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資料#7|孫子を最も理解していた戦国武将 ~戦上手とはなにか~

戦上手の定義


『孫子』を読んでいると、
私たちはつい「誰が一番強かったか」を考えたくなる。

戦国時代でいえば、

武田信玄
上杉謙信
織田信長
徳川家康

華々しい勝利や有名な合戦を見れば、
自分が好む名将がいる筈だ。

しかし孫子は、
見方を少し変えよと言っている。

 百戦百勝、非善之善者也。
 不戦而屈人之兵、善之善者也。


百戦百勝は善の善なる者に非ず。
戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。

つまり、
何度も勝つ者が最上ではない。
できる限り損害を出さず、
戦う前に勝敗を決めてしまう者こそ最上である。

これが孫子の基準である。


孫子の基準で見た戦国武将


孫子の基準で考えると、
単なる猛将や、派手な勝利を飾った武将ではなく、
できる限り損害を出さず、
戦う前に勝敗を決めた武将は誰だったかと考えるべきだ。

おそらく、武田信玄を推す人が多いはずだ。
信玄は『甲陽軍鑑』でも軍法家として語られ、
実際に機動、補給、地形利用、情報操作に優れていた。

確かに信玄は、
戦場技術の面で「戦さ上手」が際立っていた。

しかし、孫子が言う「最上の勝ち方」、
すなわち、戦略全体として損を避け、
最後に天下を取るという意味では、
信玄はその達成を見る前に世を去った。

孫子は言う。

 勝兵先勝而後求戦、
 敗兵先戦而後求勝。

勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、
敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。

つまり、
勝つ軍は、先に勝てる条件を整えてから戦う。
負ける軍は、まず戦ってから勝とうとする。

この基準でみれば、
徳川家康が最有力に浮かぶ。

家康は、
信長のように革命的ではなく、
秀吉のように人心掌握の天才でもなく、
信玄や謙信のように
鮮烈な野戦の名手として語られることも少ない。

しかし彼は、
無理な賭けを避け、
勝てない戦いに深入りせず、
同盟・婚姻・人質・外交・城・街道・兵站を積み重ね、
最後に天下を取った。

これは間違いなく「孫子の兵法」の教えを
実践したと言える。


三方ヶ原敗戦後に見えた家康の本質


たとえば三方ヶ原の戦いで、
家康は武田信玄に大敗した。

この敗戦は家康の失策として有名だが、
むしろ重要なのはその後である。

普通の武将なら、
この屈辱を晴らそうとして再戦に執着する。
しかし家康は違った。

信玄の死後、
武田家が弱体化していく時間を待ち、
織田信長との連携の中で、
最終的に武田家を滅ぼす側に回った。

一戦の面目より、
長期の勝利を取ったのである。

これは孫子のいう

 其疾如風,其徐如林,侵掠如火,不動如山

にも通じる。

進撃するときは風のように速く、
静止するときは林のように整然とし、
攻撃するときは火のように激しく、
守るときは山のように動じない。

家康はまさに「不動如山」の人であった。
武田信玄の旗印として有名なこの句だが、
人生全体で最も徹底したのは、
むしろ家康かもしれない。

これらを踏まえると、
やはり家康こそ最も孫子的だった。


徳川家康の戦略


家康の強みは、
戦場で勝つことより、
負けない形を作ることにあった。

小牧・長久手の戦いでもそれが見える。
相手は天下人となった羽柴秀吉。
兵力も勢いも秀吉が上だった。

ここで家康は、無理に決戦して
天下を奪おうとしなかった。

地形を活かし、局地戦では勝ちを拾いながらも、
全面破局を避け、外交も残した。
結果として家康は滅びず、後の天下取りの資格を保持した。

孫子は言う。

 知可以戦与不可以戦者勝。

戦うべきと、戦うべからざるとを知る者は勝つ。

つまり、
戦う勇気だけでは足りない。
戦わない判断こそ難しい。

この点で家康は卓越していた。
勝てる局面まで待ち、
勝てない局面では引き、
時には屈したように見えても、全体では損をしない。
これは臆病ではなく、高度な戦略である。

関ヶ原の合戦も同じである。
あの戦いは一日の会戦として語られがちだが、
実際にはその前段で勝負の大半が決まっていた。

諸大名への調略
上杉討伐の大義
石田三成への反感
毛利家の不統一
小早川秀秋の動揺

家康は戦場に入る前から、
相手を一枚岩でなくしていた。

これもまた、孫子のいう

 上兵伐謀、其次伐交、
 其次伐兵、其下攻城。

上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。
その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。

の実践である。

最上は敵の計画を崩すこと、
その次は敵の同盟関係を壊すこと、
次に軍を撃つこと、
城攻めは下策。

家康はまず「謀」と「交」を崩した。
だから関ヶ原は、見た目以上に孫子的な勝利だった。


武田信玄はなぜ惜しかったのか


信玄もまた、
孫子的武将として非常に完成度が高い。

西上作戦に見られるように、
正面から力任せにぶつかるのでなく、
街道と城を押さえ、
相手に圧力をかけ、
敵の体勢を崩していく。

また、川中島の合戦のような難しい戦場でも、
地形、移動、機動の発想は鋭かった。

信玄には、確かに『孫子』の兵法家らしさがある。
だが、信玄は天下を取る前に病没した。
もちろん寿命や運もあるため、
それを能力の欠如と断じることはできない。

しかし孫子は、
勝利を「その場の会戦」ではなく、
「国家経営を含めた持続的優位」で考える。

そう見ると、
信玄の戦上手は見事であっても、
最終形としては家康に及ばない。


織田信長は兵法家ではなく革命家


信長は、

兵農分離
鉄砲運用
楽市楽座
中央集権化

など、戦国時代の構造そのものを変えた。
言わば、彼は兵法家というより、
戦場のルールを書き換えた革命家である。

そのため、孫子を理解した武将というより、
孫子の時代にはなかった
条件を自ら作り出した人物だといえる。

では結局、戦さ上手とは何か。
それは単に強いことではない。
勇猛であることでもない。
ましてや、一度の会戦で華々しく勝つことでもない。

負ける戦いを避け、
勝てる形を作り、
最後に全体として勝つこと。

この視点を持つ者が、
孫子のいう「善く戦う者」である。

 善戦者、勝於易勝者也。

善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。

名将は奇跡の逆転を狙わない。
勝ちやすい条件を整え、その上で勝つ。
家康の強さはここにあった。
我慢し、待ち、耐え、無理をせず、
だが機が来た時には逃さない。
派手さはなくても、
この積み上げが最後の勝利を呼び込んだ。


まとめ


この資料のテーマは、
孫子を最も理解していた戦国武将とは誰か、である。

孫子の基準で見れば、
負ける戦いを避け、勝てる戦いを整え、
最後に全体として勝つ者こそ、
真の戦上手である。

その視点から戦国武将を見直すと、
私は徳川家康こそ、最も孫子的な武将だったと思う。

派手な英雄ではない。
しかし、無理をせず、
耐え、待ち、機が来れば逃さない。
目先の名誉より、長期の勝利を取る。
この姿勢こそ「孫子」の核心に近い。

そしてこのことは、
現代の私たちにも示唆を与えている。

ビジネスでも人生でも、
重要なのは一度の勝負で目立つことではない。

最後に残ること

最後に勝つこと

である。

孫子が教える戦さ上手とは、
負けない形を作り続けた者である。
戦国の世で、その極みに最も近づいたのが
徳川家康だったのではないだろうか。


孫子の兵法シリーズ目次 ※最新記事までの全話が確認頂けます


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