澪は、その朝も窓辺に立ち、
見慣れた町を眺めていた。
けれど、そのどれもが、
もう、以前と同じではないことを知っていた。
遠くの空には、薄い雲が幾筋もほどけるように流れていた。
その形は、かつて彼女が見た幾重もの螺旋に似ていた。
生まれ、ほどけ、混ざり、また別の形になるもの。
終わりではなく、変化として続いていくもの。
彼女は、そっと胸に手を当てた。
呼吸を確認した。
穏やかなリズムだった。
「どうやって息をするのだっただろう」
そう途方に暮れたことがあった。
あのときのことを、完全に説明することはできない。
けれどもあれは、
別の機能で生きようとさせられる
身体の、必死の抵抗だったのかもしれないと思えた。
肺だけでは届かない場所、
言葉では届かない場所に、
細胞ひとつひとつの感覚が先に触れようとしていた。
人がまだ思い出していない呼吸。
水の記憶を少しだけ残した、古い命の呼吸を。
──
そのとき、部屋の隅で、ふっと光が揺れた。
何もない空間に、ごく淡い、やわらかな光の玉がひとつ浮かんでいた。
白に近い、けれどどこか桃色を含んだ、やさしい色。
そこには、驚きや戸惑いはやってこなかった。
ただ、静かな親しさだけがあった。
光は何かを訴えるでもなく、ただそこにいた。
「在る」ということだけで、充分に意味を持っているように。
彼女は声に出さずに問いかけた。
——あなたは、誰かの記憶なの?それとも、導きの灯なの?
光は答えなかった。
けれど、その沈黙は冷たくはなかった。
むしろ、答えが言葉の形を取る前の、あたたかな水のようだった。
しばらく見つめていると、玉はゆっくりと広がり、
ひとつの球ではなく、幾つもの細かな光の糸でできているように見えてきた。
糸は空中でわずかに震えながら、
互いに影響し合い、寄り添い、また離れた。
そのあり方は、星座のようでもあり、
細胞のようでもあり、
誰かの祈りが形を持ったもののようでもあった。
そして彼女は、これまでのことを、ふいに理解した。
これまでの体験は、
散らばってしまった自分の光を、もう一度、自分の中心へと迎え入れるために起こったのだと。
泣いた日も、
迷った日も、
不思議なビジョンに戸惑った日も。
世界があまりに美しすぎて、胸がいっぱいになった日も。
そのどれひとつとして、彼女を壊してはいなかった。
それらはすべて、彼女の中に散っていた光だった。
その光は、もともと彼女の中にあったものだった。
そのことを、彼女は少しずつ思い出していたのだ。
━━
彼女は目を閉じた。
まぶたの裏には、暗闇ではなく、薄いオレンジ色の空間が広がった。
その奥に、透明な器のようなものが見えた。
かつて「透明のコップ」と呼ぼうとした、あの原初の器。
今それは、より大きく、より静かに、彼女の内側に開いていた。
器の中には、水のようなものが浮かんでいる。
やがて、その中心に一点の光が灯った。
ごく小さな、けれど意志を持つ灯。
灯は揺れながら、次第に細い螺旋を描き始める。
螺旋は互いに干渉し、重なり、ほどけ、また結び直された。
そこには、進化にも似た運動があった。
けれどそれは、上へ上へと登るだけの直線ではない。
何度も還りながら深くなる、円環の旅だった。
━━
彼女は、その光景を見ながら、ようやくわかった気がした。
自分が、はじめからこの不思議と無関係ではなかったことを。
この世界を、ただそのまま、素直に受け取れば良いのだということを。
━━
窓の外で、風が鳴った。
目を開くと、朝の光はもう、少し高い位置にあった。
部屋の隅の玉は、いつのまにか見えなくなっていた。
けれど消えたのではないと、彼女にはわかっていた。
見えなくなっただけだ。
この世界には、見えないまま、確かに在るものが多すぎる。
彼女は窓を開けた。
ひやりとした空気が、頬と喉を通り抜ける。
遠くで鳥が鳴いていた。
どこかの家の庭から、花の匂いがかすかに届いた。
そのどれもが、小さな祝福のように感じられた。
特別な奇跡ではない。
けれど、奇跡よりも深く、日々に溶け込んでいるもの。
この世界の奥行きは、たぶんこういうところにあるのだろうと彼女は思った。
異次元の気配に触れることだけが不思議なのではない。
息ができること。
風が心地よいこと。
誰かのことを思い、感情が胸に満ちること。
それらすべてが、本当はずっと、不思議だったのだ。
彼女は深く息を吸った。
胸は、静かにひらいた。
水の記憶と、空の記憶と、遠い星の記憶とが、ひとつの呼吸の中でつながっていく。
そしてその瞬間、彼女は
自分の内側のどこかで、
まだ名づけられていない新しい層が、
そっと開いたことを感じた。
旅は終わっていない。
けれどもう、終わらなくてもよかった。
還る場所は、遠くにあるのではなく、
こうして一呼吸ごとに、少しずつ灯っていくのだから。
光のように。
螺旋のように。
思い出すように。
朝はもう、 還るための光になっていた。
その背に、見えない星々の配置換えを終えた世界が、
静かに、あたらしい祝福を降らせていた。
—— 第一部 完
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【星の再編物語】『境界の薄明』エピソード集①
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